「許されない」の履き違え | “迷い”と“願い”の街角で

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

この世には、決して許してはならないことがあります。
しかしながら、そもそも「許してはならない」とは何を意味しているのでしょうか。

時々、特にインターネット上で、有名人・著名人が過去に行ったことが蒸し返され、炎上することがあります。
これについて、もう過去のことと言えば、「決して許されないことだ」という反論がなされます。

こうして、いつまでも責められ続けることが、「許されない」ということなのでしょうか。
一度でも過ちを犯したら、永遠に、周囲から、傷つけられ、痛めつけられることを甘受しなければならないのでしょうか。
社会の一員として平穏に暮らすことを阻まれ続けなければならないのでしょうか。

これについて、「許してはならない」とは、社会としてそのままにはしておけない、放置すれば様々な大切なものが毀損されるおそれがあるものと思われます。
社会の、人々の生命、平穏、幸せといった価値あるものを守るためにこそ、向き合い、戒めなければならないことがあり、これが「許してはならない」ことなのでしょう。
それでは、過去の過ちを掘り返し、後ろ指を差し続けることはこれに適したことでしょうか、大切な何かを守ることにつながるでしょうか。

過去のことを掘り返して責めることが正当化されるとしたら、その過ちを反省せず、罰を受けず、機があれば同じことを繰り返すなど、またさらに大切なものを傷つけるおそれがある場合でしょう。
そうでなければ、単に誰かを叩きたいという欲求を満たす名目に使っているに過ぎません。

それでも、許されない行為を責めるのは当然だと、正しいことだというでしょうか。
過去に、「正しさ」の御旗による誹謗中傷で何人もが傷つき、場合によっては生命を失ってきました。
このような結果を招いたとき、叩いた人は、許されないことをしたとして、同様に自身が一生後ろ指を差される覚悟があるのでしょうか。

このような叩きの連載は、人を不幸に導く負の渦巻きを社会の中で日に日に大きくしているように感じられてなりません。

(追伸)

6月に実家の近くにある石神井公園を訪れた際の写真。紫陽花も終わりの頃でした。