タイトルを「D-Words-easy」から「“迷い”と“願い”の街角で」に変えました。これからも、少しずつでも、社会や人などについて、ふと思うことを書いていきたいと思います。大したことは出来ないと分かっていても、それでも道を進むため、少しでも何かを紡ぐため。
政治家と旧統一教会との深い関わりについては、安倍晋三元首相が殺害されたことを契機に、度々問題視されてきました。
これに関して、よく提起される疑問が、日本の国益や国柄を重視し、韓国等には敵対的な姿勢を取りがちな「保守」を称する人達が、日本を貶め韓国を利するような旧統一教会の問題について、沈黙したり、場合によっては、擁護したりしていることです。
もともと、昨今称される「保守」については、日本の伝統・文化を重んじるとする一方、天皇の男系男子への限定、夫婦同姓の堅持など、歴史を遡れば必ずしも日本の長い伝統とは言い切れないものに固執するなど、実際のところは何を信奉しているのか疑問を感じるところがありました。
これを考え続けてきましたが、ようやく最近分かってきたような気がします。
昨今称される「保守」が守りたいのは、より強い者に従い、より弱い者を支配する序列的な秩序なのではないでしょうか。
その最も強い依り代が「国」であるに過ぎず、必要なのはその強さと序列の基準という意味でのみの伝統・文化ですので、それに活用できないような伝統・文化には興味がなく、相反すれば無視します。
社会や共同体としての「日本」が大切なのではなく、その中で自分の序列を基礎付けてくれる依り代としての「国」が大切なのでしょう。
このため、彼らの最大の敵は、序列を乱す「平等」であり、万人に認められる「人権」です。
逆に、旧統一教会の反社会的な活動については、序列下位の人達がどれだけ被害を受けてもあまり関心はなく、むしろ序列上位の権威者と結びついている以上、旧統一教会を否定することが、序列秩序を毀損することにつながるため、消極的にならざるを得ません。
それどころか、序列上位の権威者の優位を確保し、序列下位の人達を貶めることによって、序列の強化・固定化に資する意味では、旧統一教会は「保守」の強い味方とさえいえるのではないでしょうか。
関心の対象が社会全般でないことから、少子化や貧困の問題解決にも積極的ではなく、むしろ、少子化対策は女性や子供の人権を向上させるために消極的になり、新自由主義や自己責任論による格差拡大は、序列を強化させるため、好意的にも受け取られます。
しかし、時折指摘されるように、本来の保守は、このようなものではなかったと思います。
愛国心を持つのは良いことですが、それは、その「国」に人が含まれている場合だけです。
自分の序列を基礎付ける権威としての「国」を大切にしたところで、その「感情」は「愛」とは遠く離れたものと思えてなりません。
(追伸)
昨年末に家族で見たイルミネーション。速いもので、いつの間にか年が明けて1か月も経ってしまいました。
































































































