“迷い”と“願い”の街角で

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

タイトルを「D-Words-easy」から「“迷い”と“願い”の街角で」に変えました。これからも、少しずつでも、社会や人などについて、ふと思うことを書いていきたいと思います。大したことは出来ないと分かっていても、それでも道を進むため、少しでも何かを紡ぐため。

自由には責任が伴うと言われますが、自分の意思で決めた行動に対して起きたことは、全て甘受しなければならないのでしょうか。
自分の意志で就職した企業がブラック企業だった、暗い夜道を帰宅中に犯罪被害にあった、意を決して自分の窮状を訴えたらバッシングに遭った、このような「被害者」を「自分の選択に責任を負え」と批判する向きもみられます。

しかしながら、これらは本当に自由に伴う責任なのでしょうか。
行動に対する理不尽で過度な負担は、本来負うべき責任とは考え難く、そもそも、そのようなものを負わされる以上、そこに自由があるとはいえないでしょう。
そこに自由があるとしてしまうと、極論すれば、拳銃を突きつけられて金銭を脅し取られた場合でも、金銭を出せずに殺されるという選択もできたのに、自分の意思で金銭を出したという理屈さえ成り立ってしまいます。

さらにまた、このような被害者の選択に責任を負わせる理屈の悪質なところは、意識的にか、無意識的にか、加害者の自由な選択による加害行為の責任を不問に付しているところです。
「自由と責任」を問いながら、その実、それらを大きく履き違えた、自由なき責任を押し付け、責任なき自由をはびこらせるようなものとなっています。

一見、もっともらしい内容でありながら、実は、その正反対の方向にある主張は珍しくありません。
世の中を腐らせないようにするためには、これらを適切に見分ける必要があると思います。

(追伸)
速いもので、今年も折り返しになってしまいました。






























先日、7歳の娘を美容室に連れていきました。

まだまだ様々な場面で、他人に対して控えめで臆しがちですが、散髪は嬉しそうで、これも小さな成長の証なのかなと思いました。


あれだけ小さかった娘が、一人で椅子に座って髪を切ってもらっている。それを少し離れた椅子に座って見ていました。

外は春の麗らかな陽気で、花壇にはチューリップをはじめとした春の花々が綺麗に咲いていました。

ラジオからは心地のよい音楽が流れていました。


ふと全てが満たされ、時が止まったように感じました。

気取った言い方になってしまいますが、完璧な瞬間、一瞬の永遠とでもいうような感覚でしょうか。


時折、このようなことがありますが、それは、旅行や学校行事など、大きなイベントなどではなく、日常の中でふと訪れます。


このような時間があることを幸せに感じると同時に、大切にしたいと思いました。


(追伸)

先日、家族で四季折々の花々が楽しめる公園に行きました。この時期は、チューリップ、芝桜、ネモフィラが綺麗に咲いていました。






























他人のためを思えば、あえて厳しく接しなければならない時もあるのでしょう。

しかし、同時に、それはとても難しいことです。

相手を傷つけ、関係を壊してしまうおそれもあるほか、誤解があれば、かえって相手の不利益になる可能性もあります。


一方、厳しくすることが難しいのは、「本当に相手のことを思えばこそ」です。

相手に対する共感がなければ、相手に配慮する姿勢がなければ、どれだけ辛辣な態度をとり、どれだけ深く傷つけても、心は痛まないでしょう。相手のことを思っていなければ、厳しくすることは簡単です。

そして、このような自己中心性から他人に辛辣に当たる人ほど、「厳しくすることは難しい」「あえて心を鬼にして」などと声高に叫んで、自らの行いを正当化しがちです。


相手のためにこそ厳しく接すべき場合があるということが正しいとしても、その正しい言葉を盾にした自己中心的で邪な行為を許してしまえば、多くの人が傷つくだけでなく、世の中自体を歪ませてしまうように思います。

そのような本質が見極められる社会であってほしいと願います。


(追伸)

あっという間に時期が過ぎ去りましたが、自宅近くの桜の木々は今年も綺麗でした。












ある民主主義国家のお話です。

ある国が、民主主義で運営されることとなりました。


選挙で選ばれた代表は、自分に投票した人だけでなく、全国民の利益になりよう、皆の声を聴いて意思決定をしようと心がけました。

しかし、皆の声を聴くと、それぞれの希望が一部しか通らず、皆が不満を抱くようになりました。

そしてついに、その代表は、解任されてしまいました。


次に選ばれた代表は、前任の過ちを繰り返さないようにと考えました。

皆の声を聴くと失敗するならば、一部の人の声は聞かず、多数派の声を聞こうと考えました。

最初はうまくいきましたが、ある内容では多数派の人が、別の内容では少数派になるなど、その都度多数派に合わせても、常に自分の意見が通り続ける人は少なく、やがて不満が増えていき、その代表も解任されてしまいました。


その次の代表は、これまでの失敗を踏まえて、特定の者の利益を最重視することとしましたが、問題は誰にするかです。

その社会には、他人の声に耳を貸さない、独善的な、そして、意に沿わない人間には徹底的に嫌がらせをしたり、その人の悪口を言いふらしたりする一派がおり、歴代の代表の悩みの種でした。

今度の代表は、彼らを利用することにしました。彼らの言い分を最大限聞き、彼らを擁護する見返りに自分を支持させたのです。


この代表のやり方には、常に批判がありましたが、支持者はあの手この手で批判する人への嫌がらせ、中傷、攻撃を行い、代表もそれを黙認しました。

批判する人も、執拗な攻撃と変わらない現実に絶望し、少しずつ減っていきました。

そのうち、この社会は、①代表と利害の一致した支持者、②支持者と同調して批判する人を攻撃し、憂さ晴らしをする人、③代表を批判して攻撃され続ける人、④諦めてい無関心になる人に分かれました。そして、陰鬱としつつも安定した状態が続きました。

代表は、これこそが最も効果的な民主主義国家の運営方法だと自信を強めました。


ところが、その代表が突然病死してしまいました。

不満を溜めていた批判者や傍観者が反撃に転じた一方、支持者や同調者もそれを阻もうと攻撃し、社会は混乱しました。

これまで代表黙認の下、嫌がらせや中傷で社会を安定させていたため、正義や公正、平等、博愛、共生といった奇麗な建前はもはや通用しません。これらには力がないと皆が気づいてしまっていたのです。

果たしてこの社会はどうなっていくのでしょうか。


(追伸)

先日、親類のいる埼玉県宮代町を訪ねましたが、東武動物公園近くの川沿いの桜が満開で、とても綺麗でした。

















前回ご紹介した河野啓「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」では、インターネットを活用して支持を広げた栗城氏が、ある時期から一転、インターネットを通じて集中的な批判を浴びるようになったことが記載されています。
一概には言えませんが、このインターネットを介した手のひらを返したような批判が、栗城氏を無謀な行動に駆り立てた可能性は十分考えられます。

「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」の著者も、栗城氏の多分に未熟な側面を指摘しており、それが批判を招くことになったのでしょう。
未熟さが厄介なのは、その未熟さを越えていくために必要な他人の助言や支援を、その未熟さゆえに受け入れられないことです。
栗城氏にも助言する先達等がいましたが、その声には十分耳を傾けず、逆に一度は自分を称賛した顔なきインターネット上の声に惑わされていったようにも思えます。

しかし、ではインターネットで批判した人達は、栗城氏のことを言えるほどに成熟しているのでしょうか。
そもそも、インターネットで執拗に批判・攻撃すること自体、成熟した人がやることではない、未熟さの表れといえます。
むしろ、自分の未熟さから目をそらしたり、自分はまだ成熟している方と正当化したりするために、自分よりも未熟な側面を持つ他人を叩いているようにも感じます。

人は誰しも未熟な時期がありますし、どれだけ成熟を重ねても、多少なりとも未熟な側面は人生が終わるまで持ち続けるのではないでしょうか。
大切なのは、互いに未熟さを受容して、成熟し合うこと、逆に、他人の未熟さを叩くことは、むしろ自分の未熟さを甘やかし、成熟を妨げることにも思えます。

その意味では、他人叩きの横行するインターネットは、誰しもを未熟なままに絡め取る空間なのかもしれません。
さらに、もともと「世間」という得体のしれない力が徘徊する日本では、インターネット世論の力が不当に強化されているようにも感じます。
だとすれば、日本社会は、ますます人が成熟しない空間となってしまうのではないか、そのような不安が頭を過ぎりました。

(追伸)
2月に仕事で1日をおいて2回、群馬県前橋市を訪問しました。
平成19年から2年間一人暮らしをし、また、28年から4年間家族で暮らした思い出の場所です。
今回、1回目は偶然にも雪が降り積もり、2回目は幸い道の雪も消え、薄っすら雪化粧の赤城山が綺麗でした。












河野啓「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」を読了しました。
35歳でエベレストにおいて滑落死した登山家・栗城史多氏。その生前から彼を取材していたテレビディレクターである著者が、彼の実像に迫ったものです。
https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-744479-7

「夢の共有」をキャッチコピーに、メディアやインターネットを活用して、共感と支持を広めた異色の登山家。
一方で、登山界を中心に、見栄えを求めて登山への真摯な姿勢や地道な努力を欠いたと批判する声もありました。

著者は、夢を掲げて独自の方法で登山に取り組む栗城氏に魅力を感じ、その後、誠意を欠くような姿勢に疑問を感じ始めます。
そして、エベレストでの滑落死につながっていく行動の不可解。
栗城氏の真意や虚実を見極めるべく、本書は綴られていきます。

本書を読む前、そして、その中盤までは、インフルエンサー登山家の裏の顔を暴くような趣旨だと思っていました。
しかし、そのような単純な話ではありませんでした。

浮かび上がる栗城氏の様々な側面、これらはそれぞれ大きく異なり、一見矛盾するようにも思えますが、そのいずれもが真実ともいえる。虚と実に二分できない、複雑で、混乱した姿。
その末に、著者は最後の真実を見出していきます。

人間が、様々な相反する部分を持ち、矛盾の中で生きている複雑な存在であることを改めて思い起こさせる本でした。

(追伸)
1月には、2回にわたって山梨県に出張。1回目は山中湖、2回目は甲府を訪れました。
昨年、河口湖を訪れた際は悪天候でしたが、今回は晴天で、山中湖に行く途中で見た富士山がとても綺麗でした。









お正月、実家の近くの石神井公園をゆっくりと散策しました。
冬の景色も、とてもいいものですね。

そこでふと、冬の景色の、雪景色ではない普通の景色のどこに魅力を感じるのだろうと、自分で不思議に思いました。

春のように綺麗な花々が咲き誇るわけではありません。
夏のように生命力あふれる緑が力強く生い茂るわけではありません。
秋のように優美に木々が紅葉に染まるわけではありません。

そこでまたふと思いました。
冬の魅力は、「ない」ことではないか、と。

木々に葉がないため、広く見渡せます。
空気中の水分が少ないため、景色をくっきり見て取れます。
これにより見られる他の季節では見られない景色が、冬の魅力なのかもしれません。
「ない」ことさえも魅力になり得るならば、本当に魅力とは、多面的なものなのだと思います。
















お正月に実家のある石神井町に行きました。

石神井公園駅の南口の駅前商店街が再開発され、大きく姿を変えるようです。
駅前の目立つ場所にあり、小さい頃から慣れ親しんでいたベーカリー「サンメリー」もこれに伴って閉店してしまいました。

昔からある店が、街並みが消えてしまうのは寂しいですし、この街の個性がなくなることも心配になります。
また、再開発で建てられるビルは商業施設、役所、高級マンションが入るようですが、商業施設も軒並み高級路線になれば、庶民には暮らしにくい町になるかもしれません。
考えすぎかもしれませんが、利益を出したい事業者と税収を増やしたい自治体が、その地で育まれた風土を一掃し、意向に適うものに置き換えるというのであれば、それは悲しいことです。

一方で、建物は老朽化しますし、人は年を取る、その中で、全て昔のままというのは無理な話です。
また、街作りには経済活動が、必然的に様々な思惑や欲求がついて回ることは致し方のないことなのでしょう。
そして、私が慣れ親しんでいた街も、さらに昔の先人達が慣れ親しんでいた街を壊して作られたものにほかなりません。

移り行く町並みにどう向き合えばよいのか、寂しさと迷いを土産にしたお正月でした。







また空気が変わったのかもしれない。
ジャーナリストの櫻井よしこ氏のX投稿に関するニュースを見て、そう感じました。

同氏の投稿は次のようなものでした。
《「あなたは祖国のために戦えますか」。多くの若者がNOと答えるのが日本です。安全保障を教えてこなかったからです。元空将の織田邦男教授は麗澤大学で安全保障を教えています。100分の授業を14回、学生たちは見事に変わりました》

これに対して、「若者の戦争参加を当然視するような物言いの一方で、“自身には戦う意思があるのか?”と非難が後を絶たない」とのことです。

少し前であれば、櫻井氏を擁護し、「日本人は平和ボケ」「戦後の左傾化教育の弊害」などと反対する者を批判する意見も相当多かったように思います。
インターネット上の情報も偏るため、これだけで潮目が変わったとも言い切れませんが、変わったとすれば、どのような原因があるのでしょうか。

一つ考えられるのは、ウクライナ戦争やガザ地区の紛争で、戦争等の悲惨さがまざまざと伝わってくることです。
これまでも戦争はありましたが、日本はどちらかといえば、同盟国である大国アメリカからの視点、つまり強者の視点でみていたように思います。
しかし、今回、西欧や日本が支持するウクライナは、ロシアと比べて小国、その国民の悲惨な現状が今までより我が身のように感じられるのではないでしょうか。
また、ガザ地区を巡る紛争は、罪のない多くの人を巻き込んだ報復の繰り返しに、始まれば現場では正義も悪もない恐ろしさを再認識させられます。

また、国政の中枢にいる政治家が、生活苦を招く物価高等に有効な対策をせず、一方で、裏金作り等の背信行為を行っていることが露見したことも大きいでしょう。
このような権力者の主導で戦争に駆り出されたら、安易に捨て駒にされて、無駄死にさせられると考えても不思議ではありません。
その意味では、国防に熱心であり、熱烈な支持者が多かった安倍晋三元首相の死去も影響しているのかもしれません。

戦争は、一見祖国を守ることのように見えて、権力者の満足のために自国民を捨て駒にして他国民を排除する点で、最大限の警戒が必要です。
一方で、国際情勢、そして、欲望に振り回される人間の本質をみたとき、国防に無関心という状態も決して望ましくありません。

そのバランスを保つことが何よりも大切で、何よりも難しいのでしょう。
とにかく、戦争の回避を最優先とし、最後まで開戦を防ぐこと、不幸にも戦争に突入した場合には、「戦争ならば人が死んで当たり前」と流されず、人命の犠牲を最小限にするような方法を採ること、命を守ることに、皆で生きることにこだわり続けなければならないのでしょう。
しかし、平時でも、一人一人の命が、個々の人生が軽んじられる今、それができるのか、危惧せずにはいられません。

(追伸)
新年に家族で訪れた東武動物公園のイルミネーション。昔も来たことがありましたが、さらにきらびやかになっていました。















ウルトラシリーズ最新作のウルトラマンブレーザーが最終回を迎えました。
かつては1年間だった放送期間が今は半年になったようですが、その分クオリティの高いものができているように感じます。

そして、この最終回には、本当に考えさせられるものがありました。
以降で物語の核心部分に触れますので、ご注意ください。

これまで複数の宇宙怪獣を地球に送り込んできた存在V99が、最強の怪獣を送り込むとともに、自らも宇宙船団を編成して飛来します。
V99の正体や目的を探る防衛チームの一員アオベエミでしたが、既に引退した防衛組織の元長官ドバシユウに妨害され、拘束されてしまいます。
V99との全面戦争が迫る中、救出されたアオベエミは、たどり着いた真実をドバシユウに突きつけます。

1999年に地球に飛来した隕石を防衛組織が破壊したとされていましたが、それは隕石ではなく、異星人の乗る宇宙船で、それこそがV99でした。
その撃墜を命じたのは当時の長官であったドバシユウでしたが、調査の結果、宇宙船に武器はなく、侵略の意図はなかったことが判明、ドバシユウはその事実を隠蔽していました。
V99は、移動中に正当な理由なく同胞を撃墜した地球を危険視し、宇宙怪獣を送り込んでいたのです。

アオベエミは、V99に対して、地球側に攻撃の意思がないことを伝えることを提案、一蹴するドバシユウでしたが、アオベエミはドバシユウに言います。
「あなたはやるべきことをやったのだと思います。だから今度は、私達にやるべきことをやらせてください」

地球側の意思はV99に通じ、船団は撤退。ウルトラマンブレーザーと防衛チームは、残された最後の宇宙怪獣との決戦に挑みます。
全てが終わったとき、ドバシユウはアオベエミに「あとは任せるよ」と言い残して去っていきました。

地球を守るために宇宙船の撃墜を決めたドバシユウ、しかし、結果的にその行為は、何の罪もない異星人の命を奪うとともに、地球を危険に晒すことになりました。
ドバシユウは、その罪悪感と恐怖に苦しみ続けていたのではないでしょうか。
隠蔽を続けた際の冷淡、傲慢、戦争が迫る中の焦燥、嘲笑、そして、危機が去った後の穏やかさ、自分を責め続けたドバシユウは、アオベエミによって許され、救われたように思います。
(なお、ドバシユウを演じたのは寺田農さん、悪人も善人も演じこなすベテラン俳優こその演技と感服するほかはありません。)

自らの過ちを隠し、正当化するために新たな過ちを犯す一方で、他人の過ちを徹底的に責めて傷つける。
そのような光景が溢れかえる世の中で、過ちを正しつつも、それを許し、それを踏まえて正しい道を切り開こうとする姿勢は、奇麗な理想論かもしれませんが、作り手の強いメッセージと感じます。
アオベエミがV99の説得のために最後に送ったメッセージは「未来」でした。

(追伸)
昨年最後の想い出。仕事で訪れた宇都宮、3年ぶりの訪問でした。