命を守ることにこだわり続ける | “迷い”と“願い”の街角で

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

また空気が変わったのかもしれない。
ジャーナリストの櫻井よしこ氏のX投稿に関するニュースを見て、そう感じました。

同氏の投稿は次のようなものでした。
《「あなたは祖国のために戦えますか」。多くの若者がNOと答えるのが日本です。安全保障を教えてこなかったからです。元空将の織田邦男教授は麗澤大学で安全保障を教えています。100分の授業を14回、学生たちは見事に変わりました》

これに対して、「若者の戦争参加を当然視するような物言いの一方で、“自身には戦う意思があるのか?”と非難が後を絶たない」とのことです。

少し前であれば、櫻井氏を擁護し、「日本人は平和ボケ」「戦後の左傾化教育の弊害」などと反対する者を批判する意見も相当多かったように思います。
インターネット上の情報も偏るため、これだけで潮目が変わったとも言い切れませんが、変わったとすれば、どのような原因があるのでしょうか。

一つ考えられるのは、ウクライナ戦争やガザ地区の紛争で、戦争等の悲惨さがまざまざと伝わってくることです。
これまでも戦争はありましたが、日本はどちらかといえば、同盟国である大国アメリカからの視点、つまり強者の視点でみていたように思います。
しかし、今回、西欧や日本が支持するウクライナは、ロシアと比べて小国、その国民の悲惨な現状が今までより我が身のように感じられるのではないでしょうか。
また、ガザ地区を巡る紛争は、罪のない多くの人を巻き込んだ報復の繰り返しに、始まれば現場では正義も悪もない恐ろしさを再認識させられます。

また、国政の中枢にいる政治家が、生活苦を招く物価高等に有効な対策をせず、一方で、裏金作り等の背信行為を行っていることが露見したことも大きいでしょう。
このような権力者の主導で戦争に駆り出されたら、安易に捨て駒にされて、無駄死にさせられると考えても不思議ではありません。
その意味では、国防に熱心であり、熱烈な支持者が多かった安倍晋三元首相の死去も影響しているのかもしれません。

戦争は、一見祖国を守ることのように見えて、権力者の満足のために自国民を捨て駒にして他国民を排除する点で、最大限の警戒が必要です。
一方で、国際情勢、そして、欲望に振り回される人間の本質をみたとき、国防に無関心という状態も決して望ましくありません。

そのバランスを保つことが何よりも大切で、何よりも難しいのでしょう。
とにかく、戦争の回避を最優先とし、最後まで開戦を防ぐこと、不幸にも戦争に突入した場合には、「戦争ならば人が死んで当たり前」と流されず、人命の犠牲を最小限にするような方法を採ること、命を守ることに、皆で生きることにこだわり続けなければならないのでしょう。
しかし、平時でも、一人一人の命が、個々の人生が軽んじられる今、それができるのか、危惧せずにはいられません。

(追伸)
新年に家族で訪れた東武動物公園のイルミネーション。昔も来たことがありましたが、さらにきらびやかになっていました。