誰しもを未熟なままに絡め取る空間 | “迷い”と“願い”の街角で

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

前回ご紹介した河野啓「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」では、インターネットを活用して支持を広げた栗城氏が、ある時期から一転、インターネットを通じて集中的な批判を浴びるようになったことが記載されています。
一概には言えませんが、このインターネットを介した手のひらを返したような批判が、栗城氏を無謀な行動に駆り立てた可能性は十分考えられます。

「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」の著者も、栗城氏の多分に未熟な側面を指摘しており、それが批判を招くことになったのでしょう。
未熟さが厄介なのは、その未熟さを越えていくために必要な他人の助言や支援を、その未熟さゆえに受け入れられないことです。
栗城氏にも助言する先達等がいましたが、その声には十分耳を傾けず、逆に一度は自分を称賛した顔なきインターネット上の声に惑わされていったようにも思えます。

しかし、ではインターネットで批判した人達は、栗城氏のことを言えるほどに成熟しているのでしょうか。
そもそも、インターネットで執拗に批判・攻撃すること自体、成熟した人がやることではない、未熟さの表れといえます。
むしろ、自分の未熟さから目をそらしたり、自分はまだ成熟している方と正当化したりするために、自分よりも未熟な側面を持つ他人を叩いているようにも感じます。

人は誰しも未熟な時期がありますし、どれだけ成熟を重ねても、多少なりとも未熟な側面は人生が終わるまで持ち続けるのではないでしょうか。
大切なのは、互いに未熟さを受容して、成熟し合うこと、逆に、他人の未熟さを叩くことは、むしろ自分の未熟さを甘やかし、成熟を妨げることにも思えます。

その意味では、他人叩きの横行するインターネットは、誰しもを未熟なままに絡め取る空間なのかもしれません。
さらに、もともと「世間」という得体のしれない力が徘徊する日本では、インターネット世論の力が不当に強化されているようにも感じます。
だとすれば、日本社会は、ますます人が成熟しない空間となってしまうのではないか、そのような不安が頭を過ぎりました。

(追伸)
2月に仕事で1日をおいて2回、群馬県前橋市を訪問しました。
平成19年から2年間一人暮らしをし、また、28年から4年間家族で暮らした思い出の場所です。
今回、1回目は偶然にも雪が降り積もり、2回目は幸い道の雪も消え、薄っすら雪化粧の赤城山が綺麗でした。