恥ずかしながら、行って初めて ここが武田氏の居館(本拠地)「躑躅ヶ崎館(ツツジガサキヤカタ)」跡、と知りました。
↑でも 「じゃここが大手門?」かと思ったら、違ったりー・・・^^;)
↓ともあれ_館南の堀を渡ります。
↓説明板。
「国指定史跡 武田氏館跡(躑躅ヶ崎館跡)
「武田氏館」は「躑躅ヶ崎館」とも呼ばれ、武田信玄の父、信虎が、永正十六年(1519)に石和(イサワ)からこの地に、館を移したことから始まります。その後、信玄・勝頼と、武田家当主の館として使われました。そして武田家の滅びた後、文禄年間に館の南方に今の甲府城が作られるまでの、約七十年にわたり、この館一帯は、領国の政治・経済と文化の中心地として発展しました。
館は、一辺が約二百メートルの正方形の主郭(現武田神社)を中心に、その回りのいくつかの副郭とによって構成された平城形式のものです。館の回りには、家臣の屋敷が建てられ、南方一帯には格子状に整備された道路に沿って、城下町が開けていました。
この館と城下町は、戦国時代の大名の本拠として、第一級の規模と質を誇るものです。」 だそうです。
↓「主郭土塁」について。
↑「参道は、武田神社創建時に切り開かれた通路であり、武田氏館(躑躅ヶ崎館)の正門は「大手」と呼ばれる東側である。本来、ここは主郭の南土塁が続いていた。
階段両脇にある神社石積の修理に伴い土塁断面を確認することができ、地層の観察により、館が築かれてから廃絶するまでに堀や土塁の修理や拡張が5回にわたっていることが判明した。」 そうです。
石段を上がりましょう。
鳥居脇の狛犬達。
(↑頭が高い位置にあるので 近くから見上げると 顔がよくわからない・・・)
↓「武田神社全図」
↓参道をまっすぐ進むと社殿があります。
手水舎。
武田の紋の形の水盤。
↑こちらはコロナ以前から「滴る式」だった模様ー。
↓北側から見た手水舎。
↓普通なら懸魚が掛かる場所に鶏?いや鳳凰?
(↑絵馬舎も兼ねているのか「奉納算額」も掛かっていました。)
↓拝殿前へ。
祭神は 信玄公。
創建は大正8年(1919)。
_Wikiによると_ 創建なるまでには 明治政府の信玄に対する評価の変遷 甲斐の人の上杉謙信に対する対抗意識 (因みに謙信を祀る上杉神社は明治4年(1871)にできています) などなど いろいろあったようで、興味深いー。
(↑拝殿西側に さざれ石)
_武田神社は 甲斐の人の誇り、そのものなんですねー。
社殿裏手へ。
↓拝殿の北に神殿。(よく見えませんでしたが)
↑幾重にも垣や塀が巡らされていて 聖域が大切に守られているのを感じさせられます。
↓拝殿東に小さな井戸がありました。
「信玄公、御使用井戸_」
「躑躅ヶ崎館の中心部に掘られた井戸で、当時の生活をしのばせる貴重な遺構である。」とのこと。
井形に敷いた枠石の下の丸井戸は、覗くと井戸は 今も水をたたえていました。
↓説明版。
↑「躑躅ヶ崎館(武田氏館)跡
この地は 武田氏三代(信虎、信玄、勝頼)の居館にして、躑躅ヶ崎の西方にあるところから 後世この別称を用いたと伝えられる。 屋形一帯の壕塁、縄張りは左図の如き構成でほぼ現存し、往時を偲ぶに足る。居館中心地域については各説あるも、一応左図の如き屋形配置が想像される。」
社殿東の 宝物殿へ行ってみます。
どんなご縁であなたがここに? な感じのキティちゃん。
入り口。
館内では 「孫氏の旗」(「疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山」と書かれた旗。)、信玄公の軍扇、武田家に伝わる具足、武将図像 合戦図 などなどを拝見ー。
って、管内は撮影禁止でしたので ↑これが精いっぱいのお土産^^;)
授与所では 絵馬やお札の他、「千歳飴」も売られていました。
そうそう、こちらの絵馬には 信玄公が描かれたもの、風林火山と書かれた軍配形のもの、川中島の合戦が描かれたもの、お宮参りの図~ がありましたよ。
社殿西側も歩いてみます。
↓これは菱和殿、という建屋。
(↑武田の紋からの名でしょうね?)
↓かわいいお着物のお子さんが 親御さん達と入って行くのが見えました。七五三の御祈祷を受けるのに ここから社殿に上がるのかな?
(↓近くで見かけた お参りの記念撮影をする方々)
↓その西隣は社務所。
↓その南側には水琴窟。
↓近くには姫の井戸、なるものも。
↑飲めるお水、だそうです。
能舞台もありました。
「甲陽武能殿」、
「甲斐武田氏の軍学書『甲陽軍艦』に因む名」だそう・・・。
近くの榎の大木の下に 石の祠。
「榎天神」だそう。
学生さんに人気のお参り処らしく、そばの絵馬掛けには 「学業成就 合格祈願」と書かれた天神さんの絵馬が沢山掛かっていましたよ。
尚、このあたり_
社殿の南は、 もともとはお庭だった、そうです。
お館からは 池の向こうに築山が そしてその向こうに富士山が見えたはず~ とか。/ へえー!
その他~
境内では烏骨鶏を何羽も見ましたよ。
放し飼いになっているようでした。
後で知りましたが、
烏骨鶏は中国では霊鳥として扱われていた~のですって。(週に一度しか卵を産まないところから付加価値が上がった? 明の頃は高貴な身分の人しか食せなかったそうなー。)
さて、そろそろおいとま いたしましょう。
ありがとうございました。
(↑富士山はどのへんに見えるの、かなあー?)
続いては昇仙峡へ向かいます。