ガマガエル
今日は昼過ぎに大学から帰って、夜に仕事でちょっと京都で用事があったので、そのあいまに延暦寺に登ってきました。
坂本から比叡山の根本中堂に行く道は、大きく三つありまして、
本坂・・・日吉大社からまっすぐ延暦寺根本中堂まで直登する道。
蟻ヶ滝道・・・ケーブル坂本駅からケーブル延暦寺駅まで登る道。
無道寺谷道・・・上の入口から南に3分下ったところにある千日回峯行の道。
があります。一番早いのは本坂道(だいたい1時間)なのですが、今日は無道寺谷道へ。無道寺谷を通って、ケーブル延暦寺を経て、根本中堂まで1時間半くらいで行けます。
途中、山道で茶色い塊がうごめいていたので、「モグラかな?」と思ったら、立派なガマガエルでした。けっこう太っていて、ちょっとおいしそうでした。
根本中堂からは、本坂を下りましたが、暗くなってきたので、途中で悲田谷という谷道にそれました。この道は、下のほうで横川中堂に向かう広い林道につながるので、そちらのほうが安全だと思ったのですが・・・。
夕方5時の時点で谷道は真っ暗で、懐中電灯が必要なくらい。いたるところで野鳥や野獣の鳴き声が聞こえ、なんだか不気味。
しかも途中、至近距離で「バキッ、ガサガサ」と音がして、巨大な影が谷を登っています。「まさかクマ?」と恐れながら目をこらしてみたのですが、よくわかりません。たぶんシカでしょう。30メートルくらい上のところで、真っ暗な森のなかから両目が光ってました。
比叡山では薄暗くなってくるとシカに会うことが多いのですが、誰もいない山道で突然「キャンキャン」と大声で叫ばれたり、ガサガサバキバキと音がするのは、ほんとうに心臓に悪いです。ホラーの名作「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」が頭の中で再生されながら、山を下りました。
3時半に登り始めて、6時前に戻ったので、だいたい2時間半の散歩でした。
業務連絡
急に涼しくなりました。おかげで、これまで暑すぎて進まなかった翻訳の見直しが、ようやく進むようになりました。
昔から私は春から夏にかけての蒸し暑い季節が大嫌いで、ずっと秋と冬が好きでした。常夏の国なんて、私にとっては地獄以外のなにものでもないです。どこかに「常秋の国」はないものでしょうか。あればいつか移住したいと思っています。
ところで、タルドの訳を出してから(正確には出す前からですが)、よく「Mucchielliの論文を読んだのか」とか「どう思うか」という内容の質問を受けるようになりました。いや、当然読んでますよ!ということで、以下は同じ質問をいただいたN先生への答えで、一般の方々にはなんの関係もない業務連絡ですが、N先生のメアドを知らないのと、これからも同じ質問があったときのためにいちおう。
その論文は、Tardomania?(訳したら「タルド狂?」)というもので、近年のフランスにおけるドゥルーズ派を中心としたタルド著作集の刊行や再評価を試みる動きについて学説史家の立場から批判したものです。ただその議論が・・・。学説史における評価と思想における再評価の意味がごっちゃになっていて、どうにもかみ合ってない。
批判された当のB. Latourが「(Mucchielliの)歴史主義には賛成できない。われわれが死んだ思想家を扱うもっともよい仕方は、死んだ思想家をあたかも生きている人物であるかのように、現代のわれわれが思考することを助けてくれる人物として扱うことである」と述べていますが、こちらのほうがまともな立場じゃないかと思います。そのほうが思想として建設的だし、実際、思想を再評価することと学説を再評価することはまったく別の次元の話ですからね。思想と学説が同じ次元のものではないように。また社会科学の学説としてみたら、タルドの説なんてとうに終わったものであることは明らかですし。
社会思想と社会科学、社会思想史と社会科学史というのは、かなり重なるところがありますが、やはり溝もあるところがあって、そういうことを考えるには面白い論文ではあります。本来は、黙って利用できるところは互いに利用しあうほうが、互いにとって有益だろうと思うのですけどね。個人的には、両者の対立を政治的観点や利害関係の観点から捉え直すほうが面白いと思うですが、あまりにマニアックな話なのと、フランス内の些細な対立を日本に持ち込んだところで植民地内の闘争みたいな不毛なことになるだけなので、まあやめておこうと思っています。
余談ですが、タルドについて話すときにはデュルケームによる批判について話すことにくわえ、Mucchielliによるタルドの再評価の動きへの批判について話すことが必要になっているというのは、二重の意味で面倒でもあり、また興味深いことだと思っています。ほんと、タルドにとっては死後も受難つづきですね。
だいぶ以前の論文で触れたことと重なってますが、こんな答えでよろしいでしょうか?思想と学説の違いについては説明いりませんよね?まあ、こちらに本がありますので、お読みになりたければコピーを送ります>N先生
スカトール(2)
話がそれてしまったので、ふたたび修羅の道へ。
「うんこがなぜ臭いか」という問いにたいして、「それはうんこの臭いのする物質(スカトール)が含まれているからだ」という答えは、原因をその要素をもって答えています。
ところで、「そのものが何であるか」つまり原因という概念は、古典的なアリストテレスの考え方によれば、次の四つの場合に分かれているといいます。
質料因・・・そのものを構成している要素が問われているとき
目的因・・・そのものがあることの目的が問われているとき
始動因・・・そのものがそもそも何によって始まったのかが問われているとき
形相因・・・そのものがどのように定義されているかが問われているとき
例で挙げた回答は、「質量因」を挙げたものです。つまり、ウンコの臭いを構成している要素(物質)を挙げているわけです。
ちなみに、以前大学の会議で「教養教育とは何か」という問いにたいして、委員の皆さんの回答は見事にこの四つに区別することができました。
例)教養教育とは何か
知育・体育・徳育から成り立つもの
若者が将来の社会をつくるためにふさわしい知を与えるもの
中世の「自由七技芸」に始まり、19世紀の大学改革において・・・(略)・・・から成り立ったもの
専門的領域の知識を活用することを可能にするメタレベルの知のあり方を教えるもの
いずれも、それぞれ説明としては成り立つような気がしますが、その観点はまったく別ですよね。
さて、子供のとき、同じ質問を父親とは別のおじさん(生物学の先生)に聞いたことがあります。
私 「うんこってなぜくさいの?」
叔父 「だって、うんこがいい臭いだったら食べたくなって困るじゃないか」
私 「そうだね・・・」
というものでした。この答えは、とりあえず目的因によって答えていると考えてもよいでしょうね。つまり、この回答は裏を返せば「うんこの臭いがくさいことには目的があり、それは人間がその臭いをかいで食べないようにするためにそうなったのだ」ということだからです。おそらく、「自己に害があるものを不快感と感じるように人間の感覚がつくられているのだ」と言いたかったのでしょうね。
ということで、今日はこのへんで。
スカトール (1)
ジェンダー的にマイノリティとされる学生に殴られそうですが、それでも学生のためにあえて修羅の道へ。
小学生のころ、いまは亡き父に「ウンコってなんでくさいの?」と聞いたことがあります。
父は理系の研究職に就いていたせいでしょうか、こう答えました。
父 「それはスカトールっていう物質が含まれているからだ」。
私 「スカ・・・?」
父 「スカトール」
私 「どういう意味の言葉?」
父 「糞の臭いっていう意味の外国語だ」
私 「へえ、なるほど・・」
で、何が言いたいかというと、この説明ってどこかおかしいと思いませんか?
だって、「ウンコの臭いがくさいのは、ウンコの臭い(=スカトール)がくさいからだ」というのは、ほとんど同語反復(トートロジー)だからです。
(注)ちなみに「・・・オール」とか「・・・チオール」というのは、香りの化学的成分のことを意味する接尾語です。たとえばヒノキの臭いのする成分(化学物質)は「ヒノキチオール」って言います。
ただし、スカトールは「ウンコの臭い」という意味の名前ではありますが、同時に物質でもありますので、完全な同語反復にはなっていないため、その物質そのものをみたことがなくても、妙に納得させられてしまうところがあります。
じゃあ、その物質が存在すると仮定されていても、見つかっていないばあいはどうでしょうか?たとえば次の例を考えてみましょう。
(例)阪神ファン(トラキチ)の臭いは、トラキチオールの臭いである(もちろんそんな物質ありません)。
「こんな妄想を」と思われるでしょうが、先のスカトールとトラキチオールの違いは、極端にいえば、ただ後者が「物質として」みつかっていないだけです。それだけで後者を「妄想」として片づけられるでしょうか?
こんな例だったらどうでしょう。
(例)反社会性人格障害は、脳内の反社会性人格形成物質が増大するために起こる。
あるいは、もっとよく知られている説明として
(例)快感は、脳内に快感物質が発せられることで起こる。
最後の例は、かなり人々のあいだに共有されて「事実」とみなされているようです。
それでもよくみれば、すくなくとも因果関係の説明としては、どの例もトラキチオールと同レベルじゃないでしょうか?
・・・論文を書いていると苦しかったので、こんなしょうもないこと書きました。ごめんなさい。ちなみに、調べたら、スカトールは香料としてタバコにも使われてるそうです
。
明日から授業開始
ああ、夏休みが終わってしまった。といっても、すでに今週に入ってから会議は始まっているので、その覚悟はあったはずなんですけど。それでも、相変わらず真夏のような天気が続いていて、ほんとうに秋が来るのかどうか不安になります。
夏休み最後の日である今日は、7月からはまっていた比叡山に登り納めをしました。仕事で大学に行く前に、家から2時間半で頂上まで往復できるようになり、おかげさまで食欲が増えて、体重はあまり変わらないのですが、体脂肪が3パーセント落ちました。
最初は20分上っただけで筋肉痛になったのですが、毎日10分くらいづつ登る距離を増やしていったら、2週間くらいで頂上に行けるようになってしまいました。
ところで、比叡山を歩くようになって思ったのは、「なんて巨大な迷路なんだ」ということです。
参拝のための山道以外に、修行のための行者道がたくさん縦横に入り組んでいて、まるで迷路を探索しているかのような錯覚に陥ります。また山あり谷あり、滝あり川あり、ブヨの大量発生地帯あり、腐った木橋あり・・・と地味なわりにいろいろと刺激が多い道が多く、まさに「修行のフィールドアスレチック」です。しかも低い山のわりに、勾配がかなりきつい。
まだほんの一部の道しか制していないのですが、いずれ「比叡山攻略への道」という別のページをつくって、比叡山全道制覇を目指そうと思います。
と、その前に締め切りの原稿を終わらせなきゃ。