業務連絡 | ロゼッタへの道

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 急に涼しくなりました。おかげで、これまで暑すぎて進まなかった翻訳の見直しが、ようやく進むようになりました。

 昔から私は春から夏にかけての蒸し暑い季節が大嫌いで、ずっと秋と冬が好きでした。常夏の国なんて、私にとっては地獄以外のなにものでもないです。どこかに「常秋の国」はないものでしょうか。あればいつか移住したいと思っています。


 ところで、タルドの訳を出してから(正確には出す前からですが)、よく「Mucchielliの論文を読んだのか」とか「どう思うか」という内容の質問を受けるようになりました。いや、当然読んでますよ!ということで、以下は同じ質問をいただいたN先生への答えで、一般の方々にはなんの関係もない業務連絡ですが、N先生のメアドを知らないのと、これからも同じ質問があったときのためにいちおう。


 その論文は、Tardomania?(訳したら「タルド狂?」)というもので、近年のフランスにおけるドゥルーズ派を中心としたタルド著作集の刊行や再評価を試みる動きについて学説史家の立場から批判したものです。ただその議論が・・・。学説史における評価と思想における再評価の意味がごっちゃになっていて、どうにもかみ合ってない。


 批判された当のB. Latourが「(Mucchielliの)歴史主義には賛成できない。われわれが死んだ思想家を扱うもっともよい仕方は、死んだ思想家をあたかも生きている人物であるかのように、現代のわれわれが思考することを助けてくれる人物として扱うことである」と述べていますが、こちらのほうがまともな立場じゃないかと思います。そのほうが思想として建設的だし、実際、思想を再評価することと学説を再評価することはまったく別の次元の話ですからね。思想と学説が同じ次元のものではないように。また社会科学の学説としてみたら、タルドの説なんてとうに終わったものであることは明らかですし。


 社会思想と社会科学、社会思想史と社会科学史というのは、かなり重なるところがありますが、やはり溝もあるところがあって、そういうことを考えるには面白い論文ではあります。本来は、黙って利用できるところは互いに利用しあうほうが、互いにとって有益だろうと思うのですけどね。個人的には、両者の対立を政治的観点や利害関係の観点から捉え直すほうが面白いと思うですが、あまりにマニアックな話なのと、フランス内の些細な対立を日本に持ち込んだところで植民地内の闘争みたいな不毛なことになるだけなので、まあやめておこうと思っています。


 余談ですが、タルドについて話すときにはデュルケームによる批判について話すことにくわえ、Mucchielliによるタルドの再評価の動きへの批判について話すことが必要になっているというのは、二重の意味で面倒でもあり、また興味深いことだと思っています。ほんと、タルドにとっては死後も受難つづきですね。


 だいぶ以前の論文で触れたことと重なってますが、こんな答えでよろしいでしょうか?思想と学説の違いについては説明いりませんよね?まあ、こちらに本がありますので、お読みになりたければコピーを送ります>N先生