不思議、大好き! -15ページ目

不思議、大好き!

文章はすべてフィクション。ほぼ1話完結。



「永遠はある物へ固有の価値観を与えたときに生まれる」 A.N.ホワイトヘッド


雀が庭でチュンチュン鳴いている。僕は屈んで手を差し出し、米粒を与えようとした。でも、雀は警戒して飛び立ってしまった。

夏目漱石でも懐かなかった雀が僕に懐くはずはない。そう思ってため息を吐いた後、立ち上がった。その日は朝から気が塞いでしまっていたので、車でどこかに出掛けようと思ったのだ。

特に行く当てはなかったが、なんとなく展望台にでも行ってみようと思った。空は僕の気持ちとは裏腹に晴れていた。雀と同じように空も僕の気持ちを察してはくれないのだ。

陽は強く照っていて、僕は半袖だった。車の窓を全開にすると、風が首や腕の下をサッと抜けていく。カーステレオからはthe brilliant green「Round and Round」が掛かっていた。

展望台近くの駐車場に車を止めると、僕は軽く伸びをした。気がつくと、何でもない日の何でもない光景が僕を取り巻いていた。こんな日でも、不思議の国のアリスのいかれ帽子屋は万歳をするんだろうか。

展望台までの道のりは森の中にあった。一本道だが、クネクネと曲がったり、道幅が広くなったり狭くなったりしている。どんな道だろうと僕は道なりに進むだけだ。

行き止まりに展望台はあった。そこからは街を一望できる。その時、僕は目の前の景観に特に何も感慨を抱かなかった。

柵に凭れながら、しばらく物思いに耽った。思えば、僕は物思いに耽ることが多いなと思った。その物思いは自然とこの展望台にまつわることになった。

浮かない顔をした二十歳くらいの女の子が、街の景観を背景に写真を撮られていた。なぜ彼女は浮かない顔をしているのだろう。そう思っていると、写真を撮っていた青年が彼女に手招きをした。

でも彼女は彼のところに行かなかった。その内、彼女の浮かない顔は歪み、その場にうずくまってしまった。泣き崩れたようだった。

彼は彼女の許に駆け寄ってなだめた。彼は彼女の薄い背中をさする。しばらくそうしていると彼女は気を持ち直して、二人は立ち上がり、展望台の景観に目を向けた。

彼は彼女をまだ気遣っていて、ときおり彼女の顔を覗き見ていた。でも彼女は目の前に横たわる大きな眺望を見詰め続けた。彼も何かを諦めるように目の前の景色を見詰めた。

数十分の間、沈黙が二人を包んだ。すると、彼はハッとしてあることに気づいた様だった。彼の見ている物と彼女の見ている物が違うことに気づいたのだ。

それを彼女に伝えようとした時、奇しくもにわか雨が振り出した。結局彼は言おうとしていた言葉を呑み込み、彼女を連れて急いでその場を去って行った。彼は背を向けた展望台のその景観を気にするように、何度も振り返った。

僕は自分の物思いの中にある、いつか見たその場面を思い返していた。そして再び目の前に広がる景観を見詰めた。山あいに佇む街は薄い白色の大気に包まれていた。

彼はここから何を見詰め、彼女は彼とは違う何かを見詰めていたんだろう。そして僕はそのどちらかを、あるいはそれぞれのどこか一部分を見ることはできるのだろうか。もしくは僕はその二人とは全く違うものを見ているのだろうか。

茫々とした大きすぎる景観は掴みどころがなかった。でもここには人々の様々な想いがあり、それはこの景観に投影されているのだろうと思った。そして人々のその一瞬一瞬に見たものはその人の中で生き続けるのだろう、永遠に。

生きている一瞬間にも永遠が存在する。それは複雑な機械仕掛けのような精密なものでは決してない。もっと素直な人の感覚であるはずだ。

でもその人固有の永遠は誰にも共有されることのない感覚であるのだろう。彼と彼女のように。永遠の感覚の中で、その永遠によって僕はとても強い孤独を感じ、その場に留まりつづけ、帰り道を見失ってしまった。

陽射しはやさしく大地を暖めた。ときおり柔らかな風が抜けていく。僕は窓辺に両肘をついて、そんな外の様子を眺めていた。

目の前の陽だまりは心地良く、頭をやわらかくさせた。キレイな血の流れをモニターで見るように、とめどなく、様々な思いや記憶が頭の中を駆け巡る。どういうわけか、目を逸らす事ができなかった。

すると、ゆっくり妙な気持ちになってきた。気分が悪くなったわけじゃない。胸の奥で、小人が軽いステップを踏むような、地に足が着かない感じ。

目の前の景色と頭の中身、その全く違うもの同士が徐々にシンクロしていった。夢うつつのように、目の前に色々なものが現れては消えていく。それが現実なのか幻想なのかは考えず、僕はただ傍観していた。

黒猫がふっと視界の中央に現れた。最初、背を向けていたがしばらくすると振り向いた。振り向いた黒猫の目は金色に輝き、そして耳元まで口角を上げて笑うと消えていった。

次に現れたのは狸だった。狸はしばらく姿をさらしたあとすぐに消えたが、それは三度続いた。そして、どの狸も車に轢かれたように重傷を負ってグッタリと横たわっていた。

三度目の狸の死骸が消えたあと、しばらく何も現れなかった。だけど、何かが変化していくのを感じた。湿度が上がり、蜃気楼の様に景色が揺れはじめた。

喉が渇き、うっすらと額に汗を掻いた。そうした妙な緊張感が高まると、目の前の揺れる景色が経年摩耗でペンキが剥がれ落ちるみたいにボロボロと、少しずつ崩れ落ちていった。崩れ落ちて現れたのは駅の改札だった。

左手側に改札口があり、右手側には券売機が並んでいる。その間は5メートルほど。そして中央の天井からは円形の時計が吊してあり、6時を指していた。

夕方らしく、赤茶けた日差しに照らされた会社帰りの男女が忙しく改札を抜けていった。券売機には人が少なく、切符を買う人はほとんどいなかった。だけど、手前の券売機の端に僕の目は止まった。

黄色いTシャツにボロボロのジーンズを穿いた若い男性が立ってた。腕を組み、眉間に皺を寄せている。じっと正面の改札口を見詰めていた。

たまに右手人差し指の第二関節の背で下唇を押さえながら、口の中を噛んだ。それが癖らしく何度も下唇の裏側を小さく噛んでいる。何度目かには、にじんだ血が下唇から少しだけ流れ出した。

その時、彼は誰かを待っているのだと思った。それが誰なのかは分からないが、きっと大切な人に違いない。彼の態度から僕はそう感じた。

大勢の過ぎ去る人々に目もくれないほど、彼はひどく集中している。きっと来た瞬間にわかるのだろう。相手は彼が待っていることを知っているのだろうか。

時は過ぎて行き、人は徐々に減り始めた。時計は10時を指したが、彼は微動だにせず、下唇を噛み続けた。刻々と彼の集中力は増していくようだった。

12時を過ぎると人はほとんどいなくなった。ときおり到着した電車から2、3人下りてくる程度。そのうち、電車は来なくなり、終電を迎え、ホームの灯りは消えていった。

駅員たちが談笑をしながら彼の前を通り過ぎていく。駅員たちは彼の存在に全く気がついていないようだ。その内、改札の灯りもついには消えた。

彼はそれでも待ち続けた。暗闇の中で、目だけが白く浮かんでいる。そして執拗な鋭い眼光の上で、時計はいつもと変わらず、チクタクと時を刻み続けた。

その場面は徐々にフェードアウトしていき、目の前の景色は薄暗くなっていく。僕はハッとして、もう夜になっていることに気づいた。顔を上げると、三日月が夜空に浮かんでいた。

彼は誰を、そしていつまで待っているんだろう。相手は彼が待っていることを知っているんだろうか。このことばかりが気になった。

でも詰まるところ、黒猫は笑い、狸は三度死んだのだ。そんなこと、彼にも相手にも、ましてや僕にもわかりっこない。僕はそう思い、月を枕に眠りに就いた。
夜空には、雲がひとつもなかった。その中央に月が出ていて、大きな光の円を描いている。そんな月をみていたら、息苦しくなった。

部屋の電気を消して、ベッドに横になった。すぐに眠れるはずだった。でも息苦しさは続いた。

寝返りを何度か打ち、ふと目を開けると窓が見えた。窓から月の光が差し込んでいる。ぼんやりと、でもはっきりとした暗くて青い色だった。

ベッドに横になりながら、それを見詰め続けた。珍しく昔を想い出した。静脈のように、皮膚の下で青い血が通うように、それは音もなく静かに巡った。

笑ったこと、はしゃいだこと、楽しかったこと。過ちを冒したこと、後悔したこと、落ち込んだこと。追いかけ続けたこと、泣き続けたこと、とどまり続けたこと。

暗く青い光は囁いた。「おまえは矛盾ばかりではないか。一体どうしたいのだ」。答えられなかった。

口や鼻、目が乾き始めた。すると自然に涙が流れた。その時、ずっと昔から渇いていたことを思い出した。

昔から同じものを追い求めてきたはずだった。でも手にして潤った時、もうすでに手放すかどうか苦悩していた。おかしなことだけど、本当に苦悩していた。

今見えている月はあと数時間で姿を消すのだろう。代わりにすべてを照らし出すような太陽が顔を出す。そして現実の中で否応なしに僕らは歩まねばならない。

でもまた月は必ず現れる。次に、今夜のような月と出遭うのはいつだろうか。そして月は同じように囁くのだろう。

月だけはいつのときも変わらなかった。それが変わるとき、自分は大きくそして決定的に変わっているのだろう。しかしそんなことは決して有り得ないのだ。

目尻を伝う雫は蒼く照らされながら流れ続けた。
早朝、戸を開けると空は青々と晴れていた。僕は背伸びをしようと外に出たが、春だというのに空気は冷えていた。あまりに寒かったから、僕はすぐに家の中へと引き返した。

その日は遠出をする用事があったので、簡単に支度を済ませると車に乗った。キーを回し、音楽を聞こうとカーオーディオのスタートボタンを押した。しかし、音楽は掛からなかった。

ダッシュボードを開けて、CDを探した。どういう訳かお気に入りのCDが見つからない。そういえば昨日カーオーディオに入れたままにして置いたのにおかしい、そう思ったが僕は諦めた。

駅に着き、予定通り電車に乗った。始発駅であるこの田舎駅では、人の乗り降りはほとんどない。青空の下、電車は静かなホームに身を寄せていた。

車窓からは日差しが溢れ出すように降り注いでいた。でも車内は一向に暖まらない。ハリボテの日差しを僕は幻のように感じた。

電車が発車すると、どうしてか僕は急に体調を崩した。激しい頭痛と倦怠感。風邪を引いたのかもしれない。

個室風の4人席がガラガラだったから、そこに席を移した。バックを隣に置いて少し眠ろうと思った。どうせ終点まで乗らなければいけいないのだ。

すると、僕は夢を見た。テレビでタモリが自分の歯について語る夢。タモリはひどい歯並びだった。

ニカッと口を大きく開けて、大小の歯が乱雑しているのをテレビカメラに見せていた。奥歯は砂のようなとても小さい歯が敷き詰められているように見えた。気味の悪い奥歯だと僕は思った。

タモリは淡々と話し始めた。
「昔はお金がなくて歯医者に行けなかったんです」
「でもたまらく歯が痛むことがあって、友達に歯医者を自称する奴が居たんで、仕方なくそいつに抜いて貰ったんですよ」

タモリはもう一度大きく口を開け、人差し指で奥歯を指差した。指された場所をテレビカメラがアップする。震えるように、小さな何かが動いていた。

「そこには、微生物よりちょっと大きいくらいの小さな蛆虫がたくさん詰めてあるんです」
「そいつの話に依ると、なんでも歯の替わりになるのは蛆虫が良いそうで…」
タモリは無表情にそう語り続け、テレビカメラは時折タモリの口の中で動くとても小さな蛆虫を映し続けた。

僕はそこで目を覚ました。終点からひとつ手前の駅だった。電車は特急の通過待ちをするらしい。

眠気眼で車窓を覗くと、ホームの隅に立っているおばあさんが目にとまった。幅が5メートルくらいある広いホームだったから遠くて良くは見えないが、何かそのおばあさんは変だった。ひょっこりひょうたん島のガバチョみたいな体型なのだ。

脚と腕が細長く、腹部はかなり脹れていた。茶のスラックスに黄色いジャンパーを羽織った、眼鏡を掛けた顔の小さなおばあさん。髪の毛は染めているらしく、不自然なほど黒々としていた。

他にもホームにはたくさん人がいたが、誰もそのおばあさんに気を留める者はいなかった。まるでそこにおばあさんが存在していないかのように。僕が見ていることもおばあさんは気づいていないようだった。

おばあさんは電車を待っている風にも見えなかった。たまに足の裏を地面に擦るように動かし、何かを確かめているような動きをしていた。不自然なおばあさんは僕の目を引き続けた。

おばあさんの立っている場所はコンクリではなく、砂利が敷いてあった。地続きになっているホームだから隅の方は砂利で済ませてあるのだ。おばあさんは砂利を踏みつづけた。

すると、不意におばあさんが屈んだ。いくつか砂利を手に取ると、そのひとつを口に入れた。そして、モグモグしながら残りの砂利を黄色いジャンパーのポケットに入れた。

その後もおばあさんはホームの隅に立ち続けた。砂利を踏み、踏んだ砂利を食べながら。僕はまだ悪い夢でも見ている気がした。

電車は特急待ちを終えて、再び発車した。僕は終点で用事を済ませた。その間、僕は平地で3度転び、2度財布を落とした。

空はずっと晴れたままだった。
晩遅く。静まり返った室内で腕を組む。寂とした空気がひっそりと僕を圧する。

水はきっちり定量を入れ物におさめた。置く位置は1ミリのズレも許さない。炎はそれを包み込むように焦がそうとした。

こんなもの、焼き尽くしてしまえ。俺達ならできる。炎は豪気な男達の情熱だった。

僕はタバコに火を点ける。きっかり3分だ。男達に厳しい目を向けた。

少しの気の緩みも見逃さない。煙を肺に入れながら、男達の気勢に呑まれないように、余裕と威厳を保つ。できるもんならやってみろと、僕は静かに言い放った。

3分が経った。僕は最後の一服を終えて、短くなったタバコを銀の灰皿で揉み消す。男達はゆっくり手を措いた。

精確な材料と的確な手段はいつも僕を裏切らない。自然の法則は実に良く出来ている。僕は熱湯で珈琲をいれた。

啜りながら、ふと思った。人には法則がない。精確な分析と的確なロジックは必ずしも心から納得できる結果を導き出す訳ではない。

しかし、熱意を以って一心に臨めば必ず成就すると信じたい。炎に見た男達のドラマのように。ヤカンとコンロと熱湯のように。

僕はそう思い、胸に点いている焔をぼんやりと眺めた。
僕はTSUTAYAへDVDを借りに行った。借りたいものは決まっている。それは『迷子の警察音楽隊』。

TSUTAYAはいつも混んでいる。毎回カウンターには行列が出来るほど。雨が降りそうな空模様を気にしながら、『迷子の警察音楽隊』を小脇に抱え、仕方なく並んだ。

しばらくすると、僕はおどろいた。前に並んでいる女性の髪がとても美しいのだ。一本一本がダイヤモンドの粒子を散りばめたように輝き、サラサラっとTSUTAYAの空調の微風になびいている。

目を丸くし、思わず見詰めてしまった。こんな綺麗な髪の持ち主はどんな美しい顔をしているのか、僕は興味を持った。でも覗き込むわけにもいかないので、しばらくチャンスを待った。

彼女の順番になり、僕も呼ばれた。複数あるカウンターの中で彼女と僕はひとつ挟んでそれぞれ並んだ。僕の隣はグレーの上下無地のスウェットを来た若者で、やたら顔が大きく、目鼻立ちは散らかっていた。

彼の顔の大きさとその散らかり具合があいまって、彼女の顔が見えない。しかも、隣の彼は10本以上レンタルしているので手間取っていた。そんな中、チラッと彼女の鼻が見えた。

スッと伸びた鼻筋は高く、色は白桃色。白い肌はやわらかく赤みがかっている。ますます僕の興味を引いた。

しかし、そうこうしていると彼女は簡単に会計を済まし、僕がいるカウンターとは逆の方向にある出入口から出て行ってしまった。そのとき僕は横ばかり見ていたので、キレ気味の店員から何度もタイトルの確認を受ける始末。追いかける余裕なんて全くなかった。

所詮は他人で、僕と彼女が交差することなんてない。いつかのように適当に遊ばれるのがオチさ。僕は自分にそう言い聞かせた。

『迷子の警察音楽隊』の内容を楽しみにしながらTSUTAYAから車で家に帰った。でも頭の片隅、小学校で言うとウサギ小屋くらいの割合でやっぱり綺麗な髪を持った女の子が気になった。結局僕はしつこいのだ。

でも彼女はどこにも見当たらない。当たり前だ。早く頭を切り替えるんだ、僕は冷たく自責した。

家のドアを開けるとテレビが付いていた。「おかえり」。「ただいま」。

順序が逆だなと思いながらテレビがある居間へは行かずに、DVDをテーブルに置いてから、僕はキッチンに入った。お腹が空いていたから、サンドイッチを作るのだ。食パンを手にとり、マーガリンを塗りながら僕は居間の方へ話しかけた。

「ご飯食べた?」
「まだ」
「サンドイッチでもいい?」
「サンドイッチでもいいよ」

小気味良い返事が返ってきた。僕が食事を余計に作るのが当たり前のような返事に少し腹を立てながらも、サンドイッチを二人分作った。チーズとレタス、挽き肉を炒めた具の入ったサンドイッチ。

香ばしい匂いを漂わせながら、出来上がったサンドイッチを持って居間へ入った。テレビではちょっと昔のアイドルが歌を歌っていた。「あぁたし、さくらんぼっ」。

「この歌、カワイイね」
「そうかな。もう古いよ」
「カワイイものは古くなっちゃいけないんだよ」

僕はよく分らない会話の相手をして、サンドイッチを手渡した。すると口からちょっと飛び出た前歯でモシャモシャと食べ始めた。美味しそうに食べるので、僕も口に入れた。

ちょっと昔のアイドルが歌うTVを二人で眺めながら、僕はTSUTAYAでの出来事を思い出した。思い出すと誰かに話したくて仕方なくなった。だから話した。

「今日TSUTAYAでとても綺麗な髪の女の子に会ったんだ」
「ふ~ん」
「眩暈がするくらいキラキラしてて、思わず見惚れちゃったよ」

ちょっと大げさに僕は言ってみた。でも相手は長い耳を折って、TVばかり見ていた。僕はちょっとムッとして言った。

「顔はよく見れなかっけど、顔を見たら一目惚れしっちゃったかもね」
「え!?」
「鼻が高くて、肌は透き通るような白い桃色だったなあ」

相手が僕の言葉で驚いたから、僕はちょっと良い気分だった。無視するからいけないんだ。でも、驚き以上に相手は落ち込んでいた。

「じゃあ・・・ボクはもう用なしだね・・・」
「え!?」
「ボクを捨てちゃうの?」

今度は僕が驚いてしまった。そんな風に受け止められるとは思わなかった。僕は白桃色の体毛を優しく撫でながら言った。

「捨てやしないよ。僕がそんなことする訳ないじゃないか」
「そうかな・・・。じゃあ、その髪のキレイな子とボクはどっちがカワイイ?」
「それはウサギさんだよ」

ウサギさんは目を赤くして僕を見詰めていた。長い耳はしっかりと開かれている。僕の話を、僕の真意をちゃんと聴こうとしているのだ。

僕は笑顔で何度も頷き、ウサギさんをなだめた。頭を撫でたり、一緒にピョンピョン飛び跳ねたりしながら機嫌を取った。しばらくして、ウサギさんは元気を取り戻すと言った。

「まやかしだよ」
「え? 何が?」
「その女の髪の毛」

まだ根にも持っているウサギさんを僕は可哀相に思った。深く反省して「そうだね。そんなのまやかしだね」と同意した。そして借りたDVDを、ウサギさんと一緒に観ることにした。

『迷子の警察音楽隊』は、エジプトの警察音楽隊がイスラエルで迷子になるお話。その一日を描いたとても情緒的な物語だった。僕は観ている間中、ウサギさんの言った「まやかし」について考えていた。

僕はいつかウサギさんを捨てるのだろうか。でも誰かを愛し、その人との生活を選べばウサギさんは出て行くだろう。今それを考えると、僕は途方もなく切ない気持ちになった。

ウサギさんは迷子になり、僕の中でも「迷子」の部分を抱えることになるのだろう。人生とは、記憶とはなんと厄介なのだろうと思った。せつな的な感傷に僕は萎え続けた。

空は曇り、小雨が降り出していた。
休暇を取って山登りをした。思い立ち、早朝から適当な山へ出掛けたのだ。その日登ったのは青みが深い山だった。

勾配は急で、登り始めてから数分で息が切れた。肺が重くなり、両足首に自分の体重を感じながら歩き続ける。何度か休憩を取ろうと思ったが、結局歩みが止まることはなかった。

山頂は見えず、登りはどこがピークなのか見当が着かなかった。見上げた先にはまだまだ続きが見える。登れば登るほど周りの青みは深みを増して行った。

ふくらはぎに張りを感じ、背中が鈍く痛んだ。同じ姿勢で登り続けているからだ。しかし、もう意識と身体は切り離されていて、歩き続けることをやめられなかった。

歩みを止めないかぎり、いつかは終わりが来る。この世に永遠はないのだ。そう自分に言いながら進みつづけた。

朝から晩までそうして過ごし、家に帰った。もう真夜中で、部屋には暗闇が居座っている。外から入る光が物に反射して、その部分だけ青白くくすんで見えた。

汚れた服を脱ぎ、シャワーで身体に付いた泥や埃を落とす。汚れは落ちたが、心身の怠さは落ちない。ぐったりしながら青白くくすむ自分の部屋に戻った。

朝から水しか飲んでいない事に気づき、簡単な夕食を作ろうと思った。冷蔵庫からビールを取り出し、それを飲みながら食パン二枚を手に取る。トマトとレタス、ベーコンを挟んで皿に乗せると、それとビールを持ってリビングのソファーに座った。

ソファーに身を沈めると、鉛のような疲労が心身を覆い、眠いと感じた。でも眠りたくないので、ビールを飲み続ける。しかしそれは眠りを妨げる為の反復した動作でしかないから、ビールには味がなかった。

いつかは終わる。永遠なんて存在しない。再びそう思い、睡魔を拒みつづけた。

サンドイッチも口に入れてみたが、すぐに吐き出した。固形物を受け入れるほど身体は柔軟ではないのだ。その内、ビールも空になった。

このままどこに向かうのだろう。ピークはとっくに過ぎているのだろうか。登りも降りも自覚がないなら歩みつづける意味はあるのだろうか。

前後が不明確で、左右はすれ違うだけの歩みにはどんな価値があるのだろう。進んでいる瞬間に何を感じ、何を思うべきなんだろう。そう思ってから、両目を手で覆い、そのまま目を閉じた。

意識は睡魔にその領域を蝕まれながらも、まだ生きていた。OK。大丈夫。まだ早い、あと少しだ。まだどこかに行こうと進んでる。

無音で無機質な時間がしばらく流れると、両目を覆った手がブラリとソファーに落ちた。それが空になった缶ビールに当り、床を転がった。それからずっと、食べ残したサンドイッチを残したまま、男は動かなくなった。
ケンカ番長は毎日忙しい。圧倒的な強さを誇る彼の許にはケンカの話が絶えないからだ。その日も夕方、隣町のケンカの話が飛び込んできた。

ケンカ番長は鳥肌が立つほど苦手な物理の補習で週刊『チャンピオン』を枕に爆睡していた。舎弟に起こされた番長は少し不機嫌。「なんだよ」「番長! 隣の舐町でウチの高校の奴がやられてます!」。

すると、おうっと言わんばかりに立ち上がり、ポカンとしている教師を尻目に颯爽と教室を後にした。急を伝えた舎弟のバイクの後ろにドカッと座ると、ケンカ番長は目を閉じた。しかし、彼は眠ったわけではない。

ケンカ番長は疲れていた。肉体的にではなく、精神的に。「このままでいるわけにはいかない」と思うのだ。

あと1年で高校を卒業する彼は焦っている。中学からずっとケンカに明け暮れた彼には拳で築いた血と汗の闘争の歴史しか持たない。それもあと1年で自然と終わってしまうのを彼は知っていた。

しかし、その焦りを周りに打ち明ける訳にはいかなかった。強靭なプライドがそれをさせないのだ。その代わりに、彼の焦りは周囲へのイライラへと転嫁していた。

今日もそんな番長を後ろに乗せた舎弟は気が気ではない。いつ鉄拳が飛んでくるか判らないのだ。理由も判らず制裁を受ける身としては堪ったものではないが、殺気立つようにも見える番長を頼もしくも感じていた。

そうこうしているとバイクは急停止した。

「着きました!」
「おう」
「あそこです!」

舎弟が指差したところにはちょっとした人だかりが出来ていた。学ランとセーラー服の真面目そうな生徒が短ランと長ランのテカテカに固めた髪の野郎達に絡まれている。番長は絡まれているのが同じ高校の特別進学クラスの連中だと見て取ると、舌打ちしながら緩慢な足取りで近寄っていった。

ポケットに両手を突っ込みながら闊歩する彼には威風すら感じる。周りのやじ馬は瞬時に彼の存在に気づき、誰もが道を空けた。人だかりまでの道のりは、彼の花道のようだった。

ツッパリ達は真面目な生徒のカツアゲに忙しい。ケンカ番長の存在に気づかない。番長はすぐそばまで着くと言った。

「ウチのガリ勉をイジメんのはやめろ」

不意を衝かれたツッパリは身を翻すと、ケンカ番長にメンチを切った。

「ナンダァ、テメェ!」

甲高く威勢の良い声が響き、ガリ勉達はさらに怯えた。

ケンカ番長は素早く相手を観た。正面にひとり、そのすぐ後ろにひとり、少し離れた場所にもうひとりの計3人、それぞれのガタイは中の上、今のところ手には何も持っていない。そう感知すると、彼の中ではもう勝敗が着いていた。

数秒の沈黙の後、番長から先に手を出した。先手必勝が彼の得意とするところ。彼にしたら、メンチを切られた事だけで先に手を出す正当な理由があるのだ。

番長はサッと両手を広げ、まず左手の掌底に正面のツッパリの顎を乗せ、右手の掌底に少し後ろにいるツッパリの顎を乗せた。次に親指と中指で二人それぞれの顎の末端をガチっと掴む。そして次の瞬間にはツッパリ2人は宙に浮き、気がついた時には顔を地面に叩きつけられていた。

ほんの数秒でツッパリ2人を片付けると、番長はもうひとりを睨んで言った。「まだオレとやるか?」。長ランを着た残ったツッパリは怯みながらも身を屈め、内ポケットからバタフライナイフを取り出し、右手で握った。

辺りの空気が一気に張り詰めた。死人が出るかもしれない。やじ馬達は青ざめる。

と、その時。妙な奇声を挙げてツッパリが番長めがけて飛び掛かった。しかし番長は仁王立ちで迎えた。

番長の肉体にナイフが触れる前に、番長は相手のナイフを持つ手首を右手で捕えた。服の上からでも分かるくらい番長の腕の筋肉が盛り上がると、堪らずツッパリはナイフを離した。次の瞬間、バキッと鈍い音がしたかと思うとツッパリの手首はあさっての方向に折れていた。

泣きベソ掻きながらツッパリ達が退散すると、ガリ勉達も畏れるように走り去っていった。番長は孤独を感じたが、礼を言われないのはいつものこと。舎弟を探して帰ろうと踵を返した。

すると、うしろから声が聞こえた。振り返ると走り去ったと思っていた同じ高校のガリ勉連中のひとりが、バッグを胸に抱えて佇んでいた。その赤いメガネを掛けたセーラー服の女子は俯きながら言った。

「助けてくれてありがとうございます」

番長は慣れない感謝に戸惑いながら「おう」と頷いた。彼女はニコッと笑みを浮かべると、ペコリと深くお辞儀をし、足早にどこかへ駆けて行った。

別になんてことない。単に礼を言われただけだ。ケンカ番長はそう思い、まだどこかに隠れている舎弟を探した。

次の日の放課後、番長は教室で自分の机に足を乗せながら週刊『チャンピオン』を読んでいた。チラッと、赤いメガネ姿の女子が教室のドアのところで覗いているのが目に入った。彼女は番長を見つけると躊躇なくワルしかいない教室に入り、番長に近づて行った。

血の気の多い舎弟達が彼女の前に立ちはだかると、番長は「やめとけ」と彼らを制した。彼女はニコッと昨日と同じ笑みを番長に向けると彼の前まで近寄った。舎弟達はいぶかしげに二人を見ていた。

「これ、もしよかったら使ってください。昨日のお礼です」

彼女は一冊の大学ノートを突然差し出した。表紙には『物理』と書かれている。困惑顔の番長をよそに、彼女は続けた。

「あなた、物理が苦手って先生からきいたから。私のオリジナルのノートなんです。良かったら貰ってください」

番長は受け取って「おまえはいらないのか?」ときくと、彼女は何も言わずに笑みを浮かべて、人差し指で自分の頭を突いた。そして教室から出て行った。番長はノートを手にしたまま、バツが悪そうに黙って座ったのだった。

その後、番長は家に帰り、自分の部屋の椅子に座った。あれからというもの、バッグの中へ無造作に放り込んだ、まだ開かずにある彼女のノートが気になっていた。物理のノートなんてただの紙切れだと彼は思った。

しかし、彼女の笑みが物理のノートを単なる紙切れではないものにしていた。だから気になるのだ。彼は仕方ないといった顔つきでバックからノートを取り出した。

開いてみると、そこには幾何学模様やカタカナの法則名、その解説がビッシリと書き込まれていた。しかし決して見づらいことはなく、無駄な余白もひとつとしてない。教師が黒板に書くものよりも、さらには教科書よりも整然と彼女の言葉で物理学が展開されていた。

彼は眺めながら、そのノートに圧倒されていた。物理の内容は、残念ながらどれもすぐに理解できるものではなかったが、こういったノートを作り勉強に励む者がいることを彼は生まれて初めて身近に感じたのだった。気づくと手が汗で濡れていた。

ノートを閉じて、彼はしばらくその余韻に浸った。ゴツゴツしたものが胸につかえていた。そして考えた。

オレは誰よりも強い。タイマン張ったら誰にも負けない自信がある。でもそれは拳を交えた時だけ。今だけ。長くは続けられない。誰もがオレの強さを認めるわけじゃない。誰もが圧倒されるわけじゃない。オレはあの女にたった一冊のノートで簡単に圧倒されちまった…。

番長は立ち上がり、軽く伸びをした。ギュッと拳を握ってみる。握った反動で力が溢れ出すのを感じた。

ふと、自分の頭を指で突いてみた。何も返って来ない。カラッポだった。

彼は彼女の笑みを思い出してみた。思えばオレはああいう笑顔をしたことがないな。彼はそう思い、もう一度頭を突いて微笑んだ。

翌朝、珍しく目の下に隈を作った彼が学校に現れた。寡黙ではあったが、授業はひとつも居眠りしなかった。週刊『チャンピオン』だけが、彼の部屋のごみ箱で眠っていた。
スラッとした背の高いウェイターに、彼女はカフェオレを注文した。僕はアイスコーヒー。ウェイターは彼女にだけ微笑みで応えた。

彼女は「カフェオレ」ではなく「cafe au lait」と正しく発音した。ウェイターはそれを正確に聞き取ったのだ。やれやれと思いながらも、僕にはちょっと聞き取れない。

彼女はフランス人。歳は中年といったところ。だけど無駄なシワはひとつもないように感じた。

服装は黒のブラウスに朱いスカート。脚には黒い模様のストッキングを履いている。スカートはももの辺りまでスリットが入っていた。

覗こうと思えば覗けるが僕はそんなことはしない。僕はそういう人間ではないと信じている。あくまでも僕は彼女にあることを聞きに来たのだ。

「ところで話ってなに? 私はあなたに話すことなんて特にないけど」

日仏英のトライリンガルである彼女は日本語で流暢に言った。さっきのフランス語を話していた時とはまるで雰囲気が違う。英語だとまた違うんだろうなと考えながら僕は彼女に聞きたいことを話した。

「実は、恋について聞きたいと思って。恋って一体何なのかな? ちょっと分からなくなってさ」

彼女はチラッと鋭い顔をすると、すぐに柔和な顔つきに戻った。きっと一瞬で話の方向性を見抜いたんだろう。それくらいスマートに、彼女の頭は出来ている。

「それだけじゃ適切な返事はできないわ。あなたはいい歳して恋の何もかもが分からないわけじゃない。恋の何が分からなくなったの?」

僕は彼女と対面で話をすると少し緊張する。ちゃんと話をしなければ答えてくれないからだ。僕は少し考えて言った。

「恋って何度もするけど、どれが本物でどれが本物じゃないのかな。僕は結果論ではなく、最初の段階でそれを判断したい。間違いをしたくないんだ。コツみたいなのがあったら教えてほしい」

ちょうどその時、例のウェイターがカフェオレとアイスコーヒーを運んできた。コースターの上にそれぞれ丁寧に置くと、彼女にだけ微笑んだ。僕はムッとしながらも彼女の返事を待つために黙っていた。

「まず、恋は感情のひとつよ。だからロジックでは解けない。必ずしも因果関係が存在しているわけじゃないの。個々人に傾向みたいなものはあっても、それは経験則の範疇を出るものではないから、普遍的なコツなんてない」

「でも僕から見ると、君はいつもとても上手に恋愛してる。子供までいるのに。聞こえの悪い話は聞いたことがない。どうして?」

「あなたが臆病だからよ。感情に大小はあっても本物も偽物もないの。それはあなた自身の行いが決めるのよ。あなたに、あるいは相手に愛を打ち明ける勇気があるかどうか、それをお互いが信じ続けられるかどうかが、その恋を本物にするの。最初から決まってることなんてひとつもない」

彼女はカフェオレのカップに口をつけた。カップには淡く紅い口紅がついた。僕はそれを見ていたが、やめてアイスコーヒーを飲んだ。

僕は解ったような解らないような気がしていた。難しいというかピンとこない。結局モテる人とそうでない人では分かり合えないのだ。

「それであなた、好きな人でも出来たの? 具体的な手ほどきをしてあげてもいいわよ」

彼女がテーブル越しに、少し前のめりで話し掛けてきた。ブラウスのボタンが第三ボタンまで開いている。もちろん、僕は覗いたりしない。

「いいよ、そんなこと。僕には僕の事情があるんだよ。それに僕は恋について君の意見を聞きたかっただけなんだから」

彼女はニヤッと笑い、バックからタバコを取り出した。脚と腕を組み、美味そうにタバコを吸った。僕は堪らず彼女から目を逸らした。

「好きなのにそれを告白しない男も女も私は嫌い。スタートもさせないで挫かれるなら、どうせ良い恋愛なんてできない。恋や愛はひとりではできないのよ。どんな事情があろうと、まずはそれを互いに共有してから決めればいいのに」

その後、適当に世間話をして僕らは席を立った。例のウェイターと会計を済ませていると、彼女はウェイターにフランス語で何か話し掛けた。ウェイターも照れ笑いをしながら何やらフランス語で応じ返していた。

その日の別れ際、彼女は言った。

「私はね、恋が人を最も前向きにさせて、最も生きる希望を持たせてくれるものだと思うの。恋を諦めちゃダメよ。それは生きることを諦めることに似ているから。叶うといいわね、あなたの恋」

彼女は笑顔でそう言うと小さく手を振り、街の中へと消えて行った。見送りながら僕は彼女の言葉を考えた。気がつくと、雪が降り始めていた。

急に寒くなった気がして、屋根のあるバス停まで走った。こうしている間も、世の中では恋が生まれ、勇気と信念を持つ者だけがそれを手にすることができるだろう、生き活きとしながら。無機質な街のネオンに照らされながら、僕はひたすら帰りのバスを待ち続けた。
日が沈みかけると、甘夏色の日差しがデスクを染めた。ふと郷愁のような想いに浸る。しかし彼はなるべく仕事に集中するように努めた。

彼には妻子がいる。幼い娘を持つ彼の歳は30の大台に差し掛かろうとしていた。そんなある日、彼には好きな人ができたのだ。

その女性は同じ職場の同僚。歳は彼より4つ若い。ウェーブの掛かったセミロングでムチッとした体型の、素直で気持ちの良い女性だった。

もちろん彼は彼女をひとりの同僚として見るようにしていた。しかし、彼女が中途社員として入社した時から彼女の魅力を感じていた。その後もなるべく気にかけないように注意をしてはいたが、彼女への気持ちは日に日に膨らんで行ってしまった。

彼女も彼を気に掛けていた。二つ隣の島のデスクではあったが、彼女は良く彼をランチに誘った。同世代の女子社員とは行かずに、そうした大胆な行動を取る彼女は、周りからときおりやっかみを買ったりしたが、一向に気にしていないようだった。

いつも妻の手弁当を持参する彼は彼女の誘いを断りつづけた。でも、会社の飲み会では彼女と顔を合わせ、会話もしなければならなかった。彼と彼女は少し言葉を交わしただけで会話は弾んだ。

音楽や映画の趣味は一致し、印象に残る小説や価値観までも合致していた。会話の回数を重ねるたびに、彼女の彼への愛と尊敬の眼差しは深くなり、彼も彼女を愛おしく感じるようになっていった。お互い喉まで出かかった愛の言葉を抑えるのに苦労するほど、気持ちは高まった。

しかし、彼は家に帰り、娘の寝顔を見ると思うのだった。いけない、この子の意味を損ない、愛を貫徹できない背中を見せてはいけない。溺愛し、珠のような我が子を裏切れない想いが、辛うじて彼女への想いにブレーキを掛けていた。

裏腹に妻との関係は悪化した。上手く話すことができず、もちろん抱くことも出来なくなってしまった。お互いの関係は冷めるというより、死んでいった。

彼は悩んだ。妻と彼女の間の渓谷に掛かる吊橋で、娘を抱きながら苦悩した。その内、仕事も上手くいかなくなってしまった。

彼女はそんな彼を心から心配していた。自分のせいだと自らを責めながら、抑えられない彼を求める気持ちを持て余していた。そして彼女は決意し打ち明けた。

あなたとあなたの子供を受け入れる覚悟と揺るがない意思がある。私は何よりあなたを愛していて、求めている。そのための個人的な犠牲と起こり得るであろう困難には立ち向かうつもりだ。

彼女は彼にそう伝えると彼の返事を待った。しばらくして彼は言った。ありがとう、とても嬉しいけど、もう少し待ってほしい、近い内に必ず結論を出すと言い、彼女の目を真っ直ぐ見詰めた。

翌日から彼は会社を休んだ。異例の10日以上の休暇を取ったのだ。周りの者はとても腹を立てていたが、彼女だけは胸を裂かれるような想いでいた。

そして半月が経った。彼は彼女を呼び出した。げっそりとした彼がたどり着いた結論を彼女に話した。

「僕は君を深く愛している。おそらく君以上に愛せるヒトは僕には現れないと思う。僕は君を求めているし、僕と君は99%、相性も合う」

彼女は安堵で涙を流した。眼から溢れるものを止めることが出来なかった。しかしそれ以上に愛情は堰を切っていた。

「でも、僕は君を選ぶことができない。これは全くの運命のイタズラかもしれないが、僕にはハッキリ判る。僕は君を選べない」
「・・・どうして、さっき・・・」
「君には決してできないことがある。それは僕と君の間ではたった1%ほどのことでしかない。でも僕にとってそのたった1%のことの価値はそれ以外の99%を凌駕してしまう」
「私にできないことなんてあるわけない。あなたへの気持ちで何だってしてみせる。教えて、そのたった1%って何?」

彼女にはよく分からなかった。彼への愛は何にもまして強く、そしてこの強い感情があれば本当に何でもできると信じていた。彼は少しためらったが、答えた。

「そのたった1%は・・・今存在する僕の娘を産んでいないことだ」

彼女はすぐに反論しようと口を開きかけたが、結局言葉を失ってしまった。なぜなら、これから彼の子供は産めても、今存在する娘は決して産めないからだった。義母となることは出来ても、彼のこの世に於ける初めての子供を身篭ることはできないのだ。

彼は彼女に謝罪した。「君は決して、全く悪くない。悪いのは僕だ。こんなことを言うことになってしまって本当にすまない。でも僕は精一杯考えて出した結論で、これ以上のものは永遠に有り得ないと直観している。本当に申し訳ない」。彼はそう言い、しばらく彼女を気遣うように様子を見ていたが、彼女は堪えられなくなり、その場を去った。

その後、彼は会社を退職した。数日休暇を取った彼女が出社した時には彼のデスクは片付いていた。 彼女は複雑で妙な感覚を覚えた。

彼女はふと思った。夢みたいと。その夕方、甘夏色の夕暮れが街を染め、彼女はそれをいつまでも見詰めていた。