ケンカ番長は毎日忙しい。圧倒的な強さを誇る彼の許にはケンカの話が絶えないからだ。その日も夕方、隣町のケンカの話が飛び込んできた。
ケンカ番長は鳥肌が立つほど苦手な物理の補習で週刊『チャンピオン』を枕に爆睡していた。舎弟に起こされた番長は少し不機嫌。「なんだよ」「番長! 隣の舐町でウチの高校の奴がやられてます!」。
すると、おうっと言わんばかりに立ち上がり、ポカンとしている教師を尻目に颯爽と教室を後にした。急を伝えた舎弟のバイクの後ろにドカッと座ると、ケンカ番長は目を閉じた。しかし、彼は眠ったわけではない。
ケンカ番長は疲れていた。肉体的にではなく、精神的に。「このままでいるわけにはいかない」と思うのだ。
あと1年で高校を卒業する彼は焦っている。中学からずっとケンカに明け暮れた彼には拳で築いた血と汗の闘争の歴史しか持たない。それもあと1年で自然と終わってしまうのを彼は知っていた。
しかし、その焦りを周りに打ち明ける訳にはいかなかった。強靭なプライドがそれをさせないのだ。その代わりに、彼の焦りは周囲へのイライラへと転嫁していた。
今日もそんな番長を後ろに乗せた舎弟は気が気ではない。いつ鉄拳が飛んでくるか判らないのだ。理由も判らず制裁を受ける身としては堪ったものではないが、殺気立つようにも見える番長を頼もしくも感じていた。
そうこうしているとバイクは急停止した。
「着きました!」
「おう」
「あそこです!」
舎弟が指差したところにはちょっとした人だかりが出来ていた。学ランとセーラー服の真面目そうな生徒が短ランと長ランのテカテカに固めた髪の野郎達に絡まれている。番長は絡まれているのが同じ高校の特別進学クラスの連中だと見て取ると、舌打ちしながら緩慢な足取りで近寄っていった。
ポケットに両手を突っ込みながら闊歩する彼には威風すら感じる。周りのやじ馬は瞬時に彼の存在に気づき、誰もが道を空けた。人だかりまでの道のりは、彼の花道のようだった。
ツッパリ達は真面目な生徒のカツアゲに忙しい。ケンカ番長の存在に気づかない。番長はすぐそばまで着くと言った。
「ウチのガリ勉をイジメんのはやめろ」
不意を衝かれたツッパリは身を翻すと、ケンカ番長にメンチを切った。
「ナンダァ、テメェ!」
甲高く威勢の良い声が響き、ガリ勉達はさらに怯えた。
ケンカ番長は素早く相手を観た。正面にひとり、そのすぐ後ろにひとり、少し離れた場所にもうひとりの計3人、それぞれのガタイは中の上、今のところ手には何も持っていない。そう感知すると、彼の中ではもう勝敗が着いていた。
数秒の沈黙の後、番長から先に手を出した。先手必勝が彼の得意とするところ。彼にしたら、メンチを切られた事だけで先に手を出す正当な理由があるのだ。
番長はサッと両手を広げ、まず左手の掌底に正面のツッパリの顎を乗せ、右手の掌底に少し後ろにいるツッパリの顎を乗せた。次に親指と中指で二人それぞれの顎の末端をガチっと掴む。そして次の瞬間にはツッパリ2人は宙に浮き、気がついた時には顔を地面に叩きつけられていた。
ほんの数秒でツッパリ2人を片付けると、番長はもうひとりを睨んで言った。「まだオレとやるか?」。長ランを着た残ったツッパリは怯みながらも身を屈め、内ポケットからバタフライナイフを取り出し、右手で握った。
辺りの空気が一気に張り詰めた。死人が出るかもしれない。やじ馬達は青ざめる。
と、その時。妙な奇声を挙げてツッパリが番長めがけて飛び掛かった。しかし番長は仁王立ちで迎えた。
番長の肉体にナイフが触れる前に、番長は相手のナイフを持つ手首を右手で捕えた。服の上からでも分かるくらい番長の腕の筋肉が盛り上がると、堪らずツッパリはナイフを離した。次の瞬間、バキッと鈍い音がしたかと思うとツッパリの手首はあさっての方向に折れていた。
泣きベソ掻きながらツッパリ達が退散すると、ガリ勉達も畏れるように走り去っていった。番長は孤独を感じたが、礼を言われないのはいつものこと。舎弟を探して帰ろうと踵を返した。
すると、うしろから声が聞こえた。振り返ると走り去ったと思っていた同じ高校のガリ勉連中のひとりが、バッグを胸に抱えて佇んでいた。その赤いメガネを掛けたセーラー服の女子は俯きながら言った。
「助けてくれてありがとうございます」
番長は慣れない感謝に戸惑いながら「おう」と頷いた。彼女はニコッと笑みを浮かべると、ペコリと深くお辞儀をし、足早にどこかへ駆けて行った。
別になんてことない。単に礼を言われただけだ。ケンカ番長はそう思い、まだどこかに隠れている舎弟を探した。
次の日の放課後、番長は教室で自分の机に足を乗せながら週刊『チャンピオン』を読んでいた。チラッと、赤いメガネ姿の女子が教室のドアのところで覗いているのが目に入った。彼女は番長を見つけると躊躇なくワルしかいない教室に入り、番長に近づて行った。
血の気の多い舎弟達が彼女の前に立ちはだかると、番長は「やめとけ」と彼らを制した。彼女はニコッと昨日と同じ笑みを番長に向けると彼の前まで近寄った。舎弟達はいぶかしげに二人を見ていた。
「これ、もしよかったら使ってください。昨日のお礼です」
彼女は一冊の大学ノートを突然差し出した。表紙には『物理』と書かれている。困惑顔の番長をよそに、彼女は続けた。
「あなた、物理が苦手って先生からきいたから。私のオリジナルのノートなんです。良かったら貰ってください」
番長は受け取って「おまえはいらないのか?」ときくと、彼女は何も言わずに笑みを浮かべて、人差し指で自分の頭を突いた。そして教室から出て行った。番長はノートを手にしたまま、バツが悪そうに黙って座ったのだった。
その後、番長は家に帰り、自分の部屋の椅子に座った。あれからというもの、バッグの中へ無造作に放り込んだ、まだ開かずにある彼女のノートが気になっていた。物理のノートなんてただの紙切れだと彼は思った。
しかし、彼女の笑みが物理のノートを単なる紙切れではないものにしていた。だから気になるのだ。彼は仕方ないといった顔つきでバックからノートを取り出した。
開いてみると、そこには幾何学模様やカタカナの法則名、その解説がビッシリと書き込まれていた。しかし決して見づらいことはなく、無駄な余白もひとつとしてない。教師が黒板に書くものよりも、さらには教科書よりも整然と彼女の言葉で物理学が展開されていた。
彼は眺めながら、そのノートに圧倒されていた。物理の内容は、残念ながらどれもすぐに理解できるものではなかったが、こういったノートを作り勉強に励む者がいることを彼は生まれて初めて身近に感じたのだった。気づくと手が汗で濡れていた。
ノートを閉じて、彼はしばらくその余韻に浸った。ゴツゴツしたものが胸につかえていた。そして考えた。
オレは誰よりも強い。タイマン張ったら誰にも負けない自信がある。でもそれは拳を交えた時だけ。今だけ。長くは続けられない。誰もがオレの強さを認めるわけじゃない。誰もが圧倒されるわけじゃない。オレはあの女にたった一冊のノートで簡単に圧倒されちまった…。
番長は立ち上がり、軽く伸びをした。ギュッと拳を握ってみる。握った反動で力が溢れ出すのを感じた。
ふと、自分の頭を指で突いてみた。何も返って来ない。カラッポだった。
彼は彼女の笑みを思い出してみた。思えばオレはああいう笑顔をしたことがないな。彼はそう思い、もう一度頭を突いて微笑んだ。
翌朝、珍しく目の下に隈を作った彼が学校に現れた。寡黙ではあったが、授業はひとつも居眠りしなかった。週刊『チャンピオン』だけが、彼の部屋のごみ箱で眠っていた。