スラッとした背の高いウェイターに、彼女はカフェオレを注文した。僕はアイスコーヒー。ウェイターは彼女にだけ微笑みで応えた。
彼女は「カフェオレ」ではなく「cafe au lait」と正しく発音した。ウェイターはそれを正確に聞き取ったのだ。やれやれと思いながらも、僕にはちょっと聞き取れない。
彼女はフランス人。歳は中年といったところ。だけど無駄なシワはひとつもないように感じた。
服装は黒のブラウスに朱いスカート。脚には黒い模様のストッキングを履いている。スカートはももの辺りまでスリットが入っていた。
覗こうと思えば覗けるが僕はそんなことはしない。僕はそういう人間ではないと信じている。あくまでも僕は彼女にあることを聞きに来たのだ。
「ところで話ってなに? 私はあなたに話すことなんて特にないけど」
日仏英のトライリンガルである彼女は日本語で流暢に言った。さっきのフランス語を話していた時とはまるで雰囲気が違う。英語だとまた違うんだろうなと考えながら僕は彼女に聞きたいことを話した。
「実は、恋について聞きたいと思って。恋って一体何なのかな? ちょっと分からなくなってさ」
彼女はチラッと鋭い顔をすると、すぐに柔和な顔つきに戻った。きっと一瞬で話の方向性を見抜いたんだろう。それくらいスマートに、彼女の頭は出来ている。
「それだけじゃ適切な返事はできないわ。あなたはいい歳して恋の何もかもが分からないわけじゃない。恋の何が分からなくなったの?」
僕は彼女と対面で話をすると少し緊張する。ちゃんと話をしなければ答えてくれないからだ。僕は少し考えて言った。
「恋って何度もするけど、どれが本物でどれが本物じゃないのかな。僕は結果論ではなく、最初の段階でそれを判断したい。間違いをしたくないんだ。コツみたいなのがあったら教えてほしい」
ちょうどその時、例のウェイターがカフェオレとアイスコーヒーを運んできた。コースターの上にそれぞれ丁寧に置くと、彼女にだけ微笑んだ。僕はムッとしながらも彼女の返事を待つために黙っていた。
「まず、恋は感情のひとつよ。だからロジックでは解けない。必ずしも因果関係が存在しているわけじゃないの。個々人に傾向みたいなものはあっても、それは経験則の範疇を出るものではないから、普遍的なコツなんてない」
「でも僕から見ると、君はいつもとても上手に恋愛してる。子供までいるのに。聞こえの悪い話は聞いたことがない。どうして?」
「あなたが臆病だからよ。感情に大小はあっても本物も偽物もないの。それはあなた自身の行いが決めるのよ。あなたに、あるいは相手に愛を打ち明ける勇気があるかどうか、それをお互いが信じ続けられるかどうかが、その恋を本物にするの。最初から決まってることなんてひとつもない」
彼女はカフェオレのカップに口をつけた。カップには淡く紅い口紅がついた。僕はそれを見ていたが、やめてアイスコーヒーを飲んだ。
僕は解ったような解らないような気がしていた。難しいというかピンとこない。結局モテる人とそうでない人では分かり合えないのだ。
「それであなた、好きな人でも出来たの? 具体的な手ほどきをしてあげてもいいわよ」
彼女がテーブル越しに、少し前のめりで話し掛けてきた。ブラウスのボタンが第三ボタンまで開いている。もちろん、僕は覗いたりしない。
「いいよ、そんなこと。僕には僕の事情があるんだよ。それに僕は恋について君の意見を聞きたかっただけなんだから」
彼女はニヤッと笑い、バックからタバコを取り出した。脚と腕を組み、美味そうにタバコを吸った。僕は堪らず彼女から目を逸らした。
「好きなのにそれを告白しない男も女も私は嫌い。スタートもさせないで挫かれるなら、どうせ良い恋愛なんてできない。恋や愛はひとりではできないのよ。どんな事情があろうと、まずはそれを互いに共有してから決めればいいのに」
その後、適当に世間話をして僕らは席を立った。例のウェイターと会計を済ませていると、彼女はウェイターにフランス語で何か話し掛けた。ウェイターも照れ笑いをしながら何やらフランス語で応じ返していた。
その日の別れ際、彼女は言った。
「私はね、恋が人を最も前向きにさせて、最も生きる希望を持たせてくれるものだと思うの。恋を諦めちゃダメよ。それは生きることを諦めることに似ているから。叶うといいわね、あなたの恋」
彼女は笑顔でそう言うと小さく手を振り、街の中へと消えて行った。見送りながら僕は彼女の言葉を考えた。気がつくと、雪が降り始めていた。
急に寒くなった気がして、屋根のあるバス停まで走った。こうしている間も、世の中では恋が生まれ、勇気と信念を持つ者だけがそれを手にすることができるだろう、生き活きとしながら。無機質な街のネオンに照らされながら、僕はひたすら帰りのバスを待ち続けた。