たった1% | 不思議、大好き!

不思議、大好き!

文章はすべてフィクション。ほぼ1話完結。

日が沈みかけると、甘夏色の日差しがデスクを染めた。ふと郷愁のような想いに浸る。しかし彼はなるべく仕事に集中するように努めた。

彼には妻子がいる。幼い娘を持つ彼の歳は30の大台に差し掛かろうとしていた。そんなある日、彼には好きな人ができたのだ。

その女性は同じ職場の同僚。歳は彼より4つ若い。ウェーブの掛かったセミロングでムチッとした体型の、素直で気持ちの良い女性だった。

もちろん彼は彼女をひとりの同僚として見るようにしていた。しかし、彼女が中途社員として入社した時から彼女の魅力を感じていた。その後もなるべく気にかけないように注意をしてはいたが、彼女への気持ちは日に日に膨らんで行ってしまった。

彼女も彼を気に掛けていた。二つ隣の島のデスクではあったが、彼女は良く彼をランチに誘った。同世代の女子社員とは行かずに、そうした大胆な行動を取る彼女は、周りからときおりやっかみを買ったりしたが、一向に気にしていないようだった。

いつも妻の手弁当を持参する彼は彼女の誘いを断りつづけた。でも、会社の飲み会では彼女と顔を合わせ、会話もしなければならなかった。彼と彼女は少し言葉を交わしただけで会話は弾んだ。

音楽や映画の趣味は一致し、印象に残る小説や価値観までも合致していた。会話の回数を重ねるたびに、彼女の彼への愛と尊敬の眼差しは深くなり、彼も彼女を愛おしく感じるようになっていった。お互い喉まで出かかった愛の言葉を抑えるのに苦労するほど、気持ちは高まった。

しかし、彼は家に帰り、娘の寝顔を見ると思うのだった。いけない、この子の意味を損ない、愛を貫徹できない背中を見せてはいけない。溺愛し、珠のような我が子を裏切れない想いが、辛うじて彼女への想いにブレーキを掛けていた。

裏腹に妻との関係は悪化した。上手く話すことができず、もちろん抱くことも出来なくなってしまった。お互いの関係は冷めるというより、死んでいった。

彼は悩んだ。妻と彼女の間の渓谷に掛かる吊橋で、娘を抱きながら苦悩した。その内、仕事も上手くいかなくなってしまった。

彼女はそんな彼を心から心配していた。自分のせいだと自らを責めながら、抑えられない彼を求める気持ちを持て余していた。そして彼女は決意し打ち明けた。

あなたとあなたの子供を受け入れる覚悟と揺るがない意思がある。私は何よりあなたを愛していて、求めている。そのための個人的な犠牲と起こり得るであろう困難には立ち向かうつもりだ。

彼女は彼にそう伝えると彼の返事を待った。しばらくして彼は言った。ありがとう、とても嬉しいけど、もう少し待ってほしい、近い内に必ず結論を出すと言い、彼女の目を真っ直ぐ見詰めた。

翌日から彼は会社を休んだ。異例の10日以上の休暇を取ったのだ。周りの者はとても腹を立てていたが、彼女だけは胸を裂かれるような想いでいた。

そして半月が経った。彼は彼女を呼び出した。げっそりとした彼がたどり着いた結論を彼女に話した。

「僕は君を深く愛している。おそらく君以上に愛せるヒトは僕には現れないと思う。僕は君を求めているし、僕と君は99%、相性も合う」

彼女は安堵で涙を流した。眼から溢れるものを止めることが出来なかった。しかしそれ以上に愛情は堰を切っていた。

「でも、僕は君を選ぶことができない。これは全くの運命のイタズラかもしれないが、僕にはハッキリ判る。僕は君を選べない」
「・・・どうして、さっき・・・」
「君には決してできないことがある。それは僕と君の間ではたった1%ほどのことでしかない。でも僕にとってそのたった1%のことの価値はそれ以外の99%を凌駕してしまう」
「私にできないことなんてあるわけない。あなたへの気持ちで何だってしてみせる。教えて、そのたった1%って何?」

彼女にはよく分からなかった。彼への愛は何にもまして強く、そしてこの強い感情があれば本当に何でもできると信じていた。彼は少しためらったが、答えた。

「そのたった1%は・・・今存在する僕の娘を産んでいないことだ」

彼女はすぐに反論しようと口を開きかけたが、結局言葉を失ってしまった。なぜなら、これから彼の子供は産めても、今存在する娘は決して産めないからだった。義母となることは出来ても、彼のこの世に於ける初めての子供を身篭ることはできないのだ。

彼は彼女に謝罪した。「君は決して、全く悪くない。悪いのは僕だ。こんなことを言うことになってしまって本当にすまない。でも僕は精一杯考えて出した結論で、これ以上のものは永遠に有り得ないと直観している。本当に申し訳ない」。彼はそう言い、しばらく彼女を気遣うように様子を見ていたが、彼女は堪えられなくなり、その場を去った。

その後、彼は会社を退職した。数日休暇を取った彼女が出社した時には彼のデスクは片付いていた。 彼女は複雑で妙な感覚を覚えた。

彼女はふと思った。夢みたいと。その夕方、甘夏色の夕暮れが街を染め、彼女はそれをいつまでも見詰めていた。