業界の変化

産婦人科を
長らくやっていると、
この業界の進歩や、
変化に驚く。

変化は三つに分類できる。
1) 誤っていた
2) 進歩して以前とは違う
3) 疾患そのものが減少してきた

子宮後屈という概念は
30年前は存在し、
そのために子宮の位置を
変化させる手術も存在した。
現在は、子宮の角度は
変化するものとして
捉えられ、治療の対象ではない。

アッシャーマン症候群、
Ashermann syndrome;
Asherman’s syndrome
手術の技量が上達したのだろうか、
最近はほとんど聞かない。
個人的には
子宮内膜の特徴から、
基礎疾患がない限り、
存在しない疾患と思う。

絨毛性疾患、
食生活の変化で、
かなり減少した。
30年前は、
あんなにあったのに。

変化は、
今も続いている。
仕事の合間に
勉強しなければならない、
理由がここに存在する。

幕末の嘉永五年に
我が国で初めての
帝王切開が行われたという
事実は大正の初めまで
誰にも知られていなかった。

大正四年、
順天堂佐倉の院長である
佐藤恒二先生が
蔵書の整理中に
偶然発見し、
発表している。

その後、昭和六年に
「圭設兒列幾私涅至ヲもって産婦を救う治験」
とこの事を紹介している。

「圭設兒」はドイツ語のカイザーで、
「列幾」は「れーき」と読み、
リッヒで合わせて「帝王の」となる。
「私涅至」は「スネーチ」と読み
オランダ語で「切開」となり、
「帝王切開により産婦を助けた仕事」と
なる。

当時、「帝王切開」という言葉は
使用されておらず、
明治時代は。
「国帝切開術」といわれ、
「帝王切開」は、
明治18年頃から、出始め、
30年代には主流になっている。

外国の言葉としては、
「セセリアン」とか
「カイザーシュニット」が
よく使用されていたらしい。
マーブル先生奮闘記

当時の医師の往診風景。

マーブル先生奮闘記

賀川玄悦、「産論翼」。 当時の産科学を代表する書物で、これが教科書であった。

マーブル先生奮闘記

江戸、小室家が使用した産科機械五点(左)。右は岡部、伊古田両先生が学んだ賀川流産科の秘宝の鉄の鉤で門外不出であった「産科学守護活鉤神仙」。これらで穿頭術を行った。

マーブル先生奮闘記

伊古田純道氏が自筆で書いた「撒羅満氏産論抄書」の抄録。

マーブル先生奮闘記

華岡青洲、乳がん手術(1805年)。

マーブル先生奮闘記

こんな風に手術は行われたのでしょう。

マーブル先生奮闘記

華岡青洲(紀州:現在の和歌山県那賀町出身)がこよなく愛した乳がん手術器具。

$マーブル先生奮闘記

本橋み登の墓。
終わりに

こんな時代に、
学問の中枢である
江戸や京都でなく、
片田舎の埼玉で
行われた帝王切開。

この二人は何故か
すぐには、正確な記録を残さず、
世間にも大々的に
発表はしていない。

本当に無麻酔だったのだろうか?
本当はどんな分娩だったのだろう?
この人たち以外に
関係者はいなかったのだろうか?
などの疑問は数多く残る。
いずれにしてもこの手術の成功の意義は
1) とにもかくにも手術としての成功、
2) 日本で最初の開腹術の施行と成功、
3) インホームド・コンセントのさきがけ
4) 麻酔
5) 手術記録の記載、
6) 診療記録(日誌)の記載、
7) 西洋の医学の導入と認識
8) 母児救命への試み
9) 術後管理の挑戦、
などがあげられる。

 岡辺均平は代々医師の家柄で二代目だった。10歳のとき医師の小室家に入門する。そのとき伊古田純道、(50歳:手術時)も同時期に小室家に入門し医学を学ぶ。岡辺均平の父の妹が伊古田純道に嫁いでいたため、伊古田純道は岡辺均平の叔父にあたる。
 手術を執刀したのは本当のところだれだったのか?叔父と甥の関係や、年齢、手術経験から岡辺均平は助手をし、伊古田純道が執刀したものと思われる。
 伊古田純道の手術の手引書ともいえる産論には患者の右側に術者が立ち、左側に助手が立つとされているため、伊古田純道が患者の右側で、執刀し岡辺均平は左側で助手をしたものと思われる。
 伊古田には息子たちがいた。そのうちの一人(三男)好道がこの手術に立会い、外回りや、器械出しの看護師の役割をしたものと考えられる。また、術後の岡辺均平と伊古田純道との十数キロの道のりを三男の好道が行き来し、連絡係になっていたものと思われる。
 本橋み登の寿命は88歳から92歳までの諸説がある。いずれにしても、術後、50年以上を生き抜き、明治時代に夫と子供たちと生き抜いた、たくましい母ちゃんだったことには間違いない。
み登が手術までに何人の子供を産んでいたか?これもいろいろで一人から4人までの記述がある。息子が一人存在することは間違いない。あとを継ぎ本橋家が継続している。
 今回の出来事を考えると多産の結果のほうが話のスジが通る。分娩時の模様はどうだったのか?記述上かなり判断が難しい。骨盤位、足位もしくは横位が考えられる。
 前期破水、もしくは早期破水があり、臍帯脱出がある。狭骨盤や児頭骨盤不均衡とされるが4経産にそんなことがあるだろうか?
 記述には臍帯脱出と手足の脱出とある。やはり、骨盤位、足位もしくは横位で、早期・前期破水が先行し、臍帯脱出が続き、回転術を行い、失敗し、胎児死亡し、骨盤内に固定してしまったとするが最も考えやすい。こうなるとなかなか分娩は進行しないし、大変だっただろう。
さて、麻酔については、浅田晃彦氏は通仙散の使用を想像して記述している。華岡清洲の通仙散である。
 これはどうなのだろう?疑問は数多く存在する。