前回の爆竹について私のたどり着いた結論を述べよう。←これは長崎くんちの写真である。
当時、テレビなどでこの龍踊をする人々の足元で爆竹がさく裂する生々しい映像を見た記憶があった。なぜ、この事を思いついたのかは ヒヒヒ・ 実は私は先にも述べたように日本史の教師であったからである。海上の道~これは柳田国男氏の持論であるが♪遠き島から流れよるヤシの実♪のように島国日本には海を伝って遠い地域から異なる文化が伝わってきたことは疑いがない。
実は宮古に転勤した後、妻と宮古市の重茂半島をドライブしたことがある。その時、ちょうど高台にある重茂地区の住宅街を通った時、あの南国特有の棕櫚の木が見えたのである。←棕櫚(しゅろ)の木
その時、妻と私は何故か同時に「和歌山!」と叫んでいた。
若き日、二人で小旅行した和歌山の漁村で見た風景とそっくりであったからである。
その時はやはり、宮古は暖かい土地柄なのでこうした棕櫚の木も育つのだと思ったが、重茂地区の家々の造りもやはり和歌山の漁村で見たものと同じように見えたのである。
二人の記憶が同時に和歌山!と発声させたことはやはり、人間の記憶にはそうしたものがあるのではないかと今でも不思議に思っている。そういえば私の尊敬する侍浜ブログのハマさんもあの有名なジョン万次郎に繋がるお名前であった。江戸時代以前から四国や和歌山の漁師たちは鰹を追って北へ進み、ついにはこの宮古や山田湾という絶好の漁場にたどり着き定住した人々がいたのである。
ハマさんのご先祖も間違いなく南国から来た人であったろうと推察される。
さて、あの爆竹である。発祥の地は勿論中国である。その爆竹には悪霊を退散させる力があると信じられ、今でも冠婚葬祭などで現地では激しくその爆竹の音が響いているという。
その中国と鎖国時代の日本で唯一繋がっていたのが長崎であることは言うまでもない。
その長崎からこの爆竹の文化は岩手県の沿岸部の宮古地方にも伝わってきたのに違いない。江戸時代、陸上の道よりも遥かに海上の道が多くの文化や物資を運ぶ道として栄えてきた。特に日本海側の航路は蝦夷地との交易で北前船として栄え、富をなしたものが多かったという。しかし、太平洋岸の航路は荒波が多く、かなり、危険な道であったと言われる。
しかし、川村瑞賢によって西回り航路に加えて、この東回りの航路が開発されたから、この地域も関西は勿論の事、遥か五島列島にある長崎からの文化が伝わってそれがこの爆竹になったのだと推察したのである。岩手県は四国ほどの面積である。東北新幹線が通る盛岡と宮古の距離はまさに香川の高松から高知や徳島に行くような距離である。しかも北上高地という昔は山脈と言われたほどの難所が続いていたのである。だから、海の道を通って宮古地方に伝わった爆竹は内陸地方にはなかなか伝わらなかったのだと思われる。また、魚介類を捕ることを主とする人々と内陸の北上川沿いの稲作を中心とする人々とは自ずからその文化の違いがあって当然だと思われるのである。同一県でこうした違いがあること自体がやはり、広大な面積を占める岩手県の広さを再び思い出させてくれる。
さて、宮古市に熊安旅館という老舗の旅館があった。今は、ビジネスホテルになっているが当時はその歴史は古く、知己を得たその旅館の主人は貴重な掛け軸を開いて私に見せてくれた。それはなんとあの五千円札にもなったことがある新渡戸稲造の書いた短歌であった。その歌は
「一生は下閉伊郡の旅路なり陸には峠海は荒波」とあった。
新渡戸稲造にとってこの内陸の盛岡から宮古までの旅路がいかに厳しく困難なものであったかが偲ばれる。そして辿り着いたその宮古は無情な荒波の風景が眼前にあったのである。
この歌は当時、岩手県立博物館にも知られておらず、高校の日本史研究会で私がこれにふれた時、参加者が全員びっくりして感動してくれたことが今の私の最高の思い出の一つにもなっている。岩手県の沿岸地方には下閉伊郡(しもへいぐん)があり、上閉伊郡(かみへいぐん)もある。下閉伊郡の中心は宮古であり上閉伊郡の中心は釜石である。
あれから40年・・・あの爆竹を、お墓で鳴らす風習は今も伝わっているのであろうか・・・。
あの頃の同僚や高校生だった教え子の姿が目に浮かび、懐かしい・・・。本州最東端重茂半島 とどが埼灯台への道からの風景 ネットから拝借しました。有難う・・