このブログを書き始めて一か月程が過ぎた。結局、自分のこれまで出会った人々との懐かしい思い出を書きたいという思いがこれを続けさせている。だから、その舞台はどうしても郷里での記憶につながる・・・。室尾犀星が「故郷は遠きにありて思うもの・・」という詩を残しているが、まさに最近の私はこの思いが強い・・・。だから、毎日、浮かんでくるその心象を文字にしたくなる。今日は何故か中学生時代の出来事を書くことにする。

 私は昭和20年12月生まれであり、まさに太平洋戦争が終わった数か月後に生まれた。多くの父親となる男性はまだ戦地にいる頃に母親の胎内に命を宿したのである。父親が42歳の時の子であった。だから、同級生の数も少なかった。私達の次の学年からベビーブームが始まり、小学校5年生の時は教室の数が足りなくなり、僅か64人の私たちの学年は2クラスを1クラスにされ、5学年の全員が同じ教室で学ぶ同級生となったのである。だから還暦の会を始め古稀の会など遠くからも多くの級友が参加した。さて、その中学2年の事だった。新しく職業課程という科目が始まり、ベテランのF先生が突然「お前たち、世界の国々の中でどの国が一番だと思うか?」と尋ねたのである。我々はイギリスだ!フランスだ!ソ連だ!スイスだ!など思いつくまま、いろんな国の名を挙げていった。するとF先生は「違う!それはアメリカだ!」と断言したのである。我々生徒たちは「なんでアメリカなのか?」と尋ねた。するとその回答は極めてシンプルですごいものだった。「アメリカでは毎日、卵焼きが食べれる。牛乳は飲み放題だ!

 どの家にも電話がある。そしてなんと自動的に洗濯してくれる機械がこれもすべての家庭に備えられている!」「それは何なのだ!」我々は叫んだ!すると教師は「自動洗濯機」と答えた・・。当時の日本ではとても考えられない夢のような話であった。冒頭の卵焼きなどは普通の家庭では卵は高価で病気見舞いなどに差し入れられていたほどである。まして、牛乳を好きなだけ飲める生活など、とても考えられなかった。しかし、凄い話が最後に来た!

 「あのな!アメリカではすべての家庭に最低1台の車がある。しかも家族分の数の車を持つ家庭は珍しくないのだ」・・・もう、異次元の世界の話しであった。

 岩手の田舎では冬になると馬そりが凍結した圧雪の上を車輪の代わりに鉄のスキー靴のようなものをつけて往来するのが普通の風景であった時代であったからである。

 何故、アメリカが世界で一番かはこれで決まりだった。

 最後にF先生はこう締めくくった。「お前たちが死ぬまでに日本がそんな国になれたならいいなあ・・・。」我々も心の底からそうあってほしいと願ったのであった・・・。

 それは平成上皇様が皇太子のころ美智子様とご結婚されて、そのパレードが村に数件しかなかったテレビジョンで放送されたころの昭和30年代半ばの事であった。

 同級生の高校進学率は3割を超えたくらいであり、3月には中学の同級生の約半数が集団就職列車に乗って東京へ向かう時代であった。

 ああ、上野駅♪・・・・♪蛍の光の曲が故郷盛岡駅頭に流れていたことを忘れられない。

 そして、昭和39年に東京オリンピックが開催され、日本は一気に高度経済成長を遂げ、まさにアメリカンドリームを日本の中で実現する国になっていたのである。昭和50年代初めには教員住宅に住む私もついに自宅に電話を設置することができた。最初の電話がチリンとなって受話器を取ってもしもし・・・と話した時、思わず感激の涙が頬を流れたことを今でも忘れられない・・・。その5年後、中古車のカローラも手にすることができた。私達の年代は戦争も経験することなく、青年期から壮年期にかけてこのような夢を実現できたのである。

 この新コロナに揺れ動く時代の中でそういった経験を出来た我々はやはり、幸福な時代人であったのだ・・・と今更ながら感じる今日この頃である。