聖 書  ヨハネによる福音書21章1~9節


1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。

2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。

3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。

4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。

5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」

6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。

7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。

8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。

9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。

 

 

 

メッセージ 「天国での宴」 滝本 文明 牧師

 

■イースターおめでとうございます。今日、イエス・キリスト様が、私達の復活の初穂として主が復活されました。罪と死と悪魔に勝利され、死人の中から復活されました。そして、主は今も生きて、私たちと共におられます。全世界の教会が、クリスチャンが、主の御復活をお祝いしています。

 イエス様は、今も生きておられます。イエス・キリストが甦られたからこそ、私達はこうして教会に集まり礼拝し、賛美し伝道しています。イエス様が甦られなかったとしたら、私達の人生はどんなでしょうか。復活がないとしたら、永遠の命(天国で生きる命)がないわけですから、未来もありません。限られた人生、死に向かって生きて行くしかない人生です。人生が死をもって終わりを告げる人生だとしたら、何と空しいことでしょうか。 たとえ地上での生涯が終わりを告げても、復活の朝がある、という希望を持って、明日に向かって生きることが、出来ます。

 

 今日の箇所は、主イエス様が復活され、弟子たちに三度目に、ご自身を現された箇所です。ペテロと他の六人の弟子は、ガリラヤの地に帰っていました。 ペテロの「私は漁に行く」との言葉に、弟子たちは「私たちも一緒に行こう」と出かけ、小舟に乗り込みました。これは、彼らの主イエス様を裏切ってしまったことの傷や失意、またユダヤ人への恐れ、の表れでしょう。私たちは、自らの犯した過去の罪や、失敗による心の傷を、そう簡単に癒すことはできないものです。また、具体的に直面している苦難の中での、恐れや不安はそう簡単には、拭い去ることは、出来なかったと思われます。

 

1)右側に網を打つ

21章1~3節で、 「その後、イエスはテベリヤの湖畔で、また弟子たちにご自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロは、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。」

 自分たちの知り尽くしている、ガリラヤ湖です。どこに行けば、魚がいるかは、だいたいわかります。夜の漁の方が大物が取れます。ところが、自分たちの今までの経験と勘を駆使しても、一匹も捕れませんでした。そして、がっかりして岸に戻ってきました。

 

次の4節に、「すでに夜が明けたころ、イエス様が岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだと分からなかった。イエスが、『子たちよ、何か食べ物があるか』と言われると、彼らは、『ありません』と答えた。イエスは言われた。『船の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。』そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。」とあります。(4~6)この中の「右側」と「網を打つ」という言葉に注目してみたいと思います。

 

※右側に

皆さんの利き腕は、どちらでしょうか。たいていは右手です。つまり、舟の右側と言うのは、私たちの利き手である側に、イエス様をお迎えして、自分の力ではなくイエス様の力、イエス様の権威によって、生き証ししなさいということではないでしょうか。つまり、私達は長い間、信仰生活し、証し伝道していますと、大体の感や経験が働きます。自分の技術や勘でやってしまうことがあります。そうではなく、常に、イエス様を先頭に立てて、イエス様に働いていただき、証し、伝道していただくようにしなさい、ということです。

 

それは、祈りと御言葉による証し伝道です。イエス様の御言葉を先頭にして、祈りつつ証し伝道する時、そこに大漁と言う大きな奇跡の業が、起こると教えてくださっています。主は、「そうすれば、とれるはずだ。」と約束して下さっておられます。これは確かな約束です。祈祷会、役員会、教会案内チラシ配布など、どんな時でも祈って始めます。イエス様が先に立ってくださるように。イエス様が、利き腕になって、力を発揮して下さるように。これが、「右側」の意味です。

 

※.網を打つ

次に、イエス様は「網を打ちなさい」と言いました。ペテロに「人間をとる漁師にしてあげよう」とおっしゃった方は、その漁の仕方を、一本釣りではなく、投網漁でするようにと教えられました。

この福音書の初めのところで、ペトロは網を打っている所をイエス様に見られて、弟子になりました。また、ヤコブとヨハネは、網をつくろっている所を見られて、弟子になりました。彼らとイエス様の出会いの姿からも、証し伝道の働きと役割を、見て取ることができます。ペテロは、湖のあそこがポイントだ、あそこに網を打てば必ず魚が取れる、という漁労長のような役目を果たして、真っ先に行って網を投げ込む役目です。

 

ヤコブとヨハネは、網に入った魚が、網の破れ目から逃げて行かないように、網の破れを補修して岸まで引いて行く役目です。魂のフォローと、人間関係の破れを繕う牧会の働きです。みんなの間に裂け目が生じないように、いつも気を配って網目を見守って行く働きです。

 

イエス様は、ここでは「舟の右側に網を打ちなさい」と言われました。また、ほかのところでは「沖にこぎ出して網を下ろし、漁をしなさい。」(ルカ5:4)とも言われました。その時も大量の魚が入りました。網は、私たちの主にある交わりを指しています。共に祈り、共に語り合い、共に御言葉を学び、共に賛美をすることです。

 

2) 天国での宴

やがて、私達は、この網を水の中に下ろし、向こう岸つまり天国まで行きます。そこで、岸辺(天国)で待っておられるイエス様と、一緒に魚をいただくのです。イエス様は、すでに炭火をたいて待っておられます。そして、イエス様が準備して下さった、魚とパンを囲みながら、私達が捕った魚も交えて、天国での楽しい朝の食事が始まります。「さあ、来て朝の食事をしなさい。」と言ってイエス様と共にいただく復活の朝の宴です。これが天国での宴です。

 

先に召された、愛する兄弟姉妹を思い出します。素晴らしい信仰の友であり、良き交わりを、

させて頂きました。これらの方々と、またお会い出来るのです。聖書は、約束しています。

何と素晴らしい神様の約束でしょうか。私の身代わりとなられた、十字架の主を信じるだけで

天国へのキップがいただけるのです。先に召された、愛する兄弟姉妹と、また手を取り合って

天国での祝宴が、許されるのです。

天地創造された、聖書の神様を信じないのは、罪であり、またもったいないことです。

父なる神様の愛と憐み、イエス様のご愛と、とりなしに感謝して、お従いしましょう。

 

結 論

復活された主が、先に向こう岸に立って(天国で)、私たちを待っておられます。たとえ一匹も捕れなくても、私達に声をかけて、励まし導いていてくださいます。この主のお声に耳を傾けて、み言葉に従います。また日本人の先人も、迫害に耐え、命さえも惜しまず、主に従った信仰の先輩たちによって、私も天地創造の主を、信じるに至ったことを思い、私達も福音を証する日々を送り、先に召された、愛する兄弟姉妹と、また手を取り合い、天国での祝宴を待ち望みつつ、これからも信仰を全うして行きましょう。

 

 

 

聖 書  ルカによる福音書 23章27~37節 

 

27 大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った。

28 しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。

29 なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ』と言う日が来るのですから。

30 そのとき、人々は山に向かって、『われわれの上に倒れかかってくれ』と言い、丘に向かって、『われわれをおおってくれ』と言い始めます。

31 彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう。」

32 ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。

33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。

34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」

36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、

37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。

 

 

メッセージ 「十字架の七つの言葉」 滝本 文明 牧師

 

 

■本日の聖書箇所は、「世の罪を取り除く神の小羊」であられた主イエス・キリストが、十字架の上で、午前9時から午後3時までの6時間の間に語られた、七つの言葉のひとつひとつの言葉、に耳を傾けその一言、一言を心に刻みつけたいと思います。ここには、イエス様が、なにゆえに、十字架で、死ななければならなかったのか、神様の側からの事情が見えてきます。

 

【聖書箇所】マタイ27:35~44、マルコ15: 24~32、ルカ23:33~43、ヨハネ19:18~30

主は、十字架上で、「七つの言葉」を発しておられますが、その一つ一つは、実に驚くべき、神の救いと愛のみわざ、を示しています。

 

【1】「父よ。彼らをお赦し下さい。父よ。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)。 

   御父へのとりなしの祈り(赦しのことば)。

  

イエス様が十字架上で語られた七つのことばは、「父よ。」で始まっていますが、十字架上の最後のことばも「父よ。」で終わっているのです。イエス・キリストは実に「神の御子」であられる御方であり、永遠の昔から御父と御子として、少しの妨げもなく親しい、お交わりの中にあられたのです。聖なる神に対して、「父よ。」と呼びかけることのできる御方はイエス・キリスト以外には一人も存在しないのです。この神の御子が、私たち罪人(全人類)のために救い主として、人の姿

を取っ御父のみもとから、この地上に来てくださったのです。そして、その神の御子イエス・キリストが、そのご生涯の最後に、十字架に掛けられたのです。

 

【2】「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)。

  イエスの約束のことば。

 

 ゴルゴダの丘に三本の十字架が立てられました。当然、十字架は極悪人が磔(はりつけ)にされる極刑であります。両側には二人の強盗がつけられ、しかしその真中には、全く罪の無かったイエス・キリストが十字架につけられていたのです。キリストの十字架は罪人(全人類)の身代わりのゆえです。しかし、二人の強盗は、最初はどちらもイエスを罵倒し、嘲っていましたのですが、途中で強盗の一人に明らかな変化が起こりました。十字架上のイエスのあまりにも崇高な、お姿を見て、彼はイエスを神の御子と認め、心から救い主と信じたのです。その悔い改めた強盗に対するイエスの約束のことばが、これです。「どんなに罪深い人も、悔い改めてイエスをキリスト(救い主)と信じるならば、さばきから救われ、永遠のいのちを受けることができるのです。」

 

【3】「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」   (ヨハネ19:26)。

「そこに、あなたの母がいます。」          (ヨハネ19:27)。

   思いやりのことば。

 

十字架刑は、世界で最も残酷な処刑の方法であると言われています。たった三つの傷口に体重をまかせ、しかもその傷口を絶えず広げることによって、血を絶え間なく、絞り取っていくのです。その苦痛がどれほどのものであったかは、想像を絶するものがあります。このような苦しみの中では、通常は他人のことを考えたり、思いやるなどという余裕はないのが常であります。人間というのは、自分が辛いとき、苦しいときには、自分を悲劇の主人公のように思い、他人からの同情を自分の方に引こうとするのが普通ではないでしょうか。もちろん、苦しみに会えば会うほど、他人に同情できるような思いやりの心が生まれることも事実ですが‥‥。

しかし、イエスという御方は実に偉大であり、不思議な方です。その十字架の苦しみの足もとにイエスの母マリヤが立っていたのです。イエスは、そのマリヤに目を注いで、そしてついに声をかけられました。「女の方よ。」と。マリヤはイエスが幼少の時からずっと愛を持って育み、わが子として見守って来ました。しかし、イエスと母マリヤの関係は特別な関係であり、神の御子が聖霊によってマリヤの胎に宿ったのであり、イエスの母であると同時にマリヤも含めて全人類の救い主として来られた御方です。ですから、この「女の方」という言い方には特別に深い意味が込められているのです。

 

【4】「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)

   神に見捨てられたことば。

 

まず、このことばは、旧約聖書の詩篇22編1節と同じことばなのですが、そこには、やがて来られるメシヤの十字架の場面が預言されています。聖書によると、イエスの御口から、このことばが発せられたのは「午後三時ごろ」でした。そして、それは「大声で」叫ばれたのです。十字架に掛けられたのは、朝の九時頃ですから、その時から六時間も経過して、血は流れ続け、喉は渇き、死の一歩手前まで来ている時に、全力を振り絞って、「大声」で叫ばれたのです。昼の十二時には、全地は暗くなって三時まで続きました。

 暗くなってから三時間の沈黙があって最初のことばがこれです。それも大声で叫ばなければならないほど重要なことばでした。「神は罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました」(Ⅱコリント5:12)とありますように、罪無きイエスが私たちの代わりに、神に捨てられたのです。この三時間の暗やみについて私は全部説明することはできません。しかし、イエスにとってそれがどんなに恐怖であったかは、想像するに難くないと思います。神に捨てられるということが、どれほど恐ろしいことか、お考えになったことがあるでしょうか。それは、みな私たちの救いのためであったのです。

  

【5】「わたしは渇く。」 (ヨハネ19:28)。

   死の苦しみのことば。

 

 体から血が流れ出る時は、とても喉が渇くということを聞きました。六時間の十字架の苦しみです。ずっと、傷口はえぐられ続けており、血は絶え間なく流れ出ていました。ですから、体液が極度に、薄くなっていたことは確かであります。その渇きは限界に達したとき、イエスは「わたしは渇く。」と言われたのです。それを聖書の記者は、「聖書が成就するために」と注釈しています。「私が渇いたときには酢を飲ませました。」(詩篇69:21)の成就です。そして、そのとおりに、ローマの兵卒は「酸いぶどう酒」をイエスの口元に差出し、その渇きはさらに増したのではないでしょうか。

 

 

【6】「完了した。」 (ヨハネ19:30)。     救いの完成のことば。

 

 口語訳聖書では、このことばは「すべてが終わった。」でしたが、それを読むと「すべてが終わってしまった。もう駄目だ!」というような意味に誤解されやすいですが、「完了した。」の方が意味が明確に分かるように思います。イエスは死を迎えられる瞬間に「完了した。」と言われました。この箇所の意味は、旧約聖書にも預言されていた、人類救済の贖いのみわざがすべて「完了した」ということです。キリストが受肉され、赤子として誕生されたのも、多くの迫害や試練を通られたのも、三年半の公生涯も、すべてはこのみわざを完成するためであったのです。十字架の六時間の苦しみ、特に後半の三時間の闇の中の沈黙の時間もすべてはこのときのためであったのです。イエスの生涯の目的は、すべて十字架の死にあったのです。そして、このキリストが成就された救いのみわざは、「完了した」のですから、人間がこれに加えるものは何もないのです。

 

 

【7】「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」 (ルカ23:46)。 

   父なる神にゆだねることば。

 

 イエスの六時間にわたった、十字架の苦しみの最後の言葉も最初と同じ、「父よ。」であったのです。「わが神」ではなく、「父よ。」であったのです。イエスはなすべきすべてが完了して、ご自分の肉体の死が間もなくやって来ることをご存じでした。

そのわずかの間、イエスは目を天に向けて御父を見ました。多分、この時には暗闇が晴れていき、闇間から光が射していたかもしれません。この時のイエスの心は安らぎが満ち、幼児の父親に対する呼びかけにも似た純粋なものではなかっただろうかと推測します。

その時の御父は、「わが神。」と叫んだ時のものではなく、昔と変わらない慈愛に満ちた、御父の御顔であったでしょう。イエス様は一切のことを御父にゆだねて、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と言って、間もなく息を引き取られたのです。

 

私達も、人生の最後に、息を引き取る瞬間に愛なる神に、すべてをゆだねることが出来る人生を選択して、「天のお父様」とお呼びしたいものです。

 

 

 

 

聖 書  ヨハネ13章1~9節

 

1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

2 夕食の間のことであった、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、

3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、

4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。

5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。

6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」

7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」

8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」

9 シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」

 

 

メッセージ 「最後の晩餐」 滝本 文明 牧師

 

■本日の聖書箇所は、最後の晩餐の場面です。「最後の晩餐」というと、レオナルド・ダ・ビンチが描いた聖画のおかげで、クリスチャンでない方々もよくご存知の場面です。ただ、ダ・ビンチが描いたように椅子に座っての食事ではなく、当時は肘をついて横になりながらの食事が一般的だったようで、雰囲気はまったく違っていたと思われます。

 それに、足洗の場面は、ローマカトリック教会ではローマ法王が毎年洗足の儀式をすることになっていて、以前、法王が誰の足を洗うかがニュースになりました。ちなみにイタリアの刑務所で服役中の人々の足を、法王は洗われたそうです。

 イエス様の時代、人々はスニーカーや革靴などは、履いていませんでした。サンダルのような履物だったと考えられます。道も現代の都会のように舗装されていません。埃っぽい道をサンダルのようなもので歩くので、足は大変汚れていたと考えられます。その足を洗うのは奴隷の仕事でした。それも外国人の奴隷に限られた仕事でした。もっとも下賤な仕事とみなされていたのです。

 

1)弟子たちの足を洗われた主

1節で「過越の祭りの前に」とヨハネは記しています。しかし他の3福音書では、最後の晩餐は過越の食事だとされています。つまりイエス様と弟子たちは一日早く、独自の立場で過越の食事をされたことになります。そして翌日に、イエス様は十字架に架けられました。この最後の晩餐が「過越の食事である」ということが重要なことです。

過越の祭りとは、イスラエルがエジプトで奴隷として仕えていた時代に、神様がモーセを指導者として立てられ、十の災害を持って、イスラエルをエジプトから救い出されました。その時の最後の災害は「すべての家の初子、家畜の初子はさばかれて死ぬ。」というものでした。しかし、家のかもいと門柱に、子羊の血を塗るなら、神のさばきはその家を過ぎ越し、その家の中にいる初子は救われました。イスラエルの全家族は、主が命じられたとおり子羊の血を塗りました。しかしエジプトの人々は、血を塗らなかったので、神のさばきによって彼らの初子はすべて息絶え、エジプト全土で、泣き叫ぶ声が上がりました。そしてこの神のさばきを通して、イスラエルはエジプトから救い出されました。これを記念し、お祝いするのが過越の祭りです。

 

 イエス・キリストが、十字架に架けられ死なれるのは、「過越の祭り」の時であることが父なる神様の御計画でした。それは過越が神様のさばきの時であり、同時に救いの時だからです。人々が救われるために、必要なのは子羊の血でした。子羊がほふられなければならないのです。イエス・キリストは、そのほふられる子羊となって血を流し、その血によって私たちは、神のさばきから救われるのです。つまり、過越の祭りは初めからイエス・キリストの十字架を、示していたのです。

 子羊がほふられたのは、過越の食事の前でした。人々は子羊の血を、かもいと門柱に塗らなければなりませんでした。イエス・キリストが、十字架に架けられ殺されたのは、過越の祭りが始まる前でした。イエス・キリストは、過越のための、ほふられる子羊となられたのです。

4節、「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。」

5節、「それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。」

6節 、こうして、イエス様はシモン・ペテロのところに来られた。ペテロは、イエス様に言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」

7節、イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」

8節、 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」

9節、 シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」

 

 ヨハネは、イエス様が「この世を去って、父のみもとに行くべき自分の時が来た、ことを知られたので、世にいる自分の者を愛され主は、その愛を残るところなく示された。」と1節で記しました。イエス様は立ち上がり、上着を脱いで手拭いを腰にまとわれ、そして弟子たち一人一人の足を洗われました。それは当時では召使いがする仕事でした。この最後の晩餐の席には、召使いが誰もいなかったのでしょう。そのため、皆の足は汚れたままでした。それで主は立ち上がって、12弟子の足を、洗い始められたのです。

 ペテロはイエス様に、足を洗ってもらうことなんて、もったいないという思いから「決して私の足をお洗いにならないでください。」と頼みます。それは純粋なペテロの言葉でしょう。しかし、主は「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」と語られました。ペテロはそれだったら「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」と頼みます。その時、イエス様は彼に言われました。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。」

 カトリック教会、聖公会などでは、洗足式を礼典として行っています。しかしイエス様が命じられた内容をよく読むと、「足を洗い合う」ことに、焦点が置かれてはいません。ルカによる福音書22章24節では、最後の晩餐の時に弟子たちの間で「この中で誰が一番偉いだろうか」という論議が起こった、ことが書いてあります。そのような弟子たちの、さもしい心を知られたイエス様が、召使いがする仕事であった、足洗いを自ら進んで行われたのです。つまり、「足を洗い合いなさい」ではなく「仕え合いなさい」ということが、ここでのイエス様が意図されたことです。現代では足を人に洗ってもらう習慣はありませんし、足を洗い合うことが、仕え合うことになるとは考えられません。かえって足を洗ってもらうことは恥ずかしく、嫌な思いを持つ方もおられるでしょう。そのため「足を洗い合うこと」は、現代では「互いに仕え合う」になります。

 

 イエス様が、弟子たちの足を洗われた本当の目的は、弟子たちにご自分の愛を示すことでした。

15節で、「 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」と言われました。

 20節、「 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を、受け入れるのです。」

 

イエス様の願いは、私たちがイエス様の愛を受けて、私たちも互いに愛し合い、仕え合うことです。主であり、師であるお方がへりくだり、仕える者となって模範を示してくださったのですから、その弟子である私たちも、同じように仕え合うのです。そして互いに仕え合うなら、そのことによって、あなたがたは祝福されるのだと、イエス様が約束されています。

 

 <雪のように白く>

 私たちは、罪のこの世界を生きていきます。どのように汚れないように気をつけても、私たちの足は汚れます。スニーカーを履いても、立派な革の靴を履いても、私たちの生身の足は泥にまみれるのです。生きていくことは、罪の泥にまみれることとも言えます。しかし、なおその汚れを洗ってくださる方がおられます。

詩篇51篇は、罪の悔い改めの詩篇として名高いものです。「神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。/深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。/わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください」で始まります。「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください。/わたしが清くなるように./わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。」このような言葉もこの詩篇にはあります。わたしたちは、深い憐れみによって罪をぬぐってください、罪から清めてください、という言葉には心を合わせらます。しかし、雪よりも白くなるように洗ってくださいというのは、なにか大げさな詩的な誇張のように聞いてしまうかもしれません。私たちの汚れた罪の心が、この世を歩んで汚れた足が雪のように、白くなるなんてことは実は、心からは思っていないかもしれません。真黒な罪が洗われても、私たちはそれが真っ白ではなく、グレーくらいのものにように感じるかもしれません。しかし、たしかに主イエスが身をかがめ奴隷として、私たちに仕えてくださるゆえに、私たちは雪のように白くなるのです。一点の汚れのない者として、父なる神の前に立つことができるのです。主イエスが洗ってくださったからです。

 

■結 論 

イエス様は、世にいる自分の者を、最後まで愛されました。最後の最後まで、その極みまで、とことん愛されました。夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとわれ、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗い、腰にまとっておられた手ぬぐいで拭かれました。決して手ぬぐいを、投げたりされませんでした。 手ぬぐいを投げるというのは、働きを放棄することを意味します。ですから、ボクシングの試合で、もうこれ以上は戦えないという時には、セコンドからタオルが投げ込まれるのです。しかし、イエス様は決して、タオルを投げませんでした。最後の最後まで、とことん愛してくださいました。私たちは、このイエスの愛を知りました。だから、私たちも互いに、愛し合うことが出来るのです。たとえ、相手の足が臭くても、たとえ、顔をそむけたくなるような足でも、互いにその足を、洗わなければならないのです。イエス様が、弟子たちの足を洗われたのは、私たちもするようにと、私たちに模範を示すため、だったのです。私たちもイエス様によって足を洗っていただきましょう。そして、互いに足を洗い合い(仕え合い)ましょう。そのようにして、キリストの弟子としての、歩みを全うしていきたいと願います。

 

 

 

 

聖 書  ルカ19章29~36節 

 

29 オリーブという山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、

30 言われた。「向こうの村に行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて来なさい。

31 もし、『なぜ、ほどくのか』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入用なのです。』」

32 使いに出されたふたりが行って見ると、イエスが話されたとおりであった。

33 彼らがろばの子をほどいていると、その持ち主が、「なぜ、このろばの子をほどくのか」と彼らに言った。

34 弟子たちは、「主がお入用なのです」と言った。

35 そしてふたりは、それをイエスのもとに連れて来た。そして、そのろばの子の上に自分たちの上着を敷いて、イエスをお乗せした。

36 イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた。

 

 

メッセージ 「ロバの子に乗られた主」 滝本 文明 牧師

 

今日のみ言葉でイエス様は、過越祭りの時に、エルサレムに入城されました。イエス様は、ロバの子に乗ってエルサレムに入られたと、ルカの福音書も伝えています。これまで多くの王や将軍たちが軍隊に先導され、軍馬に乗ってエルサレムに入城しました。しかし、イエス様は馬ではなく、ロバの子に乗って入場されています。イエス様が馬ではなく、ロバの子を選ばれた、このことが私たちの人生と、どのように関わってくるのかを、今日のみ言葉から、教えられたいと思います。

 

1)私の罪を背負うためにロバに乗られた主

 ルカはイエス様の、エルサレム入城の模様を、19章28節以降で記しています。エルサレムを目指して、旅を続けて来られた、イエス様一行は、エルサレム郊外のオリーブ山の、ふもとまで進んで来られました。 近くにベテパゲとベタニアの村が見えます。イエスはエルサレム入城にあたってロバの子に乗って入ることを決意されており、二人の弟子に「向こうの村へ行って子ロバを借りて来なさい」と言われました。ベタニアであれば、イエスと親しかったマリアとマルタが住んでいますから、イエスの為にロバの子、を用立ててくれるに違いありません。イエスは弟子たちに注意を与えて、遣わされました。31節、「もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい」と。

弟子たちが村に行くと、ロバの子が、つないでありました。弟子たちは村人に断った上で、子ロバを借り、イエス様の元に連れてきました。イエス様は、そのロバの子に乗られて、エルサレムに入城されます。エルサレムでは、高名な預言者が来るとして、人々が集まって来ました。不思議な力で病を治し、悪霊を追い出されるイエスの評判は都まで伝わっていました。もしかしたら、この人がモーセの預言したメシアかも知れない、人々は期待を込めてイエスを歓迎しました。36節、「イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた」。ヨハネ福音書には、「しゅろの枝ナツメヤシの枝」ともある。これは王を迎える時の慣習です。人々は叫びます38節、「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、栄光はいと高きところに。」

人々はイエス様を「メシア=救い主」として迎え入れたのです。当時のユダヤは、ローマの植民地であり、人々はユダヤをローマから開放してくれる、メシアを求めていました。これまで多くの不思議な業を、行なってきたイエスこそ、そのメシアではないかと、人々は期待したのです。

イエスは、政治的解放者としてのメシアを求める、人々の期待を知っておられました。その期待に応えるには、どのようにしたら良いのか、馬に乗って、威風堂々と入城する方法が普通です。ローマの将軍は、4頭立ての戦車に乗って都に入りました。イエス様が「メシア=王」であられるならば、その方がふさわしいはずです。王は、軍馬に乗って堂々と入城すべきです。しかし、イエスは馬を選ばれず、ロバの子を選んで、エルサレムに入られました。ろばの子は、風采の上がらない、戦いの役に立たない動物です。王にふさわしい乗り物ではありません。しかし、イエス様はあえて、ロバの子を選んで、エルサレムに入場されました。

イエス様が、ロバに乗って入城された背景には、ゼカリヤ書の預言があります。ゼカリヤは預言しました。ゼカリヤ9:9節「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ロバに乗って来る、雌ロバの子であるロバに乗って」、と。

イエス様は、ガリラヤからエルサレム近郊まで、歩いて旅をして来られました。しかし、このたびのエルサレム入城においては、あえてロバを調達され、ロバに乗って、エルサレムに入られました。それは、イエス様が、ゼカリヤ書に象徴されるような、平和のメシアである事を、人々に示されるためでした。「私はメシアであり、あなたがたを救う為に、都に来た。しかし、あなたがたが期待するように軍馬に乗ってではなく、ロバの子に乗って、あなたがたのところに来た」。イエスはこの行為を通して人々に語られます「馬は人を支配し、従わせるための乗り物だ。しかし、私は支配するためではなく、仕えるために来た。ロバは人の重荷を負う。私はあなた方の罪を背負うためにロバに乗って来た」と。

 

ロバは、愚直な動物で、戦いの役に立ちません。しかし、ロバは、柔和で忍耐強く、人間の荷を黙って負います。イエスも重荷を担うために来たと言われます。しかし、人々が求めていたのは、栄光に輝くメシア、軍馬に乗り、大勢の軍勢を従え、自分たちを敵から解放し、幸いをもたらしてくれる強いメシアです。重荷を代わりに負ってくれる、ロバに乗る柔和なメシアではありません。人々は、イエスが自分たちの求めていたメシアではないことがわかると、一転して「イエス様を十字架につけろ」と叫びはじめます。これがイエス様を、受難へと導いて行きます。

 

イエスはエルサレムに入城された時、これから何が起こるかをご存知でした。エルサレムはイエスに敵対する、祭司やパリサイ派たちの本拠地です。ヨハネ福音書によると、祭司長たちとパリサイ派の人々は、既にイエスを殺す計画を立てていました。その人々にイエスは、自身がロバに乗ることを通して、平和を呼びかけられたのです。他方、弟子たちや民衆は熱狂の渦に中にいます。彼らはイエスが、エルサレムにお入りになれば、神の国がすぐにも来ると考えていました。イエス様のようなカリスマ性のある預言者、メシアと評判の高い指導者が呼びかければ、人々が決起して集まり、ローマの軍隊を追放することは出来ると思っていたのです。当時の人々にとって、「神の国」とは、イスラエルが植民地支配から解放されることだったのです。

しかしイエス様は、馬ではなく、ろばに乗って入城されました。軍馬は人間を支配する象徴です。他方、ろばは平和の象徴、柔和な生き物です。柔和とは(ギリシャ語=プラエイス)、人々と争わず、力ずくで物事を進めないことです。主により頼む者は、自らの力に頼りません。全てを主に委ねるとき、そこに憎しみも、報復も生じません。力づくで自分に従わせるやり方では、遅かれ早かれ破綻するでしょう。力づくでない、「柔和な人こそが地を受け継ぐ」のです。イエス様は、エルサレムで死ぬことを通して、人々の罪を、我が身に担おうと、決意しておられたのです。ちょうど、ロバが人々の荷を担うようにです。

 

■結 論 

イエスの気持ちを知り、自分も子ろばのようになりたいと思った人に、榎本保郎牧師がいます。「ちいろば先生」として有名な人です。ちいろば=小さなロバの略称です。彼はその著書『ちいろば』のあとがきで次のように述べています。「ロバの子が、向こうの村につながれていたように、私もまたキリスト教とは無縁の環境に生まれ育った。知性の点でも人柄の点でもキリストに相応しいものではなかった・・・ロバは同じ馬科の動物でも、サラブレッドなどとは桁外れに、愚鈍で見栄えがしない。しかし、その名もないロバの子も、一度主の御用に召されれば、その背にイエスをお乗せする光栄に浴し、おまけに群集の歓呼に迎えられて、エルサレムに入城することが出来た。私のような者も、キリストの僕とされた日から、身に余る光栄にひたされ、不思議に導かれて、現在に至った。あの「ちいろば」が味わったであろう喜びと、感動が私にもひしひしと伝わってくる。その喜びを何とかして、お伝えしたい」。と。

ロバに乗る人生とは、ただ主にのみ依り頼んで、歩いていく人生です。ロバは柔和で忍耐強く、人間の荷を黙って負います。イエス様も私たちの重荷を、何も言わずに負って、くださいました。

ロバのように、忍耐強く、愚痴を言わずに、黙々と他者の荷を負っていく。そのような教会を創りたいと願います。私たちは、いつも自分の正しさを主張し、そうすることによって、絶えず繰り返し不正をなし、不幸を引き起こしています。それを知るゆえに、私たちも馬ではなく、ロバを選択いたしましょう。

 

 

 

 

聖 書  創世記18章20~26節 

 

20 そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。

21 わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行っているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」

22 その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。

23 アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。

24 もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれうのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。

25 正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とがおなじようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義をを行うべきではありませんか。」

26 主は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」

 

 

メッセージ 「ソドムとゴモラ」 滝本 文明 牧師

 

今日のみ言葉は、神様がソドムとゴモラを、滅ぼそうとされた時、アブラハムにそのことを前もって知らせらたこと、アブラハムが、それに対して神様と交渉(とりなし)をしたことが書かれています。

「ソドムとゴモラ」は、歴史の中で、悪名高い町々の名前です。この二つの町は、不道徳のきわみに達していたため、神様によって滅ぼされてしまいました。この二つの町は、死海の南にありましたが、今は、死海の湖の底に、沈んでいると言われています。

 

1)アブラハムのとりなし

18章1~2節、アブラハムの元を、3人の人が訪れました。アブラハムは「主」と呼んでいますから、受肉前(イエスさまとして生まれる前)の御子と、天使たちだったようです。

アブラハムは彼らを迎え入れ、食事を振る舞います。

 18章14 節、「【主】にとって不可能なことがあるだろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている。」と告げられた後、

アブラハムの元を去る前に、主はこのように思われました。

創世記 18章17節で、 主はこう考えられた。「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」アブラハムに、主が教えてくださった計画は、これからソドムとゴモラに起こる出来事、についてのことでした。 神さまは私たちに、ご計画を教えてくださいます。そして、主が私たちに教えてくださるなら、そこには意味があります。

 

創世記 18章20節、 主は言われた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、彼らの罪はきわめて重い。」 そして21節で、 「わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおり、彼らが滅ぼし尽くされるべきかどうかを、見て確かめたい。」 ソドムとゴモラの悪は、もう誰にも留められないほどに酷い状態でした。

神さまは、この街を滅ぼさなければならない、と思っておられました。主は、それがどれほど酷いものなのか、実際に見に行こうとされていたのです。

そう言っておられますが、神さまには、ソドムとゴモラの状態は、判っておられるはずです。

それをわざわざ、人間の姿になって、実際に見に行くと言われました。この辺りが、神さまの驚くべき、優しさだと思います。神さまは、悪を見逃すお方ではありませんが、少しでも時間を待って、悔い改めるチャンスを与えておられるのです。

 

 自分ではない、誰かのために祈ることを、キリスト教用語では「とりなし」と呼びます。

アブラハムは主の前に立って、ソドムとゴモラの滅びを、思いなおすように、「とりなし」ました。

神様が、ソドムとゴモラを滅ぼそうとしておられる。これを聞いたアブラハムは、神との交渉(とりなし)を始めました。 28節に「アブラハムは近づいて申し上げた。」とあるように、アブラハムは真剣で、熱心でした。アブラハムは言いました。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。本当に滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しには、ならないのですか。正しい者を、悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが、同じようになる、というようなことを、あなたがなさるはずがありません。」

 

 アブラハムは、ことばを尽くして「神の義とあわれみ」に訴えています。 神様は正しい者と、悪い者とを一緒に扱うことは、なさらないというのが、神の義であり、本来は滅んで当然の者であっても、悔い改めるならゆるしを与えられる、それが神様のあわれみです。

 

 神様は、もし、ソドムに五十人の正しい人がいたなら、ソドムを滅ぼさないと言われました。当時ソドムの町の人口がどれほどだったかわかりませんが、どんなに少なくても500人以上は、いたでしょう。アブラハムはまず、その十分の一の50人からスタートしました。 聖書で十分の一というは特別な数字です。それには「神のもの」という意味があります。 アブラハムは、ソドムとゴモラにも、正義を求める人がいる、少なくとも十分の一はいる、と信じたのです。神は「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。」(20節)と言われましたが、「ソドムとゴモラの叫び」とは、その町の罪や悪のために、苦しめられた人たちの叫びです。どんなに堕落した時代にも、どんな社会にも、その時代に染まらず、その社会の悪に心を痛める人々が、必ずいるものです。

 

 しかし、アブラハムは「五十人」、という数字にすこし不安をいだきました。ソドムとゴモラの正しい人たちの多くが、その町の罪と悪の犠牲となり、すでに世を去っているかもしれない、と思ったからです。それでアブラハムは50人から40人、40人から30人、30人から20人、20人から10人へと数を減らして、神と交渉しました。最後の10人に対しても神は「滅ぼすまい。その十人のために。」と言われました。しかし、実際は、ソドムとゴモラには10人の正しい人もいなかったのです。それで神様は、この町を滅ぼされました。

 

神様とアブラハムの交渉の間、神様はずっとアブラハムに、譲り続けておられています。ここに神のあわれみが示されています。 神はソドムとゴモラをすぐには滅ぼさず、時間をかけて考え、御使いを遣わして確認させておられます。「ノアの洪水」の時も、神様は人々に約百年の猶予を与え、しかも、救いの箱舟を用意されました。聖書には、神がいつも、裁きを思い直し、猶予し、救いの道を用意してくださることが、数多くしるされています。 詩篇103篇8節に 「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。」とあるのは本当です。

神は裁きをなさるのには、躊躇されますが、恵みを与えるのには、躊躇はなさいません。私たちが悔い改めて、あわれみを求めるとき、神はすぐに、進んで私たちの罪をゆるし、祝福を与えてくださいます。私たち、お互いは、そのことを十分に体験してきたはずです。

 

実はアブラハムのとりなしも、この神様のあわれみの心から、出たものなのです。アブラハムは神のあわれみの心に触れ、それによってとりなしの思いを、与えられたのです。神さまのあわれみがアブラハムのとりなしの動機であり、その力でした。 私たちも神様のあわれみを知るとき、もっと忍耐して、神様の憐れみを知り、力が与えられて祈りたいものです。 

 

■結 論 

最後には、「10人でも正しい人がいたら助けてください」とアブラハムは、ソドムとゴモラのために、とりなしをしましたが、ソドムとゴモラには10人も正しい人はいなかったために、滅ぼされてしまいました。19章24~25節「主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を、天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた」とあります。 「本当の意味で正しい人は、最初から一人もいません。ここで言う正しい人とは、「真(まこと)の神さまを求めている人」です。

結局は、この街で救われたのは、ロトと娘たちだけでしたが、それもロトは、アブラハムの影響で真の神様を、少し知っていたという、くらいのもので、ロト自身の信仰も怪しいものでした。

ロトの信仰ゆえに、というよりは、アブラハムのとりなしのゆえに、ロトと娘たちは、救われたのです。私達も、イエスさまの、とりなしによって、活かされています。

そして私たちも、身近な人たちのために、とりなして祈っていく必要があります。

 

(祈り)

 父なる神さま、今朝、あなたのあわれみが、どれほど大きなものかを、知らせてくださり、感謝します。私たちは、あなたのあわれみの大きさを、知らずにいた時には、祈る前からあきらめ、あなに願い、求めることさえしませんでした。しかし、イエス・キリストにより、あなたのあわれみが示されたことにより、私たちは勇気をもってあなたに、願い求めることが出来るようになりました。あなたは、あわれみの心で、私たちに接してくださいます。あなたのあわれみを確信して、さらに熱心にとりなし、祈る私たちとしてください。主イエス様のお名前で祈ります。

 

 

 

聖 書  創世記6章5~8節 

 

5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

6 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。

7 そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

8 しかし、ノアは、主の心にかなっていた。

 

 

メッセージ 「ノアの箱舟」 滝本 文明 牧師

 

今日のみ言葉、ノアの洪水と箱舟は、良く知られている聖書箇所です。神さまが、人を造られたことを深く後悔し、洪水をもってすべてを滅ぼそうとされたけれども、ノアとその家族だけは好意を得て生き延び、洪水の後、神さまは虹を見せて、もう二度と洪水をもって、人を滅ぼすことをしないと約束されたのでした。

聖書は、神さまが深く心を痛めている様子をこう表現しています。5~6節に、「主は地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」。 11~12節に、「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地をご覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた」

つまり、神さまとの関係を完全に失って「破滅し、暴虐に満ちた世界」は、最初に創造された時の「喜び」や「平和の秩序」を失い、神さまはそのことを深く悲しまれて、人を創造したことを後悔されたのでした。

 

1)洪水に備えたノア

私たちは、まだ起こっていない、再臨も、御国の完成も、見えなくとも心から信じ、期待して歩む者です。 晴天の日に洪水に備えた、ノアの信仰に目を向けましょう。

創世記1章31節では、創造された一切をご覧になった神様が「それは非常に良かった」とおっしゃいました。ところが、罪が入って以来、時代とともに、この世界はどんどん悪くなってしまったのです。

5~7節、『主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は言われた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜や這うもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを悔やむ。」「地上に人を造ったことを悔み、心を痛められた」とあります。』神様はすべてご存知ですから、厳密には神様に「後悔」ということはないでしょう。

神様の悲しみや、残念に思うお心を、私たち人間がよく理解できるように、人間の感性に寄せて表現してくださった技法であると言えます。人を造ったことを悔やみ、心を痛められたというのは、私たちには、とても分かりやすい言葉です。

 

愛を込めて造ったからこそ、望まない悪い方に向かってしまった姿を、誰よりも胸を痛めて見つめておられる主のお姿です。他の個所でも、甘いぶどうを期待したのに、酸いぶどうが出来てしまったとの表現があります。

そして主は、7節を読むと、一度この世界を白紙に戻すかのように、「地の面から消し去ろう」とおっしゃっています。まさにこの洪水の時のように、本来私たちは「地の面から消し去られても仕方ないような罪人であった」との受け止めも出来ます。

しかし、「見捨てられても仕方ない私たち」の代わりに、主イエス様が見捨てられました。

 ノアとその息子たちは、自分たちの信仰で世界を、新しくすることは出来ませんでした。この破滅と暴虐に満ちた世界を、新たにすることが出来るのは、十字架の主イエス・キリストの慈しみと執り成しの祈りであり、私たちが立つことが出来るのは、この十字架の主のもとであることを心に刻みたいのです

 さて、それほどに罪が蔓延していた世界において、ノアの存在は神様にとって嬉しいものであったことでしょう。8節によれば、ノアは「主の心にかなっていた」からです。

もちろん、カンペキだったわけではありません。彼も一人の罪人です。ただ、その中でも神様を信じて、悔い改めながら、そのみ言葉に従って生きていたということです。

6章22節で「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。」続く7章5節でもこうあります。 「ノアは、すべて主が彼に命じられたとおりにした。」 

 

私たちも誤解しないで、受け止めたいのです。「主のみ心にかなう歩み」とは、罪を一つも犯さない歩みではありません。罪や弱さを抱えながらも、ノアのように主のお言葉に、従っていく歩みであるということです。主を求め続ける歩みです。

 

箱舟の構造のことについて、おもしろい話があります。

人類の文明とともに造船技術が発達していきましたが、20世紀になって人類は石油の輸送のために、巨大で荷物をたくさん積載することができる船を発明する必要ができました。

そんな中で発明されたのが、石油タンカーです。おもしろいのは、石油タンカーの縦横長さの比率です。石油タンカーは、巨大な船として機能し、しかも最大の積載量を運ぶことができるものとして作られる必要があったのですが、その時参考にされたのが、ノアの箱舟の比率です。

30:5:3という比率が、水の上に浮かび、方向転換も問題なくすることができ、丈夫であり、しかも最大の制裁量を運ぶことができる最高の比率であることが、20世紀になって証明されたのです。

これは、それ以前の船とは、まったく違う構造であり、比率でした。これまでの船は、操作性と木造船としての強度などを考えると、違う形でなければうまく浮かばなかったのです。

ところが、20世紀になって鉄の船を浮かばせようと考えられたとき、箱舟の比率が最適だということがわかったのです。何千年も前に聖書に書かれていた船のサイズが、現代の技術によって正しいことが証明されたのです。

 まさに、わからない中でも信じたノアは、知らない内に最も沈みにくい船を造っていたことになります。主は全知全能だということの証明の一つです!

 ここに信仰のモデルがあります。何のしるしもないのに、主のおことばを信じて、大きな舟を作ったという信仰です。 

 

さて、ノアが造るように命じられた箱舟がどのようなものであったかについて、15節以降に記されてあります。その長さは300キュビト、幅は50キュビト、高さは30キュビトです。1キュビトはだいたい44㎝ですから、長さ132㍍、幅22㍍、高さ13㍍となります。近代の船でいえば1万5千トンぐらいの船に相当する大きな船であっただろうと考えられています。

 それを信じて、晴天の日々に備えをしたということが、彼の信仰の現れでありました。雨がずっと降り続けて来て、これはもしかしたら・・・と思える状況なら、従いやすかったかも知れません。

 でも、まだ、雨が降らないときに、神様のことばを信じて従ったのです。

とても純粋な信仰です。

ヘブル書の11章7節は彼の信仰をこう語ります。

「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神から警告を受けたときに、恐れかしこんで家族の救いのために箱舟を造り、その信仰によって世を罪ありとし、信仰による義を受け継ぐ者となりました。」 

「まだ見ていない事柄について」ということばが印象的です。既に起こったことはもちろん、まだ起こって、いないことでも、主がお語りになることなら、信じるのが信仰です。

 

 私たちもここに立って、行きたいと思うのです。「福音の種をまく」という働きは、とても地味で忍耐深い作業です。それでも、この種蒔きのだいご味は、やがてそこから、芽が出て実りをもたらすと信じて、種を蒔き続けることです。

それを実際に見ていなくても、主がそうなさるに違いないと信じて、期待に胸を膨らませながら蒔くのです。信仰者は「種蒔き」さえも、将来の実りを信仰の目で、見るかのようにしてさせていただけるのです。そして、主はその実りを、全部ではないけれども、時折見せてくださるのです。10年たって、20年たって、その実りを何かしらの形で、見ることができるのは幸いです。

主は真実な方なので、私たちの働きを決して無駄にはなさらないのです。ですから、今はまだ見えなくても、信じて期待して主に従い続けることです。

 

■結 論 

ノアとその家族が、主のお言葉を信じて箱舟を用意して救われたように、御子を信じる者は、その十字架、また十字架の教会(という箱舟)によって、救い出していただけるのです。

この信仰は、まだ見ぬキリストの再臨に対しても、非常に有益な信仰となることを、聖書は教えています。

マタイ24章37-39節にノアの出来事が語られます。 

「人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。」

「洪水前の日々にはノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。」

「洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分かりませんでした。人の子の到来もそのように実現するのです。」

 私達が信じないで、まだ大丈夫と、タカをくくっている者たちに、主イエス様のこの言葉は刺さります。主は必ず再臨されます。その日は間違いなく、近づいています。だから、信じて今なすべきことを忠実に行い、主の言葉に今週もお従いしていきましょう。

 

 

 

聖 書  ルカによる福音書 8章26~31節 

 

26 こうして彼らは、ガリラヤの向こう側のゲラサ人の地方に着いた。

27 イエスが陸に上がられると、この町の者で悪霊につかれている男がイエスに出会った。彼は、長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた。

28 彼はイエスを見ると、叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください。」

29 それは、イエスが、汚れた霊に、この人から出て行け、と命じられたからである。汚れた霊が何回となくこの人を捕らえたので、彼は鎖や足かせでつながれて看視されていたが、それでもそれらを断ち切っては悪霊によって荒野に追いやられていたのである。

30 イエスが、「何という名か」とお尋ねになると、「レギオンです」と答えた。悪霊が大ぜい彼に入っていたからである。

31 悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った。

 

 

メッセージ 「いと高き神の子」 滝本 文明 牧師

 

今日のみ言葉の少し前の22節から25節で、イエス様が、弟子たちと共にガリラヤ湖を渡り、その途中で嵐に遭ったという話があります。あまりにも大きな突風で、舟が沈みそうになり、弟子たちは寝ていたイエス様をたたき起こして助けを求め、イエス様が風と波を叱りつけられた事によって、嵐は静まった話があります。そうやって湖を横断したイエス様は、ゲラサ人という異邦人たちが、住んでいる地域に到着しました。そこでイエス様たちは、悪霊に取りつかれて、墓場に住み着いている人に出会いました。

 弟子たちも含めて、ユダヤ人が行きたがらないゲラサ人の地に、イエス様は、あえて行かれました。その目的はただ一つ。長い間、悪霊にとりつかれている男性を救うためです。実にたった一つの命を救い出すために、嵐の中を舟で向こう岸に渡り、誰も行きたがらない土地に、上陸しされたのでした。

 

1)実在するサタンの力

その人について、ルカは27節で、「長い間、着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた。」と記しています。墓場は、普通は住む場所ではありません。この人は鎖と足かせを断ち切る怪力を持っていたようです。

ここで注目すべきことは、28節からの、汚れた霊たちのイエス様への態度です。

「彼はイエスを見ると、叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。『いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください。』

と言います。 31節「悪霊どもはイエスに底知れぬ所に行け。とはお命じになりませんようにと願った。」とあります。彼らは自分たちを助けてくれるように懇願しました。

 

 悪霊と呼ぶものにも、偽りの霊(Ⅱ歴18章21節)、汚れた霊(マコ5章1節)、病の霊(ルカ13章11節)、占いの霊(使16章16節)、奴隷の霊、惑わす霊、臆病の霊、反キリストの霊…とさまざまな表現がされています。

 30節で、イエス様はこの男性に、「名は何と言うのか。」と聞きました。

「レギオンです。」と悪霊が答えていますが、イエス様は悪霊につかれたこの男性に対して名前を聞いておられます。自らを「レギオン」と名乗りましたが、それは6千によって構成されると言われる、ローマ帝国の軍団です。この男性の中には、軍団と言えるほど多くの悪霊が巣食っていたのです。レギオンとは、ローマ帝国の公用語ラテン語の単語です。軍隊の単位で「軍団」という意味です。イエス様は、裸で、狂ったように叫び、汚くて、誰も気にもかけなかった、この男性に名前を聞いて、個人的な関係を持とうとされたのです。

 

 イエス様は、そもそもこんな所に何をしに、やってこられたのだと思いますか?

ゲラサ人の地に、イエス様がなぜ来られたのか、その理由については、聖書に書かれていません。

でも、この出来事の後、イエス様は、すぐに帰っていってしまわれます。

それを考えてみるとイエス様は、この人と出会い、癒し、解放するためにやってきたのではないかという事が、見えてくるのです。このみじめで、悲しい状況にある、このたった一人の人を救うために、イエス様はわざわざガリラヤ湖を越えて来てくださった。

しかも、嵐に巻き込まれ、舟が沈みそうになりながらも、イエス様は彼を救われたのです。

 悪霊は、実際に目で見ることは出来ませんが、私達の目を、神様より遠ざけようとしている力なのであり実在するものです。

 

2)現実に働くイエス様の力

 

31節の、「底知れぬ所」とは、黙示録に出てくる言葉です。

イエス様が再臨する時、悪霊は底知れぬ所に千年の間、閉じ込めれることになるのです。

その時、全てのクリスチャンがよみがえって、千年の平和な時代が起こります。

そして千年の後、悪魔悪霊たちは再び解放されて、最後の戦いを挑みます。

その戦いに敗れ、彼らは永遠の裁きを受ける事になる、と聖書には書かれているのです。

悪霊は、それを知っているわけです。

イエス様は、この悪霊に名前を聞かれ、悪霊の正体を見極めることから始められました。

 32節で、彼らはあわてて、イエス様の権威に恐れおののき、「悪霊どもは、豚に入ることを許してください、と願った。イエスはそれを許された。」 

33節、主の許しを得て彼らは豚の中に入ります。理解の難しい個所ですが、おそらく悪霊たちが、かなり絶叫したので豚がびっくりして、豚の群れはいきなりがけを駆け下って湖に入り、おぼれ死んだ。と思われます。[豚二千匹(マル5章)]

 

 イエス様は、異教の地ゲラサで、悲惨さの中に自らを置くこの人を憐れまれ、助け主として行動されました。イエス様にとっては、豚よりも人の魂の救いということが、大事だったのです。肉体と共に、人間の魂の価値がある、ということをイエス様は思われ、教えてくださっていることを知ることが出来ます。

 35節「イエス様の足元に、悪霊の去った男が着物を着て、正気に返って座っていました。」

 37節「こんな事は誰も見た事がない。」

見た事がない事が起こると、人々の中には恐怖心が起こるものです。

そして恐怖に取りつかれたゲラサ人たちは、豚の損失という経済的理由と、この恐ろしい力を持ったイエス様と弟子たちに、ここから去るようにと願い出ます。何と残念で、何と愚かな事でしょうか。

38節「そのとき、悪霊を追い出された人が、イエス様にお供をしたい、としきりに願いました」が、イエス様の考えは、彼の願いとは違うものでした。イエス様はこの地に留まって、この地にいる人たちに、イエス様の事を伝えるようにと命じたのです。

39節「家に帰って、神があなたに、どんな大きなことを、してくださったかを、話して聞かせなさい。」と言われ「そこで、彼は出て行って、イエス様が自分に、どんな大きなことを、してくださったかを、町中に言い広めました。」、

 私達が抱える問題に罪があります。罪は、私達にとって様々な弊害をもたらす根源です。

この個所で、イエス様が登場されると、悪霊たちは狼狽します。そしてイエス様を「神の子」と呼んでいます。イエス様はまだ自分を明らかにされないのに、悪霊はイエス様を知っているのです。

彼らは敏感に、イエス様の権威を感じ取っているのです。真実の権威の方の前では、防衛反応が働くのです。

 私達の生活には、どのような力が支配しているでしょうか。神のみ言葉以上に、自分の欲、あるいは、隣人の目、上にある人の言葉、などから価値判断が出来ないことはないでしょうか。イエス様に出会った時、人々は変わり得るのです。その時、私達はイエス様に「去ってください」と言わないで、迎え入れる用意が大切です。私達はもう、イエス様のものとなっているのですから。

 

■結 論 

私達も、このゲラサの狂人のように、罪やサタンの惑わしの力にとらわれて、自分の自我に生き日本の多くの偶像崇拝に関わっていたものでは、ないでしょうか。主にお出会いして初めて、誰に造られ、何のために生き、天の御国に帰るまでの旅路を、生きている者であることを、聖書を通して教えられ作り変えられました。み言葉に従い、証しの人生に生きることが、「邪悪で曲がった時代に生きる人々」を救うことになります。私達は、主にお出会いし人生が180度、変えられました。この最大の恵みを、感謝しつつキリスト者としての歩みを、今週も誇りをもって生きてまいりましょう。

 

 

 

聖 書  ルカによる福音書 7章1~10節 

 

1 イエスは、耳を傾けている民衆にこれらのことばをみな話し終えられると、カペナウムに入られた。

2 ところが、ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていた。

3 百人隊長は、イエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来てくださるようお願いした。

4 イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。

5 この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」

6 イエスは、彼らといっしょに行かれた。そして、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、百人隊長は友人たちに使いに出して、イエスに伝えた。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。

7 ですから、私のほうからお伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。

8 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。

9 これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来ていた群集のほうに向いて言われた。「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」

10 使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていた。

 

 

メッセージ 「主の絶大な権威」 滝本 文明 牧師

 

今日のみ言葉は、「ロ-マ軍の百人隊長」の事と、イエス様には、「奇跡を行う力と権威」があることが語られています。キリストの時代、ローマ帝国は、強力な軍隊を持っていました。

軍隊には千人隊長、百人隊長、十人隊長、などの指揮官が配置されるなど、組織化されて統率がとれており、また兵士も良く訓練されていました。ローマは、支配下にあるユダヤの治安維持のために軍を派遣していました。支配的立場にあるローマの兵士たちは、ユダヤの住民を見下し、またユダヤの人々は、ローマの国と兵士たちに反感を覚えていました。

 ところが、この場面に記されている百人隊長は、ユダヤの人々に大変親切な隊長でありました。

それどころか、ユダヤの信仰を認めて、彼らのために会堂(シナゴーグ)さえ自費で建ててやるほどでした。この百人隊長は、異邦人でしたが親しくしたユダヤ人から、イエス様の言葉と業の力強さについて、聞かされていたと思わされます。

 そしてこの百人隊長は、部下を思う優しさがありました。彼の部下が重病になった時、その病気を何としてでも治してやりたいと思いました。百人隊長は、イエス様からみ言葉を頂くことが出来たら、部下の病気は癒されるに違いないと確信したので、イエス様のもとに使いをやりました。

その結果、信じた通り部下の病は癒されました。

 

1) 主イエス様のみ言葉の権威と力

7節で百人隊長は、「ただ、お言葉をください。」とみ言葉の権威に信頼しています。8節「私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士がいまして、その一人に「行け」といえば行きますし、別の者に「来い」と言えば来ます。また、しもべに「これをせよ」と言えば、その通りにいたします。」

9節「これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来ていた群衆に向かって言われた。「あなたがたに言いますが、このような立派な信仰は、見たことがありません。」と、イエス様は百人隊長の信仰を、最上級の賞賛を持って評価されました。

そして、使いに来た人たちが、家に帰ってみると、部下のしもべの病気は、治っていました。

 

ルカ8章22節からの箇所で、「イエス様が、弟子たちと舟でガリラヤ湖の、向こう岸へ渡ろうとされていた時、突風が吹き下ろして来たので、弟子たちは舟が沈んでしまうのでは、と恐れましたがイエス様が、「風よ、波よ、静まれ!」と命じられると、嵐はおさまりました。」イエス様のお言葉は、自然界でさえ治められるのです。

ルカ5章4節からで「ペテロと仲間たちが、一晩中漁をしても、一匹も取れなかった時、イエス様は、「沖へ出て網を降ろしなさい。」と言われました。ペテロと弟子たちは「お言葉ですから」と、半信半疑で網を降ろしたところ、沢山の魚がとれて、舟は沈みそうになるほどでした。これを見たシモン・ペテロは、イエス様の足もとにひれふして「主よ。私のような者から離れてください。私は罪深い人間です。」と言いました。このようにイエス様の言葉には、現実が伴うのです。

五つのパンと二匹の魚で、五千人の人々がお腹を満たされたのも、イエス様のお言葉に従った結果でした。

 ヨハネ5章2節から「ベテスダと呼ばれる池で、38年間も病のために歩くことの出来なかった人がいましたが、イエス様が、「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と命じられると、その人は、歩き始めたのでした。 

 マルコ2章3節では「一人の中風の人が、四人の人に担がれて、みもとに連れて来られた時、その人にイエス様は、「子よ。あなたの罪は赦された。」と宣言されました。イエス様のお言葉は、罪を赦す権威も持っておられるのです。

 サタンが、イエス様を誘惑した時も、「サタンよ、退け!」と命じられて、サタンにも勝利されました。

 サタンは今日でも、教会を分裂し、信じる者を神様から、引き離して滅ぼそうとしています。私達は、イエス様のみ言葉を、しっかり信じて行けば、サタンの攻撃から守られ勝利できます。

 

今から11年前、2013年の2月16日に、ロシア南部チェリャビンスク州に、隕石が落下しました。上空爆発時の威力は、広島型原爆の30倍にのぼるとみられ、4500棟の建物が破損、ガラスの破片などで1100人が重軽傷を負うが、死者は無しという、前例のない被害をもたらしました。

隕石の大きさ、は直径約17メートル、質量は約10トンの隕石でした。

この隕石は、地上に落下する前に、空中で爆発し小粒の隕石になり、地上に落下したため、大きな被害をまぬかれました。空中で爆発しなかったら、地球は甚大な被害を受けるところでした。

 

どのように爆発したかと言うと、大きな隕石の後ろから、小型の隕石らしい物体が、飛んで来てぶつかり、空中で爆発し小粒の隕石になった様子が撮影され、インターネットのYouTubeで「隕石を貫通した謎の物体」と公開されています。隕石は、マッハ54の高速であったようです。多くのドライブレコーダーに撮影されていましたが、これらの映像から、ひとつの不思議な事が発見されました。

隕石が爆発した直前、その後ろに一つの物体が出現したことが分かりました。この物体が高速で隕石に近づき、そのまま隕石を貫通したように見えます。

ロシアのミサイルだと言う声が大半でしたが、現在の最速ミサイルでも、マッハ20しか出ません。(マッハとは音速で、時速1.200キロ)

これらのことから、人々は、「誰かによって人類が、地球が、守られているんではないか。」という意見が出ていました。 

恐竜は、過去に確かに存在しましたが、大きな隕石の衝突により絶滅した、と言われています。また、現代の生活に欠かせない石油は、実は過去の生物が、私たちに残してくれた偉大な贈り物です。過去の生物が、2億年かけて石油になったと言われます。

 

 天と地、宇宙、自然は、造り主なる聖書の神様に、私達は、地球は、守られているのだと、思えてなりません。

■結 論 

イエス様のみ言葉には、自然を治め、病を癒し、死者さえも生き返らせ、人の罪を赦し、サタンを退け、奇跡を行う力と権威があります。 ルカ1章45節でマリアは「主によって語られた言葉は、必ず実現すると信じ切った人は、何と幸いなことでしょう。」と語りました。

この主イエス・キリストの御言葉は、当時そこにいた群衆に、そして、同時に、今、ここにいて、礼拝している現代の私たちに向かって、語りかけておられる、御言葉であることは、言うまでもありません。私達も、この百人隊長の信仰を、持たせていただきましょう。

 

 

聖 書  ルカによる福音書19章1~10節 

 

1 それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。

2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。

3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群集のために見ることができなかった。

4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。

5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りてきなさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」

6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。

7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。

8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」

9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。

10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

 

 

 

メッセージ 「ありのままの自分」 滝本 文明 牧師

 

■今日のみ言葉1~2節で、「イエスは、エリコに入って、町をお通りになった。そこにはザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった」とあります。エリコは交通の要所でしたので、そこには収税所(税関)があり、その長がザアカイでした。彼は取税人の頭、徴税請負人です。ユダヤを支配していたローマと徴税請負契約を結び、通行税や関税を徴収する仕事をしていたのです。異邦人のために働くことでユダヤ人同胞からは「汚れた者、罪人」と軽蔑され、またしばしば利益を増やすために不正な課税を行い、過酷に取り立てていたため、人々から嫌われていました。そのザアカイがイエスを見ようと通りに出てきました。しかし「背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった」(19:3)。そのため彼は「走って先周りし、いちじく桑の木に」登りました。

 

1) 何故イエス様を見たかったのか

ルカは他の福音書にはない、イエス様との出会いによって変えられた、多くの人々のことを語っています。17章11節からの「癒された10人」の物語も、ルカ独自のものです。「イエスがエルサレムに上られる途上で、10人のハンセン病者たちがイエスに癒しを求めた。イエスは彼らを憐れみ、癒された。しかし、感謝して戻ってきたのは、サマリア人一人であった」。お互いが病の苦しみの中にある時は、ユダヤ人もサマリア人もありませんでしたが、日常生活に復帰した時、差別が再燃します。その差別の中で、サマリア人は癒された恵みに感謝し、ユダヤ人は「救われて当然」と思う故に、感謝できません。社会の中で差別されていた、サマリア人は救われ、自分たちは神の民だと思っていた、ユダヤ人は救いに漏れるという物語でした。ルカは、社会的に疎外されていた人々は、その疎外のゆえにイエスを求め、救いに預かると強調します。今日の取税人ザアカイの物語も差別されていた男の救いの物語です。

ザアカイは何故そこまでしてイエスを見たかったのでしょうか。彼は金持ちで、社会的地位もありました。しかし人々から嫌われ、冷たい視線の中にさらされていた孤独な人でした。そこにメシアと評判される、イエスが来られた。噂ではそのイエスの弟子には、同じ取税人のレビがいました(5:27-32)。ユダヤ教社会で差別され、疎外されていた取税人をあえて弟子にするイエスの人柄に、彼は心惹かれたのでしょう。だから「ぜひ会いたい」と思ったのです。ザアカイはイエスに会いたい一心で走って先回りし、木に登りました。人々はザアカイのそんな姿を、見て笑ったことでしょう。社会的地位も富もある、大の大人が、思いつめたように走り、木に登ったりしたのです。

 

イエス様はその場所に来ると、上を見上げて言われました「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に、泊まることにしているから」(口語訳19:5)。この箇所は英語訳聖書で「I must stay at your house」と訳します。「must」(しなければならない)

原語のギリシャ語を見ても「デイ~しなければならない」という言葉が使われています。直訳すれば「今日、あなたの家に泊まらなければいけない」となっています。

口語訳では(泊まることに、しているから)と、なっている。

人に笑われても良い、とにかくイエスを一目見たい、そのザアカイの一途な求めに、イエスは感動されたのです。その感動がイエスにザアカイの家の客になることを決意させます。この決意は批判を、伴うものでした。取税人の家の客になることは、ユダヤ人民衆の避難を、受けることだからです。ザアカイはイエスから声をかけられ、びっくりし、また喜びました。誰もが、汚いものでも見るような目でザカリヤを、見ていました。しかし、この方は違う、自分の家に泊まると、言ってくださった。6節「ザアカイは、急いで降りて来て、大喜びでイエスを迎えた」という表現の中に、ザアカイの喜びが示されています。

 

2)罪人・ありのままでの救い

それを見ていた人々は、つぶやきます「イエスは、罪深い男のところに行って宿をとった」(19:7)。ガリラヤでも人々は、イエス様の振る舞いにつぶやいています。イエスが取税人たちと食事を共にしている。と、パリサイ派の人々も、言いました「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」(15:2)。 自分を正しいと誇る人は、罪人が救われることを、喜ぶことが出来ないのです。しかしイエス様は、そうではありませんでした。イエス様の受容的な態度、ザアカイに対する信頼の眼差しが、ザアカイを変えていきます。

 

ザアカイは立ち上がって、イエスに言います「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(19:8)。ユダヤの律法では誤ってお金を取り立てた場合は、元金と共に五分の一の賠償金を払い、盗んだ場合は二倍にして返せと定めていました。 ザアカイは、それを四倍にして返すと申し出ています。また施しをする場合は最大でも財産の五分の一を提供すれば良いという規定がありましたが、ザアカイは財産の半分を施しますと誓いました。 いずれも律法の求め以上のものを弁済すると申し出ています。ザアカイはここで、「今まで自分は、人々から税金を強奪して、財産を築きあげてきた。そのようにして築いた、財産の半分は返す、また今後二度と、人々から騙し取ることはしない」と誓っているのです。

イエス様は、ザアカイの申し出を喜ばれました「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(19:9-10)。「偏見から自由な、イエス様との出会いが、ザアカイを変えました。イエス様は、ザアカイの献身を喜ばれ、そして「今日、救いがこの家を訪れた」。と言われたのです。

 

別の取税人レビの、召命物語が、ルカ5章にあります。イエス様は、レビが収税所に座っているのを見かけて、「私に従いなさい」と言われました。レビは『何もかも捨てて立ち上がって』イエスに従います。イエスは、レビには『従いなさい』と言われながら、ザアカイには『従う』ことを要求されませんでした。ザアカイは、すべてを捨てて、イエスに従うとは言いません。ザアカイは取税人をやめないのです。ただ自分の置かれた場で精一杯、正しいことを行い、貧しい人を大切にして生きようという決意し、イエスはその決意を、受け入れられます。ザアカイと同じ、献身の代表者は、使徒パウロです。彼は天幕職人として、経済的に自立しながら伝道していきました。

ザアカイ物語の前に、盲人バルティマイの癒しの話があります。ルカでは盲人の名前は記載してありませんが、マルコではバルティマイと呼ばれています(10:46)。同じエリコでの出来事です。ルカ18章を読んでみます「イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、『これは、いったい何事ですか』と尋ねた。『ナザレのイエスのお通りだ』と知らせると、彼は『ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください』と叫びます。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます『ダビデの子よ、私を憐れんでください』と叫び続けた」(18:35-39)。 人々はこの男を黙らせようとしましたが、彼は必死にイエスに叫び続けます。イエスは彼の必死さを見て、彼に声をかけられます「何をしてほしいのか」。盲人バルティマイは答えます「主よ、目が見えるようになりたいのです」。その時イエスが言われた言葉は、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」という言葉です。

 

この物語とザアカイ物語には共通点があります。共に必死に求め、イエスがそれに答えて下さったという点です。人生の機会は一度しかありません。バルティマイもザアカイも、自分の前に来た機会を逃しませんでした。福音書の奇跡物語は、ほとんどが無名の人の出来事ですが、少数の人は名前が、残されています。名前の残った人々は、その後、弟子たちの群れに加わり、教会内で名前が知られる人になったことを意味しています。ザアカイは最後には、カイザリアの司教になったと伝えられています。「失われていた」ザアカイが「見出された」のです。多くの人が癒されました。癒しをもたらしたのは神の愛ですが、その愛を呼び覚ましたのは、求める人の熱心でした。「彼らの信仰が、彼らを救った」のです。

 

■結 論 

 イエス様は、ありのままの、あなたを愛して、受け入れられるお方です。

イエス様は、ザアカイに言われます「人の子は、失われたものを捜して、救うために来たのである」(19:10)。私たちもまた、このイエスに出会いました。その出会いを、生かすも殺すも、私たちのこれからの応答次第なのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる・・・天の父は求める者に、聖霊を与えてくださる」と言われました。求めれば与えられます。言い換えれば「求めない者には与えられない」。これは真理です。ザアカイの熱心が、イエス様の応答をもたらしたように、私たちも日々の必要を、熱心に求めましょう。

 

 

 

聖書 ルカによる福音書4章1〜4節

 

1 さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、

2 四十日間、悪魔の試みに会われた。その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。

3 そこで、悪魔はイエスに言った。「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」

4 イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある。」

 

 

メッセージ 「荒野の誘惑」 滝本 文明 牧師

 

■今日、与えられた聖書箇所は、ルカ4章「荒野の誘惑」です。イエス様はヨルダン川でバプテスマを受けられましたが、その時、天からの声を聞かれました「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」(3:22)。この時、イエス様はご自分が神の子として、使命を与えられて世に遣わされたことを自覚され、「神の子として何をすべきか」を模索するために、荒野に行かれます。ルカはそのことを「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」(新共同訳4:1)と記述します。神の霊がイエスを荒野に追い込んだ、神によってこの試練が与えられたとルカは書いています。

 

 

1) サタンの隠された魂胆

「悪魔」について「辞典」をみると、「神仏の教えを邪魔し、人を悪に誘う魔物」、インドの民間信仰では「天上の世界において、人間にわざわいを与える霊」、『カトリック教会の教え』では、「天使は神の意志を人に伝えたり実行したりする神の使者、悪魔は罪によって神に逆らうようになった天使」と記されています。

「誘惑する者」の第一の誘惑は、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」という誘いでした。メシアとして御国実現のために、奇跡をもって食に困らないようにせよ、という誘惑です。

サタンはイエスのことを、「…正体は分かっている。神の聖者だ」(マコ1章24節)と知っています。ですから、イエスが石をパンにする能力があることも知っています。サタンは、イエスは神ではないと言っているのではありません。サタンの隠された魂胆は、イエスを「父なる神から独立した神」にすること、すなわち父なる神から孤立させ離すことです。

サタンの誘惑が始まりました。最初は石をパンにすることでした。これは、食料や経済問題でなく、「だれが神か」の根本的な大問題です。

 

そこでサタンは、「イエスよ、お前が自分だけで(父に関係なく)命を造れ」と言ったのです。イエスの命は、「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいる」(ヨハ17章21節)と言われたように、何をするにも単独ではなく、父の御心の中にいることが彼の命でした。御子イエスは、父から離れては何一つなさいませんでした。

皆さん、サタンの誘惑を見破ってください。サタンは、あなたの生まれ持った性質や欲求を否定するのでなく、むしろ大いに肯定します。ただし、神になど頼らなくても、自分の命と力量で願いどおりに生きなさい、とそそのかします。それこそ、神からあなたを離す巧妙な手口です。主イエスにだけ、「つながり・とどまり」(ヨハネ15章1~10)続けてください。

「人はパンだけで生きるものではない」、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」

土の塵(自然生命)で造られた人には、「パン=食料」が必要です。そして、命の息(神の霊)を吹き入れられて生きる人には「神の言葉・霊のパン」が必要です(創2章7節)。自然生命と霊の命との間には、少なからずギャップがあるようにも見えますが、しかしそれは矛盾でもギャップでもありません。この世と神では、人生の問題を解決する方向が逆です。世は、「環境→制度→健康→心→豊かな命(幸せ)」と進みます。神は、「霊(神の命)→心(知性・感情・意志)→体→隣人(家族・友人知人)→制度・環境」と進みます。したがって、言葉を豊かに持つことが最優先課題です。神の言葉は、「絶対の義・絶対の愛・永遠」ですから、その基準で心→体→隣人へと神の命が流れていきます。その言葉が、「言(イエス)」を与えてくださるからです。

 ※キリスト教が日本に伝えられた時、海外から来た宣教師たちはライ病や結核にかかった病人が路傍に捨てられ、子どもたちは十分な教育を受けられない現実を見て心を痛め、本国からの資金援助で、各地に病院や学校を建てました。それから150年、キリスト教系の病院、たとえば聖路加病院(聖公会)や東京衛生病院(アドベンチスト)等は、良心的治療で、高い評価を得ています。多くのミッションスクールが立てられ、白百合や聖心、立教や青山等のミッションスクールは、今日でも熱心な教育をしてくれる学校として人気があります。150年間、多くの人たちがキリスト教系病院で治療を受け、キリスト教系学校で教育されましたが、ほとんどの人たちはクリスチャンになりませんでした。教育や医療、すなわちパンが与えられても、人々はそれをもらうだけで、与えて下さる神のことは考えなかったのです。ですからイエスは言われました「人はパンだけで生きるのではない」。パンは人を救いに導かないのです。

 

2)神様と取引している私達

次に悪魔は誘います「あなたが私にひれ伏すならば、この世の支配権をあげよう」。悪魔はささやきます「人々はローマの植民地支配に苦しんでいる。あなたが立ってローマからユダヤを解放すれば、神の国ができるではないか」。それに対してイエスは答えられました「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」。キリスト教はその誕生以来、迫害に苦しんで来て、多くの殉教者が出ました。その迫害を経て、4世紀にキリスト教はローマの国教になりますが、教会が支配者側に立った途端、堕落が始まります。迫害の300年間、教会は「剣を取るものは剣で滅ぶ」というイエスの教えを守り、信徒が兵士になることを禁じてきました。しかし、教会が体制側に立つと、教会の教えは変わり、「政府は神により立てられ、全てのキリスト者は政府に従うべきで、国家の秩序を守るためであれば戦争も許される」と教え始めます。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」(マルコ12:17)、「敵を愛せ」(マタイ5:44)という聖書の教えに反する行為です。教会が地上の権力と手を結んだ瞬間から、福音が曲がって行きます。神の国はこの世にはないのです。

 

第三の誘惑は神殿の屋根から飛び降りてみよとの誘いでした。「おまえが神の子であれば、神が守ってくださる。この屋根から飛び降りて、神の子であるしるしを見せれば、多くのものが信じるだろう。そうすれば神の国を作れるではないか」とのささやきです。それに対してイエスは言われました「あなたの神である主を試してはならない」。人々は繰り返し、しるしを求めました。十字架のイエスに対しても人々は言います「神の子なら自分を救え。十字架から降りて来い」(マタイ27:40)。現代の私たちもしるしを求めます。「私の病気を癒してください」、「私を苦しみから救ってください」、「私を幸福にしてください」。この後には次のような言葉が続きます「そうすれば信じましょう」。私たちは信仰さえも取引の材料にしているのです。

 

荒野の試みの記事は、多くのことを私たちに考えさせる箇所です。三つの誘惑には共通項があります。いずれも与えられた力を使って、地上に神の国を作れとの誘いです。貧しい人もパンを食べることのできる社会を作ろうという運動は、歴史上繰り返し現れて来ました。共産主義者は社会の不正構造が人々の口からパンを奪っていると考え、権力を倒し、理想社会を作ろうとしましたが、出来上がった社会は怪物のような全体主義国家でした。フランス革命も貧しい人々が立ちあがった運動でしたが、結果は血で血を洗う権力闘争に終ってしまいました。神の国はこの世にはない、あるいは人の努力では来ないのです。「人はパンだけで生きるのではなく、神によって生かされていること」を知らない限り、人間は争い続け、平和は与えられないことを、この教えは語ります。

 

 イエス様の時代、人々がメシアに求めていたのは、ローマからの独立を勝ち取り、ダビデ・ソロモンの栄光を回復する指導者でした。紀元70年エルサレムは破壊され、国は滅びました。この戦争に、生まれたばかりの教会は参加せず、エルサレムを脱出しました。「この世の支配権をあげよう」という悪魔の誘惑に従った人々は、国を滅ぼしてしまったのです。

 人々はイエスに繰り返し、しるしを求めました。十字架にかけられたイエスに対して人々は言います「神の子なら自分を救え。そして十字架から降りて来い」(ルカ23:35)。イエスは拒否され、十字架上で死なれ、その場を逃げた弟子たちは、やがて復活のイエスに出会い、従う者とされていきます。人は、しるしを見て変えられるのではなく、神が自分たちを愛され、そのための十字架であったことを知る時に、変えられていきます。現代の私たちもしるしを求めます「私の病気を癒して下さい」、「私を苦しみから救って下さい」、「私を幸福にして下さい」。そして言います「そうすれば信じましょう」。その時、私たちは神と取引しているのです。

 

■結 論 

私たちは生きていくうえで、様々な試練を受けます。これまでも多くの試練を受けていたことと思います。イエス様も悪魔から試練や誘惑を受けらました。イエス様の受けた試練が、神の栄光に至る試練であることを思えば、私たち人間が受ける試練も、天に宝を積むためのものであり、悲しむのではなく、むしろ喜びだと思いたいのです。特に、甘い誘惑は、それが本当に神様の意図しておられることなのかを、じっくり考え、祈りをもって選択して行きましょう。