聖 書  エペソ人への手紙 4章1~3節  

 

1 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。

2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、

3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

 

 

元旦礼拝メッセージ 「謙遜と柔和」 滝本 文明 牧師

 

 

■謹賀新年、明けましておめでとうございます。主の歳、2024年を迎えました。

今日のみ言葉、1節でパウロは「私は勧めます」と言っています。そして、召しにふさわしく歩み、謙遜と柔和の限りをつくして御霊の一致を熱心に保ちなさい、と勧めています。

一致を「作れ」ではなく、一致を「保て」と言うことです。つまり、教会には一致があるはずなのです。その一致は、熱心に保ちつづけなくてはならないものなのです。

一人の主イエス・キリストにより、一つの御霊によって、一つのからだにつながれ、一人の神に生きる、お互いであることです。

教会は原語のギリシャ語では「エクレシア」という言葉が使われていて、「召し出された者たち(救い出された者たち)の集まり」という意味があります。

 

1) 謙 遜

まず、「謙遜」とは「へりくだる」ことであり、「しもべになる」、「仕える者となる」ということです。しかし、「謙遜」になるということは、私たちの生まれながらの性質、肉の性質に反するものです。 私たちは、赤ん坊の時から自己中心で、自分のことだけしか考えず、「仕える」ことよりも「仕えられる」ことを求めて、生きています。人間は、常に「自分の必要を満たしてくれるもの」を求めています。

しかし、聖書は「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい」と言います。

 私たちが謙遜になり、へりくだり、しもべになり、仕える者となる、ということの最高の模範はイエス様です。イエス様は私たちを愛し、救うために、「ご自分を無にして、仕える者」となられたのです。 最後の晩餐の席で、誰も足を洗う役をしようとする者がいませんでした。

足を洗うのは、しもべの役割であり、プライドの高い弟子たちには、それは出来ませんでした。

その時、イエス様は「上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ」、「たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って」あげられたのです。イエス様は卑しい「しもべ」となり、人が嫌がる事を率先して行われました。そして、イエス様は、私たちもその例に、ならうようにと言われました。

イエス様は「仕えるため」、「自分のいのちを与えるために」来られました。

 

★フランシスコの平和の祈り

主よ、わたしを平和の器とならせてください。

憎しみがあるところに愛を            絶望があるところに希望を

争いがあるところに赦しを            闇あるところに光を

分裂があるところに一致を            悲しみあるところに喜びを

疑いのあるところに信仰を

誤りがあるところに真理を

ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。

理解されるよりも理解する者に  愛されるよりも愛する者に

それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け  許すことによって赦され

自分のからだをささげて死ぬことによって とこしえの命を得ることができるからです

 

2)柔 和

次に、柔和とは、怒ったり復讐したりせず、主に委ねることです。

国語辞典には、「柔和」とは「性質・表情などがおだやかで、やさしいこと」とあります。

腹立たしいことがあっても顔に怒りを表さない人、感情的にカッとならない人と言えます。

ギリシヤ語では「柔和」は不当に抑圧された、卑しい奴隷を表現する言葉です。

奴隷は、主人からののしられ、あざけられ、不当な扱いを受けても、

怒ったり、反撃したりせず、それを耐え忍び、受け止めなくてはなりません。

ですから、「柔和」な人とは、どんなに危害を加えられても、誹謗されても、

怒ったりせず、復讐せず、かえってそれを受け留め、耐え忍ぶ人のことです。

 

聖書の中で、誰よりも「柔和」であったのは、モーセであったと言われています。

モーセは、ミリアムとアロンから非難を受けても、怒りませんでした。

また、イスラエルの民は、モーセに不平不満を言ったり、モーセを批判したりしましたが、

モーセは40年間忍耐深く、不信仰で不従順で反逆的なイスラエルの民を、導きました。

しかし、「柔和」の最高の模範もイエス様です。主は、「謙遜で柔和」なお方です。

イエス様は、どんなに人々からののしられ、あざけられても、怒ったりせず、言い返すことも、裁くこともされませんでした。

しかし、ただ我慢するのではなく、相手も、自分の思いも、神様の御手に委ねるのです。

イエス様も「正しくさばかれる方に、お任せになりました」。

人から悪く言われれば言い返したいですし、悪を行う者にはやり返したくなるものです。

私たちは、「相手が悪い、先に相手がこうしたから」だと自分を正当化します。

しかし、そのような時、私たちのために十字架にまで行かれたイエス様を見上げましょう。

聖書は「謙遜と柔和の限りを尽くし」なさいと言っています。

しかし、「謙遜と柔和」は、私たちの努力だけによって得られるものではありません。

聖霊の力と助けによって、私たちの内側に形作られていくのです。

ヤコブとヨハネは、「イエス様の次の位に、着けて欲しい」と願い出ました。

イエス様は彼らに「ボアネルゲ」、「雷の子」と名付けられていました。

しかし、彼らは、ペンテコステ以後、聖霊に満たされて、造り変えられました。

特に、ヨハネは「愛の使徒」と呼ばれるほどに、愛の人に変えられたのです。

私たちも聖霊によって、イエス様のように「謙遜と柔和」な人に変えていただきましょう。

 

 野球の「イチロー」の言葉に「その人の前で、言えないことは、他の人の前でも言うべきではない。」と言っていました。 また、謙遜と柔和で、まず私の心に浮かんだのが、大谷翔平選手です。 大谷翔平の言動を見ていますと、野球のみならず、人柄も素晴らしいと思わされます。ベースに滑り込んだ時、相手の裾に、土を着けてしまったのを見て、大谷は、相手のズボンの裾を払っている映像を見ました。

 

 ★「ほほえみ」と言う詩がある。 ほほえみは、お金を払う必要もない安いものだが 相手にとって非常に価値を持つものだ ほほえまれた者を豊かにしながら ほほ笑んだ人は何も失わない

フラッシュのように 瞬間的に消えるが 記憶に永久にとどまる 失望する者には光となり

悲しむ者には太陽となる あなたの方からほほえみかけてごらんなさい 自分の暗い顔で他人の

生活まで暗くする権利はない

 

■結 論 

「キリストのからだを建て上げるため」に、「謙遜と柔和と一致」が必要のです。

「互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを、与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、へりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」と聖書は約束します。

箴言29章23節、「人の高ぶりはその人を低くし、心の低い人は、誉れをつかむ。」

ヤコブ4章6節、「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に、恵みをお授けになる。」とある。

謙遜と柔和な人は、神様に愛され、自分の心も満たされ、また大谷翔平のように人にも愛されます。

 

 

 

 

聖 書  第二テモテへの手紙 4章7~8節 

 

7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

 

 

メッセージ 「走るべき信仰の道のり」 滝本 文明 牧師

 

■7節に、パウロの過去が、どのようなものであったかが、要約されています。「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」と。 パウロは立派なボクサーのように、信仰の戦いを勇敢に戦い、また、目標を目指して走る、アスリートのように、パウロは走るべき道のりを走り終えました。

ピリピ3章13節と14節を見ると、そこにはこうあります。「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えていません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです」と。

今日は、今年の最後の日です。失敗や、苦労、悲しみを引きずるのは止めましょう。新しい年に

主にあって期待と希望を、持たせていただきましょう。

 

1) 困難を乗り越える鍵

ピリピ3章は、本日のテモテへの手紙が書かれる、数年前に書かれたものですが、その時には、まだゴールしていませんでした。パウロは、神の栄冠を目指して一心に走っていました。ここでパウロは、「走るべき道のりを走り終えた」と言っています。また、信仰を守り通したとも言っています。ゆだねられた神の言葉である福音を、偶像崇拝者たちと戦って、最後までその真理を、守り通したということです。

 

 このようなパウロの確信は、何か凱歌のように響いてきます。 私たちもパウロのように凱歌の詩を歌いながら、永遠の御国に帰って行けるように、日ごとのわざに、励みたいものです。信仰の生涯で、最も難しいのは、その終わり方です。始めることは易しいことですが、それを最後まで、全うすることは並大抵のことではありません。いったいどうしたら、最後まで信仰の戦いを戦い抜くことができるのでしょうか。

パウロは、「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです」と言いました。ここにその答えがあります。パウロは、キリスト・イエスにおいて、上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して走りました。

パウロは、今自分を取り巻いている現実が、どれほど困難なものであるのかは、見ていませんでした。パウロが見ていたのは、やがてもたらされる神の栄冠が、どれほど素晴らしいものであるのかを見て、それを目指して走ったのです。期待感でいっぱいでした。だから今を乗り越えることが出来たのです。

これが現実の困難を、乗り越える大きな鍵です。もし目の前の困難ばかりを見ていたら、その重圧に、押しつぶされてしまうでしょう。しかし、その先にある栄光を見るなら、それがどんな困難であっても、必ず耐えることが出来ます。「出産、産みの苦しみも、希望があるから耐えられます」

 パウロは、すでに2章で、労苦した農夫にもたらされる、収穫のたとえによっても語りました。「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」( 詩篇30:5)のです。この喜びに目をとめるべきです。そうすれば、信仰の戦いを勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、最後まで信仰を、守り通すことが出来るのです。 私達も「過去の聖徒たち、殉教者のように、神の栄冠を望み見て、偶像崇拝達と同化せず、信仰を守りぬきましょう。

 

2)栄光の義の冠

8節に、「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」

彼は、義の栄冠を受けることを確信していました。義の栄冠とは何でしょうか? それは、イエス・キリストを信じる者、すべてに与えられる、永遠のいのちことです。パウロの生きた時代、運動競技の勝利者には、月桂樹の冠やオリーブの花輪が与えられましたが、それと同じように、イエス・キリストを信じ、最後までその信仰を守り通した人には「義の冠」が与えられるのです。 

 

ヤコブ1章12節には「いのちの冠」と表現されています。また、Ⅰペテロ5章4節には「しぼむことのない栄光の冠」とあります。 これはパウロだけでなく、彼と同じようにイエスを信じ、全身全霊をもってイエスに従い、イエス・キリストの再臨を待ち望んでいる、すべての人にもたらされる栄冠です。私たちはやがてこの栄冠を受けるのです。

これはテモテにとって、どれほど大きな励ましであったことでしょう。しかし、それはテモテばかりでなく、パウロと同じように、最後まで信仰を守り通した、すべての人に約束されていることです。やがて将来において、このような義の栄冠が与えられるという約束は、今を生きる私たちにとって大きな力になります。

 

織田信長や豊臣秀吉に仕えたキリシタン大名、高山右近(1552~1615年)が、マザー・テレサらと並ぶ、カトリック教徒の崇敬(すうけい・あがめ、うやまうこと)の対象である「福者(ふくしゃ)」としてローマ法王庁から認定されました。「福者(ふくしゃ、ラテン語でカトリック教会において、死後その徳と聖性を認められた者に与えられる称号」  高山右近は12歳で洗礼を受け、高槻城主時代の領民のうち約7割がキリスト教徒だったとされます。秀吉の側近、黒田官兵衛らに入信を勧めるなど、布教活動にも熱心でした。 しかし、秀吉からのキリスト教を棄てるように、との命令を受けそれを拒否したことから、地位や領地を失い国外追放となりましたが、それでも信仰を捨てませんでした。彼は、「信仰のため国を追われた殉教者」となったのです。それが評価されて、福者として認定されることになったのですが、福者として認定されるかどうかは別にしても、彼にはそれにふさわしい義の冠が用意されていることでしょう。彼は走るべき道のりを走り終え、最後まで信仰を守り通したからです。

 

ベルギーのダミアン神父もそうでした。ダミアン神父は、ハワイのモロカイ島でハンセン病患者を救うためにその生涯をささげました。当時ハンセン病は不治の病で、伝染性が強いとされていたので、患者は家族から引き離され、モロカイ島に送り込まれていました。絶望的な患者で満ちていたこの島は、悲惨な様相を呈していました。そこへダミアン神父が単身でやって来たのです。彼は患者の心の友となり、伝道者、医師、裁判官、測量士、葬儀屋、墓堀りとして働きました。16年間に千六百人もの人々を葬り、千個の棺を自分の手で作りました。初めは冷たい目で彼を見ていた人々も、次第にダミアンの愛と偉大さがわかってきて、彼の言葉を聞くようになって行きました。晩年、彼もハンセン病になりました。1889年4月15日朝8時、ダミアンは48年の、この地上の生涯を終えて天に召されました。死に臨んだ彼のことばが記録されています。「何もかも、持てる限りを与え尽くした私は幸福者である。今は貧しくて死んでゆく。自分自身の物と名の付くものは何もない。ああ何と幸福なことであろう。」

 

■結 論 

この地上の生涯を終えるとき、「私は信仰を守り通した」と言える人は、本当に幸いです。人がその人生の最期に、語る言葉というのは、その人の生きざまをよく表しているからです。最後に何を語るのかは、その人がどのように、生きてきたのかということと、深い関係があります。

ダミアン神父のように、そしてパウロのように、 「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」と言えるような、そんな生涯を全うさせて、いただきましょう。  

今からでも、決して遅くはありません。主イエス・キリストの、み言葉を信じて、走るべき信仰の道のりを走り終えるなら、あなたにも、栄光の義の冠が用意されています。

 

 

 

聖 書  ルカによる福音書 2章8~14節 

 

8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。

9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。

10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。

11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。

14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

 

 

メッセージ 「天に栄光、地に平和」 滝本 文明 牧師

 

■主の年2023年のクリスマスを迎えました。おめでとうございます。

この個所は、神の御子イエス様が、ユダヤのベツレヘムで、全世界の救い主として、誕生された夜のことを、伝えています。

ベツレヘム郊外で、8、9節「羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。すると、主の使いが彼らの所に来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」10~12節が伝えますように、御使いは「主キリスト」、つまり、神の御子なる救い主キリストの誕生を、告げました。すると13節「突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて」、14節のように神を賛美しました。「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和が御心に適う人にあるように」と。

 

1) 神との平和、人との平和、自分との平和

14節前半の「いと高き所で、栄光が、神にあるように」はラテン語訳聖書の言葉が、新聖歌78番にあります「グローリア、イン、エクセルシス、デオ」です。 グローリヤ「栄光」、インエクセルシス「いと高き所には」、デオ「神」であり「いと高き所には、神に栄光あれ」の意味になります。 そして14節後半には、イエス様が、旧約聖書の約束通り、救い主として来られたことが、私たちにもたらす神様の、最も尊い祝福の一つである「平和」が語られています。「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

この「御心にかなう人」とは、どんな人でしょうか。しばしば誤解されますが、これは神が人間に授けられた宗教的・道徳的教えや、戒めを守っている立派な信仰者、という意味ではありません。むしろ、自分の罪、汚れ、弱さをよく自覚し、心から悲しんでいる人のことです。

しかし同時に、神の憐れみによりすがり、御子イエスを通して差し出されている、父なる神からの罪の赦しと救いを心底願い、イエス様を自分の救い主と、心から信じ、受け入れ、依り頼み、イエス・キリストに繋がっている人のことです。従って、真面目ではありますが、普通のクリスチャンに、ほかなりません。天使たちは、そういう信仰者に特に「平和」があるようにと歌います。

 

では、「平和」とはどんなものでしょうか。聖書によりますと、これは争いや衝突、恨みや憎しみ、あるいは混乱や悩み、不安や心配がない、というだけではありません。人間が、色々な点で異なるお互いを認め合い、受け入れ、神様から与えられている恵みや良い点を、自分のためにも他者のためにも喜んで発揮できる、積極的で愛と秩序のある、穏やかな状態を指します。

私たちの置かれた周囲の状況も関係しますが、自分の内に平和がない時、私たちはどうなるでしょうか。そういう時、私たちは自分を見失い、せっかく神様から、私たちに与えられている賜物も、十分に発揮できません。する事なす事が空回りしたり、いつもなら出来るはずのこともできず、惨めな結果に終りやすいものです。

反対に、私たちに平和がある時、私たちは神から与えられている賜物、すなわち、良い意味での個性や能力、長所を伸びやかに発揮し、輝かすことができます。それだけでなく、皆のために生かすことも可能です。その結果、一層爽やかな喜びや、充足感、深い感謝を覚えることになります。

 

人間の惨めさの一つは、自分ともうまく行かないことです。私たちはしばしば、自分の失敗や弱さ、足りなさ、ふがいなさ、汚さ(きたなさ)を知って、自分に腹を立て、自己嫌悪に陥り、自分を赦せないことがあります。そういう時、私たちは苛立ちを人にぶつけ、八つ当たりをし、乱暴な言葉や態度で接し、自暴自棄になりやすくなります。自分を受け入れられないからです。そういう時、私たちは惨めです。自分との間に平和がないからです。

 

 しかし、ここでよく考えたいと思います。神は御子イエスを賜ったほどに、こんな私たちを尚も愛し、憐れみ、そしてイエス・キリストへの信仰だけで、私たちを罪も弱さも欠点も、あるがまま本当に受け入れて下さる!何という神の愛でしょう。

ですから、自分のことが気にいらず、嫌いな所が沢山あっても、私たちを創られた神が、こんな私たちをも愛して下さっているのですから、自分の掛け替えのなさ、尊さを安心して受け入れたいと思うのです。神は旧約時代の信仰者にこう言われました。イザヤ43章4節「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」と。この御言葉が、今も全ての信仰者に向けられています。何という光栄、何という幸せでしょうか!自分との平和という、この素晴らしい平和も、イエス・キリストへの信仰により、与らせて頂きたいと思います。

 

ある牧師が、クリスマスの朝、書斎で短い眠りに落ちました。そして、イエス様がお生まれにならなかった世界の夢を見たというのです。夢の中で、彼は家中を見回しました。彼の家には、イエス様のご降誕を祝うクリスマス・ツリーや、リースや、キャンドルや、クリスマスの鐘などが賑々しく飾られているはずでしたが、それがどこにも、何一つありませんでした。友人たちが送ってくれた美しいクリスマス・カードも壁一面に飾られているはずでしたが、それが一枚残らず消えていました。彼は、子ども部屋に行ってみました。そこには、サンタクロースのプレゼントを待つ子供たちが、靴下をさげて寝ているはずでした。しかし、靴下もなければ、サンタクロースのプレゼントもありませんでした。

彼は、家の外に出て、町を歩いてみました。町中がすっかりクリスマスのことを忘れてしまったかのように、静まりかえっていました。しかも、どこを探しても、教会もなければ、十字架もないのです。頭が混乱してきた彼は、もっと落ち着いてこの不思議な出来事を考えようと、家に帰り、書斎の椅子に腰掛けました。すると、イエス様に関するあらゆる書物が書斎から消えてなくなっていることに気づいたのでした。

この牧師はついに「キリストは来なかったのだ」ということを認めざるを得ませんでした。そして、悲しいその夢の中で、子どものように泣きじゃくったのです。

 その時、彼はやっとこの恐ろしい夢から目覚めました。彼は家の中を見回しました。部屋の中にはクリスマス・ツリーが賑やかにも、喜ばしく飾り付けられていました。壁一面には、友人たちの祝福の言葉が記された、たくさんのクリスマス・カードが貼り付けてありました。やがて近くの教会から、クリスマスを喜び歌う歌声が、聞こえてきました。牧師は、聖書を手に取りました。そこには、イエス様の御業を伝える福音書があり、使徒の教えがあり、天国への希望に満ちた黙示録がありました。そして、彼の目に次の御言葉が飛び込んできました。

「恐れることはありません。私は、この民全体のための、素晴らしい喜びを知らせに来たのです。 今日ダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:10)

この天使の御告げの中には、どれほど深い喜びと慰めが、語られていることでしょうか。どれほど大きな愛と恵みが語られていることでしょう。そして、今それが自分に与えられているということを悟り、牧師は今までにない大きな、そして深いクリスマスの喜びを味わったのでした。

 

■結 論 

この2章10節の、天使の御告げの中には、深い喜びと慰めが、語られています。 私たちは、イエス・キリストへの信仰によって与えられる、神との平和、人との平和、自分との平和を一層確かなものにし、その平和に立って一つ一つの言葉を誠実に行い、隣人に仕え、キリストによる平和を受け取りましょう。そして、隣人にも粘り強く伝えて行く者でありたいものです。

 

 

 

 

聖 書  ルカによる福音書 2章1~7節 

 

1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。

2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。

3 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。

4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、

5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。

6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、

7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

 

 

メッセージ 「飼い葉桶の救い主」 滝本 文明 牧師

 

ルカは、神のみ子、イエス・キリスト誕生の時のことを、「宿屋にはイエスを迎え、お入れする場所がなく、家畜小屋で、飼い葉桶の中に寝かされた」と記しています。主なるイエス様は宮殿でも、王侯貴族の館でもなく、庶民の家でもなく、ベツレヘム郊外の汚い家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされました。ヨセフがせっせと藁(わら)を運んで来て、冷たい石で作った飼い葉桶に、

敷いている様子が想像出来ます。ナザレで生まれていれば、もっとましな部屋、もしかしてヨセフの手作りのベッドがあったかも知れません。おそらく生まれたばかりの、赤ちゃんを寝かせることは、誰もしないであろう最低のところで、主なるイエス様は、お生まれになりました。

 

1) 低きに下られた救い主イエス様

今年は西暦2023年、西暦はA.Dと表記します。ラテン語のAnno Dominiの略称です。意味は「主の年」すなわち「キリストの年」です。この西暦を考案したのは、6世紀のディオニュシウス・エクシグウスというローマの神学者でした。紀元前という表記法もあります、B.Cと表記する。Before Christの略称であり、意味は「キリスト以前」です。こちらはラテン語ではなく英語ですが、それは、これが考案されたのは17世紀と遅かったからです。こうしてキリストの誕生を起点に、キリスト以前とキリストの誕生後という世界の歴史が、二分されたわけです。

 

1節に、キリストの誕生は、皇帝アウグストの時代にあったことが、記されています。アウグストは、初代ローマ皇帝でした。彼は当時の記録によると「神」とか「全世界の救い主」と呼ばれ、彼の誕生はグッドニュースであるとまで言われました。このように、ただの人間すぎない者が、神として崇められた時期に、この時期を選んで、まことの神が、まことの人となり、全世界の救い主として来られました。しかも家畜小屋に赤子の姿で、神さまのなさることは、人知を超えています。

 

そのローマ皇帝アウグストから住民登録の勅令が出ました。徴税と徴兵のためでした。この勅令により、支配下にあった人々は、それぞれの戸籍地に向かいました。ガリラヤのナザレに住むヨセフも例外ではなく、マリヤを連れてユダヤのベツレヘムに行きました。百数十㎞の道のりでした。ヨセフとマリヤの予定では、登録を済ませ、再びガリラヤに戻り、住み慣れた場所での出産を考えていたのでしょう。でも、予定とは異なり、ベツレヘムでの出産となりました。しかし、このことこそ、神の救いのご計画でした。救い主は、ベツレヘムで生まれることが、旧約聖書のミカ5章2節で預言されていました。主イエスの誕生は、歴史の只中で起き、神の救いのご計画の実現でした。神さまが私たち人間を愛し、憐れみ、罪から救うための御業でした。

この誕生は、主イエス・キリストの低さが示されています。7節に「宿屋には彼らのいる場所がなかった」とあります。この箇所は、ローマ皇帝アウグストとイエス・キリストが対比されています。皇帝は、人々を権力により動かし、支配しました。一方、イエス・キリストは、みどり子としてこの地に生まれました。住民登録により動かされる者でした。人の手によらなければ、生きていくことが出来ない者として生まれ、生まれた場所は家畜小屋でした。イエス・キリストは最も低く、最も貧しく来られ、私たちの罪の身代わりになられました。「罪」とは、神との関係が、失われていることです。イエス・キリストは、私たちを愛し、いのちを捨て、私たちを罪から救い、愛によって治め救いの光の中を、歩ませて下さるのです。世のものを追い求めても、魂の救いはありません。

しかし、イエス・キリストを受け入れた時、神によって魂が新しく生まれ、神との交わりである永遠のいのちを、いただくことが出来ました。今日も、イエス・キリストは、変わることなく、世の人々の、心の戸をノックしておられます。

 

最後に、ヨセフとマリヤの住民登録は、ヨセフだけですれば十分であったようです。徴税と徴兵のための住民登録でした。でも、ここでヨセフは、マリヤをベツレヘムに連れて行きました。それは、ナザレにおいて、彼らに対する中傷や危険があったからでしょう。彼らのいる場所がなかったのは、ベツレヘムだけではではなく、ナザレもそうだったのでしょう。しかし、その彼らに、イエス・キリストが共におられたのです。私たちも、時に信仰の闘いがあり、また信仰の歩みの虚しさを覚えることがあるかも知れません。神さまにより、今与えられている務めと、場所であることは分かっていますが、見える結果や、報いがなかったりすると、虚しさを覚えたりするかも知れません。 しかし、神様は、私たちにしっかりと、目を留めておられます。自分の願ったように進んでいないように思えることも、神さまのご計画の御手の内にあります。私たちが成すべきことは、その時、その時に、主から委ねられた働きとして、神の言葉に信頼し忠実に担っていくことです。狭い谷の道であるかもしれません。でも、そこに主イエス・キリストはともにおられ、担う力を与え続けて下さいます。

 

ミッションスクールで「敬神愛人」の精神に基づく、元名古屋学院院長の山崎治夫先生が、関西学院でのクリスマス礼拝で、次のような証しをされました。先生は第二次大戦後、シベリヤに抑留され、そこで重労働と空腹に苦しみ、骨と皮ばかりにやせ衰え、極寒の中を夜は、藁(わら)の床に寝なければなりませんでした。あまりの辛さに思わず、ブツブツこぼしていたところ、隣にいた友人が、「君の信じるイエスという人は、飼い葉桶の中で生まれたというではないか。」と言いました。その言葉に先生は思わずハッとして、同時に前身棒で打ちのめされたような、衝撃を受けたというのです。

また、アッシジの聖フランシスコは、クリスマスの夜には、洞窟で家畜と一緒に過ごしたというエピソードもあります。 私達にとって、あまりにも慣れ、安易に口にしている飼い葉桶の主イエス様の誕生に、どれほどの深い意味があるか、考える待降節でありたいものです。

 

■結 論 

結論です。私たちが、キリスト誕生の物語から、汲み取らなければならないポイントは、神の子であり、王の王、主の主である救い主キリストが、低い姿で、この地上に来てくださったという事実です。人間にすぎない、皇帝アウグストが、神のように崇められていた時代に、まことの神であり、まことの世界の救い主が、家畜の居場所に降誕されました。無力な赤子として。それて、飼葉桶から十字架へ。これが私たちを、罪から救うための神のご計画でした。この事実に、私たち人間の高慢は打ち砕かれます、羊飼いや東方の博士たちと共に、心からひれ伏して、救い主を礼拝するするように、み言葉に促されています。今朝、改めて、救い主キリストの謙遜を深く覚えて、御名を崇めたいと思います。

 

 

 

聖 書  ルカ1章8~13、24~25節

 


8 さて、ザカリヤは、自分の組が当番で、神の御前に祭司の務めをしていたが、

9 祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。

10 彼が香をたく間、大ぜいの民はみな、外で祈っていた。

11 ところが、主の使いが彼に現れて、香壇の右に立った。

12 これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われた。

13 御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。

 

 

24 その後、妻エリサベツはみごもり、五か月の間引きこもって、こう言った。

25 「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。

 

 

 

メッセージ 「見捨てられた者の救い」 滝本 文明 牧師

 

 

アンパンマンの作者、「やなせたかし」さん、両親は聖公会のクリスチャンで、やなせさんも、聖書の教えの影響を多く受けられ、アンパンマンの漫画を作成され、多くの子ども達に、今も愛されている漫画家となられました。このやなせさんが、「私達は、人生で多くの人々に出会うと思うが、世界の人口から考えると、ほんの少しの人としか、出会えないのが現実です。この世界で、この人と出会えて、本当に良かった。と思える人が一人でもいれば、幸いなことです。」と言っておられます。

私達は、主イエス・キリストに、出会いました。また、信仰の友で、この人と出会えて、本当に良かった。と思う人が、必ず何人かいます。私達キリスト者は、本当に幸いな者ですね。

 

主のご降誕当時のユダヤは、ローマ帝国に支配され、ヘロデ王により治められていました。民衆は重税に苦しみ、また祭司たちは信仰が堕落し、ユダヤの宗教は、世俗化していました。ユダヤは最暗黒の時代でした。そのような中、祭司ザカリヤとエリサベツ夫妻は、神の御前に正しく、主の戒めを守って歩んでいました。しかし、エリサベツは、不妊の女であり、もう歳を取っていました。当時、不妊は、計り知れない痛みでした。夫妻は、どれほど祈ったことでしょうか。しかし、その祈りは、聞かれませんでした。

 

1) 見捨てられた者の救い

しかし、ある時、ザカリヤは、神殿で祭司の務めをなしていた時、くじにより、神殿に入って香をたくことになりました。この奉仕は名誉ある奉仕です。奉仕はくじ引きで決められますが、当時の祭司は1万8000人いたと言われます。1万8000分の1の、人生に1回当たるかどうかというくじです。そして一度あたるともう一生、くじには参加できないルールになっていました。

香をたく神殿の聖所には、1人しか入ることが許されていません。そして聖所の外では、大勢の民衆が、祝福の祈りを待っています。民を待たせず、滞りなく済ませることが大事なことでした。

 

その時、主の使いが彼に現われ、告げました。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。そして、妻エリサベツが男子を産むこと、その名をヨハネ(「主は恵み深い」との意味です。)と告げ、その男子は、夫妻にとっての喜びだけではなく、多くの人々の喜びとなる。その子ヨハネは、イスラエルの人々を神に立ち返らせ、救い主が来られる道備えをする人物である。」と告げたのです。即ち、ヨハネ誕生の知らせは、イスラエルの民と暗闇の世界に、神が救い主を与えることの約束だったのです。

神様は、ご自分から、神との平和、人と人との平和を与えるために、救い主を与えられたのです。それがクリスマスの出来事です。ザカリヤ・エリサベツ夫妻は、神に祈ってきましたが、その祈りが地に落ちていたように見えました。しかし、神は覚えておられました。 同様に、神は、イスラエルの民を忘れ去っているかのように見えました。しかし、神は覚えておられ、救い主をお与えになられたのです。その救い主こそイエス・キリストでした。そして、独り子を与えられた神は、今も私たちを、覚えておられるのです。

 

ザカリヤにとって、くじに当たることも、子どもが出来ることも、ずっと祈って来たことでした。何十年も祈ったことでした。でも待っても、待っても叶わなかった願いでした。もうあきらめていたことでした。ザカリヤはようやく当たった奉仕に、複雑だったでしょう。もっと早く当たりたかったという気持ちもあったでしょう。

そして今さら、子どもが生まれると言われても、それを信じることは出来なかったのです。彼は求めていたのに、それを信じませんでした。 そこでザカリヤは、本当なら何か証拠となるものを、示してくださるように、神様に求めました。そして天使は、「言葉が話せなくなる」という証拠を与えたのです。

 

このやりとりの間、10節、大勢の民衆は外で待っていました。ザカリヤが出て来て祈るのを、待っていたのです。でも他の人より、手間取っている様子です。心配でした。そしてザカリヤは、言葉が話せなくなり、戻ってきました。民衆たちはザカリヤに、何かが起ったことを知ったのです。エリザベツは、どうしたでしょうか。24節、彼女は妊娠の事実を誰にもいわず、5か月の間、家にこもりました。どこにも出かけずに、待つことにしたのです。自分が確かに神様によって妊娠する、出産することを、信じて、隠れて、待ち続けたのです。彼女は自分の体に起こる変化を待ち続けました。そして25節、エリザベツは告白します。「主は、今わたしを、心にかけてくださって、人々の間から、わたしの恥を取り除くために、こうしてくださいました。」(口語訳)

 

今日の物語は、「待つことがテーマ」になっているように思えます。ザカリヤも大勢の民衆も、エリザベツも、みんな待っていたのです。ザカリヤは、待ちきれない時もありましたが、でも待ちました。そしてやがて、ヨハネが生まれ、イエス様が生まれる事につながってゆきます。この物語は、すべての人が待ち、希望へとつながってゆく物語です。

 

私たちは、祈っても、祈っても、待っても、待っても、願いが叶わないという時があります。どれほど待っても、叶わない願いがありました。願い続けるのに疲れ、祈るのを止めてしまう時があったでしょうか。私たちの教会のおいても、私たちの人生においてもそうです。どれだけ待っても、いまだ叶わない願いがあります。しかし、今日の聖書箇所によれば、もしかするとある時、その願いが、叶う時が来るかもしれません。それはもう何年も前にすでにあきらめた事だったかもしれません。でも神様は、「神様のタイミング」でそれを起こされることがあります。まさか私たちにそんなことが起るのでしょうか。周囲から無理と、言われていることが起きるでしょうか。私たちが待ち続けたけれど、もうあきらめたことが、私たちにも起こるのでしょうか? きっと誰にも、それを無理と言うことは出来ないでしょう。大勢の民衆が聖所の外で待ち続けました。そしてエリザベツもひっそりと待ち続けました。ザカリヤもこの後、言葉を失いながらも待ち続けました。そして人々は希望を見ました。私たちの希望もそのようにあるのでしょう。

 

私たちには、きっと叶わないとあきらめてしまうもの、無理と思えるものが、たくさんあります。でも私たちは、無理と決めつけるのではなく、共に祈り、待ちたいのです。そしてもしそれが示されるとき、大胆にその恵みを選び取りたいのです。私たちはどんなに周りに、無理と言われても、自分自身さえ無理だ、と思っていても、希望をあきらめないで、いたいのです。そしてそれが実現する時が、来るかもしれません。その時、大胆にそれを選び取りたいのです。

私たちは、クリスマスの到来を待つ時を、いただいています。私たちがあきらめている希望はないでしょうか。願い続けることに、疲れてしまっていることはないでしょうか。でも私たちは、希望を、待ち続けたいと願います。細くても息の長い希望を持って、歩みたいと思います。神様がきっと私たちに、希望を与えてくださいます。そのことを信じ、待ち続けましょう。きっといつか神様は、希望へとつながる道を、私たちに示して下さるはずです。

 

■結 論 

結論です。アドベントは神さまの愛と、希望を信じる時です。忘れずに待つことを覚える時です。今日、神様は私たちを、その希望へと促しています。神様が私たちに、希望を与えて下さること信じ、待ちましょう。きっとそれを待つ力も、神様が与えてくださいます。

神様は、私たちを一方的に憐れみ、御子イエス・キリストを与えて下さり、神との和解と人との平和に、生きる道をご用意下さいました。この神の喜びの訪れを、受け取りましょう。

 

 

 

聖 書  ヨハネによる福音書 1章1~5節


1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

2 この方は、初めに神とともにおられた。

3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

 

 

 

メッセージ 「暗闇を照らす光」 滝本 文明 牧師

 

今週からアドベント(待降節)に、入りました。4週間後には、クリスマスを迎えます。

神なる主イエス・キリストが、人間の私達に、最も近づいてくださる時です。

 1節「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」

4節「この方に命があった。」5節「光は闇に輝いている。」 言葉と神さま、神さまと命、神さまと光、が結び付けられています。そして、この光と洗礼者ヨハネも結びつけられています。

このヨハネが、光を証しするためだけに登場しています。そして、この光に対する世人の反応も、聖書は語り、警告を与えています。

 

1) 光は闇の中に輝いている

世の中(国家)も、個人の私達も光を失うと気力を、希望をなくしてしまいます。当時のイスラエル社会は、ローマの圧政下におかれ、もはや信仰によってさえ、生きる指針や、望みが見えてこない時代でした。そのような時に洗礼者ヨハネが、さっそうと登場し、闇夜を照らす光について語り始めました。 更に、福音書記者ヨハネは、驚くべきことを言いました。この言葉が肉体をとって主イエス・キリストとなった、と言っています。イエス様は、目に見える神の言葉なのです。

 

 このヨハネの福音書は、何とも不思議な手紙の始まり方、をしています。初めてこの個所を読んで、理解出来る人がいるでしょうか。この個所を読んだ時、いったい何のことを言っているのか、分かりません。 しかし、そのまま読み進んでいくうちに、「ああ、これは主イエス・キリストのことだ」と分かるようになります。1章14節に、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られた、ひとり子としての栄光である。この方は、恵みとまことに満ちておられた。」とあるからです。

 

ヨハネはまず、イエス・キリストを、「ことば」として紹介しました。なぜ「ことば」と紹介したのでしょうか。 言葉は、コミュニケーションをする上で大切な手段です。私たちは言葉によって、自分の考えを表現したり、説明したりします。 言葉は、その人の性質を表しています。その人が、どのような言葉を発するかによって、その人がどのような人であるか、が分かります。汚いことばを、発する人はそのような性質を持っており、丁寧なことばを発する人は、そのような性質を持っています。どのような言葉を発するかで、その人がどのような性格の人かを、ある程度判断することが出来ます。キリストは神の子として、完全なことばを持っておられました。キリストは、神の人格者として現れた方です。

 

また、言葉には大きな力があります。創世記1章3節には、「神は仰せられた。『光、あれ。』すると光があった。」とありますが、神は、ご自身のことばをもって、天地万物を創造されました。言葉には、天地を創造する力があるのです。 また、ことばは、人を傷つけたり、破壊したりする力を持っているかと思えば、逆に、傷つき、苦しんでいる人を慰め、励まし、力づけ、絶望から救い出すこともできます。キリストは、神の言葉として、私たちを人生の、さまざまな苦しみから、解放するだけでなく、罪によって死と絶望の淵にある私たちを、そこから救い出すことが、お出来になります。

 

聖書を1番初めに、日本語に訳したのは、オランダ伝道協会の宣教師カール・ギュツラフという人です。彼は、遠州灘で遭難し奇跡的に助け出された3人の日本人が、マカオに到着した時、彼らから日本語を学び、日本語の聖書の翻訳作業を開始しました。そして、ついに、約1年かけて、「ヨハネ伝」が翻訳されたのです。 この訳には、ヨハネの福音書1章1節を、次のように訳されています。

「はじまりに かしこいものござる

このかしこいもの ごくらくともにござる」

これによると、「初めに、ことばがあった」という文章が、「はじまりに かしこいものござる」と訳されています。「ことば」をどのように訳したらよいのか、相当悩んだことが分かります。ただの言葉ではなく、賢いもの、知恵ある者としての神、それを「かしこいもの」と訳したのです。また、「神とともにあった」を、「ごくらくとともにござる」と訳しました。神をごくらくと表現したところに、当時の日本人が、神様に対して天国について、どう考えていた、が伝わって来ます。

 

日本の歴史上、偉大な人物として、日本人に人気があるのは、織田信長や坂本龍馬です。坂本龍馬が薩長同盟を結ばせ幕末を終わらせて、新しい日本の礎を築いた人物として有名ですが、キリストは、それどころではありません。キリストは神ご自身であられるからです。

世界で人気がある有名な偉人は、レオナルド・ダ・ヴィンチ とか、アインシュタインです。ダ・ヴィンチは、芸術家であり数学者であり発明家でもありましたが、様々な分野で素晴らしい功績を残してきたことから「万能人」と称されました。

しかし、キリストはこうした世界の偉人と、呼ばれる人たちとは、全く比較にならないほどの、すごいお方です。なぜなら、キリストはこの天地を、創造された神様ですから。

4節の「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」 最初の人アダムとエバは、神の命令に背いて罪を犯したことで、神との関係が、断たれてしまいました。すなわち、霊的に死んでしまったのです。それゆえ、神はその罪から、私たちを救い永遠のいのちを与えるために、ご自身の御子を、この世に与えてくださいました。それが救い主イエス・キリストです。キリストはこう言われました。「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」(ヨハネ10:10)イエス様が来られたのは、このいのちを、私たちにもたらすためです。

 光」が注がれるとどうなるでしょうか。光が注がれると、それまで見えなかったものが、見えるようになります。真っ暗の中では、どこをどう進んで行ったらよいか、分かりません。しかし、闇が照らされることで、進むべき道がはっきりと見えます。

 つまり、このいのちは、人の光であった、このことが意味していたことは、光であられるイエス様は、闇を消し去ることが出来るということです。 このことをヨハネは5節「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」「光」の反対は、「闇」です。キリストは闇ではなく、光です。キリストと共に人生を歩むということは、闇の中ではなく光の中を歩むことです。

 あなたには今、どのような闇がありますか? それがどのようなものであっても、闇はこれに打ち勝ちません。ヨハネは語っています。光はやみの中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。これこそ、ヨハネが、この福音書を通して私たちに、語りかけようとしているメッセージです。

 

■結 論 

結論です。日本中の町々でクリスマスを商売にして、イルミネーションが飾られ、クリスマスソングが流れています。これも主イエス様のご降誕を祝う一つの形ではあるでしょう。しかし、私達は、暗い心の中に神様の言葉である、命の光が灯ることを願って主のご降誕を待ちます。

静まって祈りつつ、この4週間を神様への感謝の思いをもって、過ごして行きましょう。そして教会で、主イエス・キリストを信じる者と共に、喜びをもってクリスマスを祝いましょう。

 

 

 

聖 書  使徒の働き20章34~35節 

 

34 あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。

35 このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」

 

 

メッセージ 「与える者の幸い」 滝本 文明 牧師

 

今日の御言葉35節で、パウロは、「主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみ言葉を思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」とあります。 パウロはエペソの教会の長老達を招き、彼の告別説教とも言えるべき、最後のメッセージを語りました。その中でパウロは、「与えることの幸い」を語りました。

エペソの長老たちに対して、パウロが語った言葉は、「どのようにして、弱い人々を助けることが出来るか」、ということでした。そのためには、イエス様が語られた言葉を、思い出さなければなりません。すなわち、「受けるよりも、与える方が幸いである」という、御言葉です。

 

1) 与える者の幸い

ルカの福音書6章38節には、「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」とあります。また、ヨハネの福音書12章24,25節にも、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」とあります。イエス様はこの言葉のとおりに、まさに一粒の麦として地に落ちて死んでくださいました。十字架の上で。それは、そのことによって、多くの人たちが生きるためです。豊かな実を結ぶためです。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って、永遠のいのちに入るのです。イエス様のご生涯は、実に与える生涯でした。

 

マタイの福音書五章において、山上の垂訓として有名な「心の貧しい人は幸いです」とイエス様が言われたことは、天国憲法であり、イエス・キリストを信じるものが身につけるべき、大切なものです。そうすれば、イエス様が約束された祝福、幸いに与ることが出来るのです。

ともすれば、私たちは、受ける方が幸いであると誤解しています。それは、明らかに誤解です。

この世にあって多くの人々は、逆に考えています。与えるよりも受ける方が、幸いだと思っているのです。生まれながらに利己的な私たちは、何かを人からもらう、ということに対して喜びを感じます。 お金や物がたまるということ、名誉や地位が与えられる、ということを喜びます。

しかし、それはほんとうに喜ぶべきことなのでしょうか。お金や物や名誉や地位が、自分のものとなることは嬉しいことかもしれませんが、それによって人間として重要なものを、失っていることはないでしょうか。たとえば、高慢になり、弱い人を見下す、など。

 

オーストリアの心理学者アルフレッド・アドラーは、次のように言いました。「不幸な人は、自分の喜びばかり、考えている人です。憂鬱な時、どうしたら他人に喜んでもらえるか、を考えることです。」と、そうすると憂鬱な気持ちが無くなるようです。神と人のためにいかに、自分を与えることが出来るか、と考える人は、多くのものを受け、祝福された人となると言っています。

 

「ヤマト運輸の創業者で、宅急便の父といわれ、またキリスト者である、小倉昌男兄弟は、『サービスが第一、儲けは後からついてくるもの。』と、お客様へのサービスを第一に考え経営された。結果、祝福されて大きな企業になりました。

 

ところで、このエペソの教会はその後どうなったでしょうか。黙示録2章を見ると、このエペソの教会が1世紀末までにどうなっていったかを知ることかできます。2章1~5節です。

「エペソにある教会の御使いに書き送れ。「わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちを、我慢することが出来ず、使徒と自称しているが、実はそうでない者たちの、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。」と。

エペソの教会は、パウロの教えを守り、み言葉を守り抜く戦いにおいて、この教会は勝利していたのです。 しかし、彼らには避難すべきことがありました。それは、「初めの愛から離れてしまった」ことです。 すなわち、弱い羊を助け、羊たちを守るという愛から離れてしまった。ですから、それがどこから落ちたのかを思い出して、悔い改めなければ、なりませんでした。

このエペソの教会は、どこから落ちてしまったのでしょうか。まさにここから落ちたのです。受けるよりも、与える方が幸いである、と言われた、あの主イエスの言葉に生きることができず、自分のことしか、考えられなくなってしまったのです。 教会が、神のひとり子の血をもって買い取られた神の教会であり、弱い羊も、小さな羊も、神さまが、ご自身の血をもって買い取られた尊い神の羊である、という理解から離れ、だれかが、いつか、どこかで何とかしてくれるでしょう、といった他人事のようにしか考えられなくなってしまったのです。すなわち、初めの愛から離れてしまったのです。

 イエス様は天国において、私たちにお会いされるとき「善かつ忠なる僕よ、よくやった」と言われて、私たちを褒めてくださることが、聖書に出ています。パウロは、「義の冠が私をまっている」と、いっています(2テモテ4:8)。それは、人生の金メダルです。神によって与えられる栄光です。私達も、その栄誉に与かりましょう。

 

パナソニックの【松下幸之助一日一話】

 「与うるは受くるより幸いなり」…そんな境地に皆が、あと一歩近づくだけで、世の中はずっと住みやすくなるのでしょう。もちろん職場も。

持ちつ持たれつという言葉もあるが、この世の中は、お互いに与え合い、与えられ合うことによって成り立っている。それはお金とか品物といった、物質的な面もあれば、思いやりといったような心の面もある。

聖書の中にも、「与うるは受くるより幸いなり」という言葉があるというが、人間とは他からもらうことも嬉しいが、他に与え、他を喜ばすことに、より大きな喜びを感じる、というところがあると思う。そういう喜びを自ら味わいつつ、そして社会全体も豊かにしていくことが出来るのである。「まず与えよう」これをお互いの合言葉にしたい、と考えたのだが、どうであろうか。」

と語っておられる。キリスト者の小倉昌男兄弟と同じ考えです。神の国の法則に生きると、祝福される、と言うことが分かります。

 野球の大谷翔平選手も、与える人です。日本の全小学校にグローブ3個ずつ贈呈する。6万個、12億円になるそうです。あまり知られていませんが、社会貢献活動もすごいそうです。難病の子供の訪問、小児支援団体への高額寄付など。与える人は、祝福されます、人からも愛されます。

 

■結 論 

人は嬉しいことが起きても、次第にそれに慣れてしまい、幸せや感謝を感じられなくなりますが、誰かに与えてもらうのではなく、自らが他者に与えることによって得られる喜びは、長期間幸せであり続ける、と言われます。

誰かの為に全力で行動すれば、必ず良い結果が生まれていきます。

愛がないなら、何の値打ちもありません。 私たち一人一人が、与えられた賜物や、役割を忠実に果たしていくことが出来ますように。イエス様やパウロに習って、喜んで自分を与えていくことが出来ますようにお祈ります。

 

 

 

聖 書  テサロニケ人への手紙第一 5章18節

 

18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

 

 

メッセージ 「感謝できる心」 滝本 文明 牧師

 

本日の「収穫感謝の礼拝」、それは何よりも先ず、神さまに目を向け、神さまの豊かな恵みを覚えることから始まります。いつも私たちを守り、導いていてくださる神さま。そして、私たちに自然の恵みを、たくさん与えてくださる神さまに、心からの感謝の気持ちをもって、この「収穫感謝の礼拝」を守りたいと思います。

 

1) すべての事に感謝

18節の「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神が、あなたがたに望んでおられることです。」とあります。 

 

このみ言葉を読むとき、私達は、次の二つの誤解をします。一つは、感謝は、神様が下さる良いもの、に対してのみ、するものだという考えです。そのため、成功したり、健康であったり、祝福があったり、財産が増えたり、素敵なプレゼントを、いただいた時といった、うれしいこと、うまくいった時だけ、感謝すればいいという考えです。

 

二つ目の間違いは、感謝は感謝の思いが、溢れてきた時だけ、感謝すればいいという考えです。しかし、パウロは「すべてのことについて感謝しなさい」と言いました。これはすべてのこと、どんな状況でも、どんな成り行きになっても、すなわち、うれしい時でも、悲しい時にも、失敗した時でも、さらには苦しみに、直面している時でもです。「すべてのことについて感謝しなさい」という意味です。いったいどうしたら、このように感謝することが出来るのでしょうか。

 

パウロは、この時、獄中にいました。ある程度の自由は許されていましたが、それでも24時間、監視されながら生活することは、相当のプレッシァーがあったと思います。そうした中にあっても、彼は喜びに満ち溢れていました。それは「主にあって」です。彼の置かれていた状況を見たら、決して喜ぶことなど、出来なかったでしょう。しかし、彼は、主にあって喜ぶことができたのです。

 

ここで鍵になるのも18節にある「キリスト・イエスにあって」という言葉です。自分の力ではとても感謝することなど出来ません。しかし、キリスト・イエスにあるなら、感謝することが出来ます。主イエス様にあるなら、すべてのことについて感謝することが出来るのです。災害に見舞われても、病気になっても、思うように事が進まなくて、がっかりすることがあっても、この世を治めておられる、「神様の視点で物事を見るなら」、どんな状況でも、感謝することが出来るのです。

 

「一生感謝365日」という本の中に、すべての感謝の基本ということで、次のように書いてあります。「幸せは、持っているものに、比例するのではなく、感謝に比例する。自分の人生のすべてのことを、感謝だと感じられれば、それに比例して、幸せも大きくなる。ではどのように感謝することが出来るのでしょうか。お金をたくさん稼ぐこと、持っている不動産の値段が何倍にも跳ね上がったこと、商売がうまくいくこと、良い学校に合格したこと、就職したこと、これらすべて感謝の対象となります。

しかし聖書は、このような感謝は、誰にでも出来る感謝だと言っています。では、私たちが、捧げることのできる、本当の感謝は何か、といいますと、それは、「イエス・キリストを送ってくださったことにより、私達が、死から永遠のいのち(天国で生きる命)に、移されたことが最も尊く、価値のある贈り物が、他にないということです。」 だからこそ私たちは、イエスの十字架を見上げなければなりません。これがすべての感謝の基本であり、始まりであるのです。

 

 今から400年前のこと、1620年の秋、9月6日、イギリスからアメリカに、一艘の船が旅立って行きました。その船の名前は「メイフラワー号」と言いました。このメイフラワー号には、102人の人たちが乗っていた、と言われます。男性が78人、女性が24人。合計102人の人たち。 その頃のイギリスは、英国国教会という教会が人々の生活を支配していて、国教会で決められた事以外はしてはいけない、あれもダメ、これもダメ、そういうことが沢山ありました。しかし、中には「自由に神様を礼拝したい」という人達がいました。 この人達はピューリタン(清教徒)と呼ばれています、「自由に神様を礼拝したい」という人たちも、沢山いました。そして、このピューリタンと呼ばれる人たちは、信仰の自由を求めてアメリカに行くことになったのです。

 9月に出発したメイフラワー号は、65日もかけて、11月、アメリカの東海岸に到着しました。 しかし、そこは岩と砂と一面の、荒れ地だけでした。人が住めそうな所を一生懸命さがして、やっと見つけた所が、現在のマサチューセッツ州で、12月から開拓を始めた、と言われています。

 

寒くても着る物がない。食べ物もなくなってくる。病気になる人も出てきました。そして、多数の人たちが、冬に死ぬ人も出ました。しかし、残された人々は「神様は必ず助けてくださる。」という信仰を持って苦しみに耐えました。

 そして春になりました。先住民の人たち、親切なインディアンの人たちがやって来ました。この親切なインディアンの人たちは、彼らに魚をとる方法や、その魚で土地を肥やす方法、また、とうもろこし、や、えんどう豆、小麦や大麦の種の蒔き方、育て方などを教えてくれました。

 

やがて、秋になりました。とうもろこしは、いっぱい実をつけています。小麦も豊かに実っています。自分たちの予想をはるかに、上回る豊かな作物が出来たのです。彼らは喜びました。そして言いました。「さあ、これらのすべてをくださった神様に、感謝を申し上げよう、この太陽の光も熱も、雨も風も、すべて神様の御業なのだ」。彼らは、教会で、家で、収穫感謝の礼拝をささげました。 それだけではありません。女性たちはうれしくて、「友達のインディアンの人たちを招いて、みんなでお祝いしましょう」と、用意を始めました。男性たちは、原生林から、がちょうやアヒルや、七面鳥などを取ってきました。とうもろこしと、小麦でパンとケーキが作られ、魚や七面鳥も料理されて、豊かな食卓が出来上がりました。

 

 こうして、彼らは、親切にいろいろなことを、教え導いてくれたインディアンの人たちと一緒に、そして、豊かな食べ物を与えてくださった神様に、心からの感謝をささげ、収穫感謝の礼拝を守ったと言われています。これが、キリスト教会で、今も守られている「収穫感謝礼拝」の起源・始まりです。

 

■結 論 

豊かな食べ物を与えてくださった神様に、心からの感謝をささげ、収穫感謝の礼拝をささげ、また私たちは主イエスにあって、素晴らしい救いを、受けているのですから、たとえ、この地上で悲しいことや、苦しいことがあっても、目の前の出来事に押し潰されず、その先にある、望み、希望を見て喜び、感謝の出来る者に、なりたいものです。

 

 

 

 

聖 書  申命記30章1~5節

 

1 私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨み、あなたの神、主があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心に留め、

2 あなたの神、主に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、

3 あなたの神、主は、あなたの繁栄を元どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。

4 たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。

5 あなたの神、主は、あなたの先祖たちが所有していた地にあなたを連れて行き、あなたはそれを所有する。主は、あなたを栄えさせ、あなたの先祖たちよりもその数を多くされる。

 

 

 

メッセージ 「慈しみ深さの神」 滝本 文明 牧師

 

今日の箇所でモーセは、イスラエルが主を信じないで、災いにあうようになっても、彼らが悔い改めて主に立ち返り、心から主のみ声に聞き従うようになるなら、主は彼らを祝福し、捕囚の地から彼らを連れ戻されること。そして、彼らがうわべだけでなく心から主に使えるようになり、豊かで栄えに満ちた生活を、することが出来るようになる、とモーセは語ります。

 モーセは、先にイスラエルが、主のみ声に聴き従えば祝福を受け、主を捨ててほかの神々に仕えるなら、呪いを受ける、と語りましたが、イスラエルの頑なさを知っていた彼は、やがて、イスラエルが偶像にひかれ、主のさばきを受けるようになることを、見通していました。そして、主のさばきの悲惨の中で、彼らが悔い改めて主に立ち帰る時、主は彼らを豊かに祝福し、前の幸いにまさる祝福を与えられることを、示したのです。主は義しい(義なる)お方で、罪人を裁かずにはおられませんが、また憐れみに富んだ、恵み深い愛の神様で、悔い改める罪人には、前にもまさる大きな祝福を、与えてくださるお方です。

 

1) 祝福とのろい

非常に大切な真理を、モーセは教えています。彼はこれまで、主の命令に聞き従いなさい。と何度も何度も言ってきました。み言葉に聞き従うことこそが、イスラエルの国全体の運命を、変えることを教えました。農作も天候も、敵との戦いも、経済活動もすべてこれにかかっています。

 

私達の神さまは、いつでも私たちの前に、「祝福とのろい」の両方を置いておられます。

1節、「私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨み、あなたの神、【主】が、あなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心に留め、」とあり。

19節 「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」と言われます。

 

あなたも私達の子孫も生きるために、私たちはその二つのうち、どちらか一つを自分で選ばなければならないのです。どのようにして選ぶのかというなら、それは祝福を受けるための条件を選んで、それを実際生活の中で実行していくことによって、祝福を選び取ることになるのです。これは聖書が言っている選択の方法です。私たちは、神さまが定められた条件を無視して、守ることをしないで、祝福を選び取ることは、できません。たとえ、この世と調子を合わせながら、裕福で、健康で、仕事も順調であったとしても、それは神からの祝福ではありません。

ローマ 12章2節で、 「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

神さまの祝福は、条件を守ることなしに、与えられることはないからです。主のみ心に反する生き方の人は、大抵、高慢で自分中心です。逆に、主のご命令を守りながら、貧しく、病に臥(ふ)していても、その人の霊魂には、平安や愛や喜びが与えられ、祝福が与えられています。

神さまの祝福とは何でしょう。それは持ち物や身なりなど、外見だけを見ていても分かりません。

 

しかし、しばらく交わりをしてみて、その人の性質が分かってくると、その人が本当にイエス様を愛して、信頼している人か、心に主の恵みを持っている人かどうかが、分かって来ます。

もちろん主は、私たちの物質的な必要を豊かに満たして下さいます。

マタイ6:33節、「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

とかく、私たちは物質的祝福に、目が向いてしまって、霊的祝福を軽んじてしまいがちです。そして信仰から迷い出てしまいやすい者です。

 主が言われた「祝福と呪い」の結果が私達の身に起こり、不幸の結果が続いたとしても、絶望する必要はありません。 再び心から神に従うなら、神は不幸の身から救い出してくださいます。主にある幸いが与えられます。心を尽くし、魂を尽くして、あなたもあなたの子孫も神を愛して、命を得ることが出来るのです。 それどころかあなたの敵や、迫害する者を神が呪われます。そしてあなたの繁栄は、神の喜びとなるのです。あなたが神に立ち返るからです。

私達に命じられる戒めは、難しいことでもなく、遠くて及ばないようなことでもありません。天にあるのでもなく、海のかなたにあるのでもないのです。それはあなたの口と心にあるのです。戒めを覚えて絶えず暗唱していればいいのです。これは生きるか死ぬかの大切な問題です。神に従って命を得、祝福される道を選ぶか、従わないで、死と呪いを選ぶかということなのです。

 

■結 論 

結論です。イスラエルは捕囚の民となり、絶望の中で神を呼び求めます。そして捕囚の地から喜びの帰還を、果たすことが出来ました。人生に絶望するような時でも、決してあきらめては、いけません。いつも目の前には、神のみ手が伸ばされていることに、気付きたいものです。その手にすがって、ただ神に従っていくときに、絶望的と思えた状況が、まるで雲が散らされてくように解決していき、晴れ間が覗(のぞ)くようになります。光が見えない絶望の真っ只中にあっても、雲の上に光を神さまが、用意してくださっていることを、確信して歩みましょう。そして雲を取り除いてくださる主に、委ねて行きましょう。

 第一コリント10章13節、「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなた方を耐えられないような試練に遭わせることはなされず、試練と同時に逃れる道をも備えていて下さいます。」

 

 

 

 

聖 書  ピリピ人への手紙3章20~21節

 

20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

 

 

メッセージ 「国籍は天に」 滝本 文明 牧師

 

「我らの国籍は天にあり」というパウロの語るみ言葉の箇所です。

なんと響きのよい、はっと心を上に向けさせて下さる、み言葉でしょうか。

地面の上を、何か落し物を探すかのように、下ばかりを見ている私達に、神様があなたは、いったいどこを見ているですか?と、声をかけられ、落ち葉に埋もれた、地面ばかりに目が向いている私たちに、すがすがしい秋の空を見て御覧なさい!と、呼びかけてくださっているようです。

 

どこに目を向けているのでしょうか?、世の人々だけでなく、クリスチャンにも当たり前のように悩みがあります。教会の中も、天国ではありません。クリスチャン同士の悩みもあれば、

教会の運営、などなどいろいろです。そんなことに目を向けてばかりいては、いつのまにか心が重くなってしまいます。

私たちの心を地上に縛り付けてばかりいてはいけません。天に目を向けましょう。

そこには、すべてのクリスチャンの国籍があり、住まいがあると聖書は語ります。

だれも押し合い、へし合いすることなく、競い合うこともなく、その天国を私たちは、すでに、いただいているのです。

 

1) 我らの国籍は天にあり

「我らの国籍は天にあり」パウロという人物は、この真理を牢獄に囚われている中で、ピリピ教会に向けて書き送りました。パウロが言っているのは彼自身の生き方、歩み方、戦い方を指しています。それは、キリストにある希望を喜ぶ生き方です。

牢獄の中という、人生のどん底にいるようなときでもパウロは全く動じません。このピリピ書とは喜びの書、とも言われています。彼は牢獄の中で主の希望への喜びを心から表していたのです。たとえ人生が不遇であったとしても、彼はその先にある天の国の約束をずっと見ていたからです。天国を夢見つつ、牢獄にいた。これはむしろ、牢獄の中にいながらも、パウロはすでに主イエスと共に天の中にいた、ともいえるのではないでしょうか。自分の行き先は、天にあるということを覚えた時、パウロの心はまさに、パラダイスにいるような平安が、そこにはあったのだと思います。

 

パウロという人物は、この希望を胸に留め、ひたすらイエス様を、追いかけて行きました。このピリピ書の中でも、3章13−14節で「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」と語っています。本当にパウロの人生はキリストを追いかけ、駆け抜けた人生でした。

彼は晩年、愛するテモテへの手紙で、Ⅱテモテ4:7−8節「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。」

と、自分の人生を振り返ります。まるで遺言のようですね。実際そのような思いもあったと思います。彼の先ほどの言葉は、このあとこのように続いていきます。

「しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」だからあなたも、そのように生きてほしいのだ、と。義の栄冠を受け取ってほしいのだ、と。その義の栄冠とはまさに、神と愛する神の家族と共に生き続ける、永遠の命そのものであります。そして、ここの写真の兄弟姉妹の方々もパウロと同じく信仰をもってキリストを追いかけ、駆け抜けた人生を送られました。

 

写真の召天者の方々も、パウロの言葉を、この召天者の方々が、その駆け抜けた人生を通して語っておられるような気がいたします。

この写真の兄弟姉妹の方々の、信仰者として生き抜かれた人生を見て、私たちはこの方々に倣って、今あらためてキリストと共に生きる決意をする。 それこそが、この召天者記念礼拝の大切な意味です。今日のこの日は死者の供養ではなく、今生きているものが召天者を見て、改めて我らの国籍は天にありと確信し、その天を見上げて生きていくことを、決意いたしましょう。

 

それがこの写真召天者の方々の願いなのです。そして、この地に残された全てのご家族にも、天に国籍をもってほしいと、願われています。故郷に共に帰りたいのだ。また、あなた達と会いたいのだ。これもまた召天者の方々の願いでしょう。そして、「天に国籍を持つことによって、まさに今、目の前の人生が、変わっていくのだよ。」そのように、言われたいのではないでしょうか。

 

 

■結 論 

結論です。このような方向性をしっかりと持っているのですから、右にふらふら、左にふらふらする必要も暇もありません。しっかりと天国を目指して、この世の人生を全うしましょう。

皆さんは、天国の市民に登録しましたか。住民登録が未だの方は、天国の戸籍係が働いておられる間に、主イエス様を信じ、その名前を登録しましょう。登録済みの方は、天に目を向けながら、しかし、足元もしっかり固めながら、今週の歩みを全うしましょう。