聖 書  申命記30章1~5節

 

1 私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨み、あなたの神、主があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心に留め、

2 あなたの神、主に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、

3 あなたの神、主は、あなたの繁栄を元どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。

4 たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。

5 あなたの神、主は、あなたの先祖たちが所有していた地にあなたを連れて行き、あなたはそれを所有する。主は、あなたを栄えさせ、あなたの先祖たちよりもその数を多くされる。

 

 

 

メッセージ 「慈しみ深さの神」 滝本 文明 牧師

 

今日の箇所でモーセは、イスラエルが主を信じないで、災いにあうようになっても、彼らが悔い改めて主に立ち返り、心から主のみ声に聞き従うようになるなら、主は彼らを祝福し、捕囚の地から彼らを連れ戻されること。そして、彼らがうわべだけでなく心から主に使えるようになり、豊かで栄えに満ちた生活を、することが出来るようになる、とモーセは語ります。

 モーセは、先にイスラエルが、主のみ声に聴き従えば祝福を受け、主を捨ててほかの神々に仕えるなら、呪いを受ける、と語りましたが、イスラエルの頑なさを知っていた彼は、やがて、イスラエルが偶像にひかれ、主のさばきを受けるようになることを、見通していました。そして、主のさばきの悲惨の中で、彼らが悔い改めて主に立ち帰る時、主は彼らを豊かに祝福し、前の幸いにまさる祝福を与えられることを、示したのです。主は義しい(義なる)お方で、罪人を裁かずにはおられませんが、また憐れみに富んだ、恵み深い愛の神様で、悔い改める罪人には、前にもまさる大きな祝福を、与えてくださるお方です。

 

1) 祝福とのろい

非常に大切な真理を、モーセは教えています。彼はこれまで、主の命令に聞き従いなさい。と何度も何度も言ってきました。み言葉に聞き従うことこそが、イスラエルの国全体の運命を、変えることを教えました。農作も天候も、敵との戦いも、経済活動もすべてこれにかかっています。

 

私達の神さまは、いつでも私たちの前に、「祝福とのろい」の両方を置いておられます。

1節、「私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨み、あなたの神、【主】が、あなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心に留め、」とあり。

19節 「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」と言われます。

 

あなたも私達の子孫も生きるために、私たちはその二つのうち、どちらか一つを自分で選ばなければならないのです。どのようにして選ぶのかというなら、それは祝福を受けるための条件を選んで、それを実際生活の中で実行していくことによって、祝福を選び取ることになるのです。これは聖書が言っている選択の方法です。私たちは、神さまが定められた条件を無視して、守ることをしないで、祝福を選び取ることは、できません。たとえ、この世と調子を合わせながら、裕福で、健康で、仕事も順調であったとしても、それは神からの祝福ではありません。

ローマ 12章2節で、 「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

神さまの祝福は、条件を守ることなしに、与えられることはないからです。主のみ心に反する生き方の人は、大抵、高慢で自分中心です。逆に、主のご命令を守りながら、貧しく、病に臥(ふ)していても、その人の霊魂には、平安や愛や喜びが与えられ、祝福が与えられています。

神さまの祝福とは何でしょう。それは持ち物や身なりなど、外見だけを見ていても分かりません。

 

しかし、しばらく交わりをしてみて、その人の性質が分かってくると、その人が本当にイエス様を愛して、信頼している人か、心に主の恵みを持っている人かどうかが、分かって来ます。

もちろん主は、私たちの物質的な必要を豊かに満たして下さいます。

マタイ6:33節、「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

とかく、私たちは物質的祝福に、目が向いてしまって、霊的祝福を軽んじてしまいがちです。そして信仰から迷い出てしまいやすい者です。

 主が言われた「祝福と呪い」の結果が私達の身に起こり、不幸の結果が続いたとしても、絶望する必要はありません。 再び心から神に従うなら、神は不幸の身から救い出してくださいます。主にある幸いが与えられます。心を尽くし、魂を尽くして、あなたもあなたの子孫も神を愛して、命を得ることが出来るのです。 それどころかあなたの敵や、迫害する者を神が呪われます。そしてあなたの繁栄は、神の喜びとなるのです。あなたが神に立ち返るからです。

私達に命じられる戒めは、難しいことでもなく、遠くて及ばないようなことでもありません。天にあるのでもなく、海のかなたにあるのでもないのです。それはあなたの口と心にあるのです。戒めを覚えて絶えず暗唱していればいいのです。これは生きるか死ぬかの大切な問題です。神に従って命を得、祝福される道を選ぶか、従わないで、死と呪いを選ぶかということなのです。

 

■結 論 

結論です。イスラエルは捕囚の民となり、絶望の中で神を呼び求めます。そして捕囚の地から喜びの帰還を、果たすことが出来ました。人生に絶望するような時でも、決してあきらめては、いけません。いつも目の前には、神のみ手が伸ばされていることに、気付きたいものです。その手にすがって、ただ神に従っていくときに、絶望的と思えた状況が、まるで雲が散らされてくように解決していき、晴れ間が覗(のぞ)くようになります。光が見えない絶望の真っ只中にあっても、雲の上に光を神さまが、用意してくださっていることを、確信して歩みましょう。そして雲を取り除いてくださる主に、委ねて行きましょう。

 第一コリント10章13節、「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなた方を耐えられないような試練に遭わせることはなされず、試練と同時に逃れる道をも備えていて下さいます。」