聖 書  エペソ人への手紙 4章1~3節  

 

1 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。

2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、

3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

 

 

元旦礼拝メッセージ 「謙遜と柔和」 滝本 文明 牧師

 

 

■謹賀新年、明けましておめでとうございます。主の歳、2024年を迎えました。

今日のみ言葉、1節でパウロは「私は勧めます」と言っています。そして、召しにふさわしく歩み、謙遜と柔和の限りをつくして御霊の一致を熱心に保ちなさい、と勧めています。

一致を「作れ」ではなく、一致を「保て」と言うことです。つまり、教会には一致があるはずなのです。その一致は、熱心に保ちつづけなくてはならないものなのです。

一人の主イエス・キリストにより、一つの御霊によって、一つのからだにつながれ、一人の神に生きる、お互いであることです。

教会は原語のギリシャ語では「エクレシア」という言葉が使われていて、「召し出された者たち(救い出された者たち)の集まり」という意味があります。

 

1) 謙 遜

まず、「謙遜」とは「へりくだる」ことであり、「しもべになる」、「仕える者となる」ということです。しかし、「謙遜」になるということは、私たちの生まれながらの性質、肉の性質に反するものです。 私たちは、赤ん坊の時から自己中心で、自分のことだけしか考えず、「仕える」ことよりも「仕えられる」ことを求めて、生きています。人間は、常に「自分の必要を満たしてくれるもの」を求めています。

しかし、聖書は「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい」と言います。

 私たちが謙遜になり、へりくだり、しもべになり、仕える者となる、ということの最高の模範はイエス様です。イエス様は私たちを愛し、救うために、「ご自分を無にして、仕える者」となられたのです。 最後の晩餐の席で、誰も足を洗う役をしようとする者がいませんでした。

足を洗うのは、しもべの役割であり、プライドの高い弟子たちには、それは出来ませんでした。

その時、イエス様は「上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ」、「たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って」あげられたのです。イエス様は卑しい「しもべ」となり、人が嫌がる事を率先して行われました。そして、イエス様は、私たちもその例に、ならうようにと言われました。

イエス様は「仕えるため」、「自分のいのちを与えるために」来られました。

 

★フランシスコの平和の祈り

主よ、わたしを平和の器とならせてください。

憎しみがあるところに愛を            絶望があるところに希望を

争いがあるところに赦しを            闇あるところに光を

分裂があるところに一致を            悲しみあるところに喜びを

疑いのあるところに信仰を

誤りがあるところに真理を

ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。

理解されるよりも理解する者に  愛されるよりも愛する者に

それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け  許すことによって赦され

自分のからだをささげて死ぬことによって とこしえの命を得ることができるからです

 

2)柔 和

次に、柔和とは、怒ったり復讐したりせず、主に委ねることです。

国語辞典には、「柔和」とは「性質・表情などがおだやかで、やさしいこと」とあります。

腹立たしいことがあっても顔に怒りを表さない人、感情的にカッとならない人と言えます。

ギリシヤ語では「柔和」は不当に抑圧された、卑しい奴隷を表現する言葉です。

奴隷は、主人からののしられ、あざけられ、不当な扱いを受けても、

怒ったり、反撃したりせず、それを耐え忍び、受け止めなくてはなりません。

ですから、「柔和」な人とは、どんなに危害を加えられても、誹謗されても、

怒ったりせず、復讐せず、かえってそれを受け留め、耐え忍ぶ人のことです。

 

聖書の中で、誰よりも「柔和」であったのは、モーセであったと言われています。

モーセは、ミリアムとアロンから非難を受けても、怒りませんでした。

また、イスラエルの民は、モーセに不平不満を言ったり、モーセを批判したりしましたが、

モーセは40年間忍耐深く、不信仰で不従順で反逆的なイスラエルの民を、導きました。

しかし、「柔和」の最高の模範もイエス様です。主は、「謙遜で柔和」なお方です。

イエス様は、どんなに人々からののしられ、あざけられても、怒ったりせず、言い返すことも、裁くこともされませんでした。

しかし、ただ我慢するのではなく、相手も、自分の思いも、神様の御手に委ねるのです。

イエス様も「正しくさばかれる方に、お任せになりました」。

人から悪く言われれば言い返したいですし、悪を行う者にはやり返したくなるものです。

私たちは、「相手が悪い、先に相手がこうしたから」だと自分を正当化します。

しかし、そのような時、私たちのために十字架にまで行かれたイエス様を見上げましょう。

聖書は「謙遜と柔和の限りを尽くし」なさいと言っています。

しかし、「謙遜と柔和」は、私たちの努力だけによって得られるものではありません。

聖霊の力と助けによって、私たちの内側に形作られていくのです。

ヤコブとヨハネは、「イエス様の次の位に、着けて欲しい」と願い出ました。

イエス様は彼らに「ボアネルゲ」、「雷の子」と名付けられていました。

しかし、彼らは、ペンテコステ以後、聖霊に満たされて、造り変えられました。

特に、ヨハネは「愛の使徒」と呼ばれるほどに、愛の人に変えられたのです。

私たちも聖霊によって、イエス様のように「謙遜と柔和」な人に変えていただきましょう。

 

 野球の「イチロー」の言葉に「その人の前で、言えないことは、他の人の前でも言うべきではない。」と言っていました。 また、謙遜と柔和で、まず私の心に浮かんだのが、大谷翔平選手です。 大谷翔平の言動を見ていますと、野球のみならず、人柄も素晴らしいと思わされます。ベースに滑り込んだ時、相手の裾に、土を着けてしまったのを見て、大谷は、相手のズボンの裾を払っている映像を見ました。

 

 ★「ほほえみ」と言う詩がある。 ほほえみは、お金を払う必要もない安いものだが 相手にとって非常に価値を持つものだ ほほえまれた者を豊かにしながら ほほ笑んだ人は何も失わない

フラッシュのように 瞬間的に消えるが 記憶に永久にとどまる 失望する者には光となり

悲しむ者には太陽となる あなたの方からほほえみかけてごらんなさい 自分の暗い顔で他人の

生活まで暗くする権利はない

 

■結 論 

「キリストのからだを建て上げるため」に、「謙遜と柔和と一致」が必要のです。

「互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを、与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、へりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」と聖書は約束します。

箴言29章23節、「人の高ぶりはその人を低くし、心の低い人は、誉れをつかむ。」

ヤコブ4章6節、「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に、恵みをお授けになる。」とある。

謙遜と柔和な人は、神様に愛され、自分の心も満たされ、また大谷翔平のように人にも愛されます。