聖 書  ルカによる福音書 2章8~14節 

 

8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。

9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。

10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。

11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。

14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

 

 

メッセージ 「天に栄光、地に平和」 滝本 文明 牧師

 

■主の年2023年のクリスマスを迎えました。おめでとうございます。

この個所は、神の御子イエス様が、ユダヤのベツレヘムで、全世界の救い主として、誕生された夜のことを、伝えています。

ベツレヘム郊外で、8、9節「羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。すると、主の使いが彼らの所に来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」10~12節が伝えますように、御使いは「主キリスト」、つまり、神の御子なる救い主キリストの誕生を、告げました。すると13節「突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて」、14節のように神を賛美しました。「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和が御心に適う人にあるように」と。

 

1) 神との平和、人との平和、自分との平和

14節前半の「いと高き所で、栄光が、神にあるように」はラテン語訳聖書の言葉が、新聖歌78番にあります「グローリア、イン、エクセルシス、デオ」です。 グローリヤ「栄光」、インエクセルシス「いと高き所には」、デオ「神」であり「いと高き所には、神に栄光あれ」の意味になります。 そして14節後半には、イエス様が、旧約聖書の約束通り、救い主として来られたことが、私たちにもたらす神様の、最も尊い祝福の一つである「平和」が語られています。「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

この「御心にかなう人」とは、どんな人でしょうか。しばしば誤解されますが、これは神が人間に授けられた宗教的・道徳的教えや、戒めを守っている立派な信仰者、という意味ではありません。むしろ、自分の罪、汚れ、弱さをよく自覚し、心から悲しんでいる人のことです。

しかし同時に、神の憐れみによりすがり、御子イエスを通して差し出されている、父なる神からの罪の赦しと救いを心底願い、イエス様を自分の救い主と、心から信じ、受け入れ、依り頼み、イエス・キリストに繋がっている人のことです。従って、真面目ではありますが、普通のクリスチャンに、ほかなりません。天使たちは、そういう信仰者に特に「平和」があるようにと歌います。

 

では、「平和」とはどんなものでしょうか。聖書によりますと、これは争いや衝突、恨みや憎しみ、あるいは混乱や悩み、不安や心配がない、というだけではありません。人間が、色々な点で異なるお互いを認め合い、受け入れ、神様から与えられている恵みや良い点を、自分のためにも他者のためにも喜んで発揮できる、積極的で愛と秩序のある、穏やかな状態を指します。

私たちの置かれた周囲の状況も関係しますが、自分の内に平和がない時、私たちはどうなるでしょうか。そういう時、私たちは自分を見失い、せっかく神様から、私たちに与えられている賜物も、十分に発揮できません。する事なす事が空回りしたり、いつもなら出来るはずのこともできず、惨めな結果に終りやすいものです。

反対に、私たちに平和がある時、私たちは神から与えられている賜物、すなわち、良い意味での個性や能力、長所を伸びやかに発揮し、輝かすことができます。それだけでなく、皆のために生かすことも可能です。その結果、一層爽やかな喜びや、充足感、深い感謝を覚えることになります。

 

人間の惨めさの一つは、自分ともうまく行かないことです。私たちはしばしば、自分の失敗や弱さ、足りなさ、ふがいなさ、汚さ(きたなさ)を知って、自分に腹を立て、自己嫌悪に陥り、自分を赦せないことがあります。そういう時、私たちは苛立ちを人にぶつけ、八つ当たりをし、乱暴な言葉や態度で接し、自暴自棄になりやすくなります。自分を受け入れられないからです。そういう時、私たちは惨めです。自分との間に平和がないからです。

 

 しかし、ここでよく考えたいと思います。神は御子イエスを賜ったほどに、こんな私たちを尚も愛し、憐れみ、そしてイエス・キリストへの信仰だけで、私たちを罪も弱さも欠点も、あるがまま本当に受け入れて下さる!何という神の愛でしょう。

ですから、自分のことが気にいらず、嫌いな所が沢山あっても、私たちを創られた神が、こんな私たちをも愛して下さっているのですから、自分の掛け替えのなさ、尊さを安心して受け入れたいと思うのです。神は旧約時代の信仰者にこう言われました。イザヤ43章4節「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」と。この御言葉が、今も全ての信仰者に向けられています。何という光栄、何という幸せでしょうか!自分との平和という、この素晴らしい平和も、イエス・キリストへの信仰により、与らせて頂きたいと思います。

 

ある牧師が、クリスマスの朝、書斎で短い眠りに落ちました。そして、イエス様がお生まれにならなかった世界の夢を見たというのです。夢の中で、彼は家中を見回しました。彼の家には、イエス様のご降誕を祝うクリスマス・ツリーや、リースや、キャンドルや、クリスマスの鐘などが賑々しく飾られているはずでしたが、それがどこにも、何一つありませんでした。友人たちが送ってくれた美しいクリスマス・カードも壁一面に飾られているはずでしたが、それが一枚残らず消えていました。彼は、子ども部屋に行ってみました。そこには、サンタクロースのプレゼントを待つ子供たちが、靴下をさげて寝ているはずでした。しかし、靴下もなければ、サンタクロースのプレゼントもありませんでした。

彼は、家の外に出て、町を歩いてみました。町中がすっかりクリスマスのことを忘れてしまったかのように、静まりかえっていました。しかも、どこを探しても、教会もなければ、十字架もないのです。頭が混乱してきた彼は、もっと落ち着いてこの不思議な出来事を考えようと、家に帰り、書斎の椅子に腰掛けました。すると、イエス様に関するあらゆる書物が書斎から消えてなくなっていることに気づいたのでした。

この牧師はついに「キリストは来なかったのだ」ということを認めざるを得ませんでした。そして、悲しいその夢の中で、子どものように泣きじゃくったのです。

 その時、彼はやっとこの恐ろしい夢から目覚めました。彼は家の中を見回しました。部屋の中にはクリスマス・ツリーが賑やかにも、喜ばしく飾り付けられていました。壁一面には、友人たちの祝福の言葉が記された、たくさんのクリスマス・カードが貼り付けてありました。やがて近くの教会から、クリスマスを喜び歌う歌声が、聞こえてきました。牧師は、聖書を手に取りました。そこには、イエス様の御業を伝える福音書があり、使徒の教えがあり、天国への希望に満ちた黙示録がありました。そして、彼の目に次の御言葉が飛び込んできました。

「恐れることはありません。私は、この民全体のための、素晴らしい喜びを知らせに来たのです。 今日ダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:10)

この天使の御告げの中には、どれほど深い喜びと慰めが、語られていることでしょうか。どれほど大きな愛と恵みが語られていることでしょう。そして、今それが自分に与えられているということを悟り、牧師は今までにない大きな、そして深いクリスマスの喜びを味わったのでした。

 

■結 論 

この2章10節の、天使の御告げの中には、深い喜びと慰めが、語られています。 私たちは、イエス・キリストへの信仰によって与えられる、神との平和、人との平和、自分との平和を一層確かなものにし、その平和に立って一つ一つの言葉を誠実に行い、隣人に仕え、キリストによる平和を受け取りましょう。そして、隣人にも粘り強く伝えて行く者でありたいものです。