聖 書  ルカによる福音書 2章1~7節 

 

1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。

2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。

3 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。

4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、

5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。

6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、

7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

 

 

メッセージ 「飼い葉桶の救い主」 滝本 文明 牧師

 

ルカは、神のみ子、イエス・キリスト誕生の時のことを、「宿屋にはイエスを迎え、お入れする場所がなく、家畜小屋で、飼い葉桶の中に寝かされた」と記しています。主なるイエス様は宮殿でも、王侯貴族の館でもなく、庶民の家でもなく、ベツレヘム郊外の汚い家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされました。ヨセフがせっせと藁(わら)を運んで来て、冷たい石で作った飼い葉桶に、

敷いている様子が想像出来ます。ナザレで生まれていれば、もっとましな部屋、もしかしてヨセフの手作りのベッドがあったかも知れません。おそらく生まれたばかりの、赤ちゃんを寝かせることは、誰もしないであろう最低のところで、主なるイエス様は、お生まれになりました。

 

1) 低きに下られた救い主イエス様

今年は西暦2023年、西暦はA.Dと表記します。ラテン語のAnno Dominiの略称です。意味は「主の年」すなわち「キリストの年」です。この西暦を考案したのは、6世紀のディオニュシウス・エクシグウスというローマの神学者でした。紀元前という表記法もあります、B.Cと表記する。Before Christの略称であり、意味は「キリスト以前」です。こちらはラテン語ではなく英語ですが、それは、これが考案されたのは17世紀と遅かったからです。こうしてキリストの誕生を起点に、キリスト以前とキリストの誕生後という世界の歴史が、二分されたわけです。

 

1節に、キリストの誕生は、皇帝アウグストの時代にあったことが、記されています。アウグストは、初代ローマ皇帝でした。彼は当時の記録によると「神」とか「全世界の救い主」と呼ばれ、彼の誕生はグッドニュースであるとまで言われました。このように、ただの人間すぎない者が、神として崇められた時期に、この時期を選んで、まことの神が、まことの人となり、全世界の救い主として来られました。しかも家畜小屋に赤子の姿で、神さまのなさることは、人知を超えています。

 

そのローマ皇帝アウグストから住民登録の勅令が出ました。徴税と徴兵のためでした。この勅令により、支配下にあった人々は、それぞれの戸籍地に向かいました。ガリラヤのナザレに住むヨセフも例外ではなく、マリヤを連れてユダヤのベツレヘムに行きました。百数十㎞の道のりでした。ヨセフとマリヤの予定では、登録を済ませ、再びガリラヤに戻り、住み慣れた場所での出産を考えていたのでしょう。でも、予定とは異なり、ベツレヘムでの出産となりました。しかし、このことこそ、神の救いのご計画でした。救い主は、ベツレヘムで生まれることが、旧約聖書のミカ5章2節で預言されていました。主イエスの誕生は、歴史の只中で起き、神の救いのご計画の実現でした。神さまが私たち人間を愛し、憐れみ、罪から救うための御業でした。

この誕生は、主イエス・キリストの低さが示されています。7節に「宿屋には彼らのいる場所がなかった」とあります。この箇所は、ローマ皇帝アウグストとイエス・キリストが対比されています。皇帝は、人々を権力により動かし、支配しました。一方、イエス・キリストは、みどり子としてこの地に生まれました。住民登録により動かされる者でした。人の手によらなければ、生きていくことが出来ない者として生まれ、生まれた場所は家畜小屋でした。イエス・キリストは最も低く、最も貧しく来られ、私たちの罪の身代わりになられました。「罪」とは、神との関係が、失われていることです。イエス・キリストは、私たちを愛し、いのちを捨て、私たちを罪から救い、愛によって治め救いの光の中を、歩ませて下さるのです。世のものを追い求めても、魂の救いはありません。

しかし、イエス・キリストを受け入れた時、神によって魂が新しく生まれ、神との交わりである永遠のいのちを、いただくことが出来ました。今日も、イエス・キリストは、変わることなく、世の人々の、心の戸をノックしておられます。

 

最後に、ヨセフとマリヤの住民登録は、ヨセフだけですれば十分であったようです。徴税と徴兵のための住民登録でした。でも、ここでヨセフは、マリヤをベツレヘムに連れて行きました。それは、ナザレにおいて、彼らに対する中傷や危険があったからでしょう。彼らのいる場所がなかったのは、ベツレヘムだけではではなく、ナザレもそうだったのでしょう。しかし、その彼らに、イエス・キリストが共におられたのです。私たちも、時に信仰の闘いがあり、また信仰の歩みの虚しさを覚えることがあるかも知れません。神さまにより、今与えられている務めと、場所であることは分かっていますが、見える結果や、報いがなかったりすると、虚しさを覚えたりするかも知れません。 しかし、神様は、私たちにしっかりと、目を留めておられます。自分の願ったように進んでいないように思えることも、神さまのご計画の御手の内にあります。私たちが成すべきことは、その時、その時に、主から委ねられた働きとして、神の言葉に信頼し忠実に担っていくことです。狭い谷の道であるかもしれません。でも、そこに主イエス・キリストはともにおられ、担う力を与え続けて下さいます。

 

ミッションスクールで「敬神愛人」の精神に基づく、元名古屋学院院長の山崎治夫先生が、関西学院でのクリスマス礼拝で、次のような証しをされました。先生は第二次大戦後、シベリヤに抑留され、そこで重労働と空腹に苦しみ、骨と皮ばかりにやせ衰え、極寒の中を夜は、藁(わら)の床に寝なければなりませんでした。あまりの辛さに思わず、ブツブツこぼしていたところ、隣にいた友人が、「君の信じるイエスという人は、飼い葉桶の中で生まれたというではないか。」と言いました。その言葉に先生は思わずハッとして、同時に前身棒で打ちのめされたような、衝撃を受けたというのです。

また、アッシジの聖フランシスコは、クリスマスの夜には、洞窟で家畜と一緒に過ごしたというエピソードもあります。 私達にとって、あまりにも慣れ、安易に口にしている飼い葉桶の主イエス様の誕生に、どれほどの深い意味があるか、考える待降節でありたいものです。

 

■結 論 

結論です。私たちが、キリスト誕生の物語から、汲み取らなければならないポイントは、神の子であり、王の王、主の主である救い主キリストが、低い姿で、この地上に来てくださったという事実です。人間にすぎない、皇帝アウグストが、神のように崇められていた時代に、まことの神であり、まことの世界の救い主が、家畜の居場所に降誕されました。無力な赤子として。それて、飼葉桶から十字架へ。これが私たちを、罪から救うための神のご計画でした。この事実に、私たち人間の高慢は打ち砕かれます、羊飼いや東方の博士たちと共に、心からひれ伏して、救い主を礼拝するするように、み言葉に促されています。今朝、改めて、救い主キリストの謙遜を深く覚えて、御名を崇めたいと思います。