聖 書  ヨハネによる福音書21章1~9節


1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。

2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。

3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。

4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。

5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」

6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。

7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。

8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。

9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。

 

 

 

メッセージ 「天国での宴」 滝本 文明 牧師

 

■イースターおめでとうございます。今日、イエス・キリスト様が、私達の復活の初穂として主が復活されました。罪と死と悪魔に勝利され、死人の中から復活されました。そして、主は今も生きて、私たちと共におられます。全世界の教会が、クリスチャンが、主の御復活をお祝いしています。

 イエス様は、今も生きておられます。イエス・キリストが甦られたからこそ、私達はこうして教会に集まり礼拝し、賛美し伝道しています。イエス様が甦られなかったとしたら、私達の人生はどんなでしょうか。復活がないとしたら、永遠の命(天国で生きる命)がないわけですから、未来もありません。限られた人生、死に向かって生きて行くしかない人生です。人生が死をもって終わりを告げる人生だとしたら、何と空しいことでしょうか。 たとえ地上での生涯が終わりを告げても、復活の朝がある、という希望を持って、明日に向かって生きることが、出来ます。

 

 今日の箇所は、主イエス様が復活され、弟子たちに三度目に、ご自身を現された箇所です。ペテロと他の六人の弟子は、ガリラヤの地に帰っていました。 ペテロの「私は漁に行く」との言葉に、弟子たちは「私たちも一緒に行こう」と出かけ、小舟に乗り込みました。これは、彼らの主イエス様を裏切ってしまったことの傷や失意、またユダヤ人への恐れ、の表れでしょう。私たちは、自らの犯した過去の罪や、失敗による心の傷を、そう簡単に癒すことはできないものです。また、具体的に直面している苦難の中での、恐れや不安はそう簡単には、拭い去ることは、出来なかったと思われます。

 

1)右側に網を打つ

21章1~3節で、 「その後、イエスはテベリヤの湖畔で、また弟子たちにご自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロは、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。」

 自分たちの知り尽くしている、ガリラヤ湖です。どこに行けば、魚がいるかは、だいたいわかります。夜の漁の方が大物が取れます。ところが、自分たちの今までの経験と勘を駆使しても、一匹も捕れませんでした。そして、がっかりして岸に戻ってきました。

 

次の4節に、「すでに夜が明けたころ、イエス様が岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだと分からなかった。イエスが、『子たちよ、何か食べ物があるか』と言われると、彼らは、『ありません』と答えた。イエスは言われた。『船の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。』そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。」とあります。(4~6)この中の「右側」と「網を打つ」という言葉に注目してみたいと思います。

 

※右側に

皆さんの利き腕は、どちらでしょうか。たいていは右手です。つまり、舟の右側と言うのは、私たちの利き手である側に、イエス様をお迎えして、自分の力ではなくイエス様の力、イエス様の権威によって、生き証ししなさいということではないでしょうか。つまり、私達は長い間、信仰生活し、証し伝道していますと、大体の感や経験が働きます。自分の技術や勘でやってしまうことがあります。そうではなく、常に、イエス様を先頭に立てて、イエス様に働いていただき、証し、伝道していただくようにしなさい、ということです。

 

それは、祈りと御言葉による証し伝道です。イエス様の御言葉を先頭にして、祈りつつ証し伝道する時、そこに大漁と言う大きな奇跡の業が、起こると教えてくださっています。主は、「そうすれば、とれるはずだ。」と約束して下さっておられます。これは確かな約束です。祈祷会、役員会、教会案内チラシ配布など、どんな時でも祈って始めます。イエス様が先に立ってくださるように。イエス様が、利き腕になって、力を発揮して下さるように。これが、「右側」の意味です。

 

※.網を打つ

次に、イエス様は「網を打ちなさい」と言いました。ペテロに「人間をとる漁師にしてあげよう」とおっしゃった方は、その漁の仕方を、一本釣りではなく、投網漁でするようにと教えられました。

この福音書の初めのところで、ペトロは網を打っている所をイエス様に見られて、弟子になりました。また、ヤコブとヨハネは、網をつくろっている所を見られて、弟子になりました。彼らとイエス様の出会いの姿からも、証し伝道の働きと役割を、見て取ることができます。ペテロは、湖のあそこがポイントだ、あそこに網を打てば必ず魚が取れる、という漁労長のような役目を果たして、真っ先に行って網を投げ込む役目です。

 

ヤコブとヨハネは、網に入った魚が、網の破れ目から逃げて行かないように、網の破れを補修して岸まで引いて行く役目です。魂のフォローと、人間関係の破れを繕う牧会の働きです。みんなの間に裂け目が生じないように、いつも気を配って網目を見守って行く働きです。

 

イエス様は、ここでは「舟の右側に網を打ちなさい」と言われました。また、ほかのところでは「沖にこぎ出して網を下ろし、漁をしなさい。」(ルカ5:4)とも言われました。その時も大量の魚が入りました。網は、私たちの主にある交わりを指しています。共に祈り、共に語り合い、共に御言葉を学び、共に賛美をすることです。

 

2) 天国での宴

やがて、私達は、この網を水の中に下ろし、向こう岸つまり天国まで行きます。そこで、岸辺(天国)で待っておられるイエス様と、一緒に魚をいただくのです。イエス様は、すでに炭火をたいて待っておられます。そして、イエス様が準備して下さった、魚とパンを囲みながら、私達が捕った魚も交えて、天国での楽しい朝の食事が始まります。「さあ、来て朝の食事をしなさい。」と言ってイエス様と共にいただく復活の朝の宴です。これが天国での宴です。

 

先に召された、愛する兄弟姉妹を思い出します。素晴らしい信仰の友であり、良き交わりを、

させて頂きました。これらの方々と、またお会い出来るのです。聖書は、約束しています。

何と素晴らしい神様の約束でしょうか。私の身代わりとなられた、十字架の主を信じるだけで

天国へのキップがいただけるのです。先に召された、愛する兄弟姉妹と、また手を取り合って

天国での祝宴が、許されるのです。

天地創造された、聖書の神様を信じないのは、罪であり、またもったいないことです。

父なる神様の愛と憐み、イエス様のご愛と、とりなしに感謝して、お従いしましょう。

 

結 論

復活された主が、先に向こう岸に立って(天国で)、私たちを待っておられます。たとえ一匹も捕れなくても、私達に声をかけて、励まし導いていてくださいます。この主のお声に耳を傾けて、み言葉に従います。また日本人の先人も、迫害に耐え、命さえも惜しまず、主に従った信仰の先輩たちによって、私も天地創造の主を、信じるに至ったことを思い、私達も福音を証する日々を送り、先に召された、愛する兄弟姉妹と、また手を取り合い、天国での祝宴を待ち望みつつ、これからも信仰を全うして行きましょう。