聖 書  ルカ19章29~36節 

 

29 オリーブという山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、

30 言われた。「向こうの村に行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて来なさい。

31 もし、『なぜ、ほどくのか』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入用なのです。』」

32 使いに出されたふたりが行って見ると、イエスが話されたとおりであった。

33 彼らがろばの子をほどいていると、その持ち主が、「なぜ、このろばの子をほどくのか」と彼らに言った。

34 弟子たちは、「主がお入用なのです」と言った。

35 そしてふたりは、それをイエスのもとに連れて来た。そして、そのろばの子の上に自分たちの上着を敷いて、イエスをお乗せした。

36 イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた。

 

 

メッセージ 「ロバの子に乗られた主」 滝本 文明 牧師

 

今日のみ言葉でイエス様は、過越祭りの時に、エルサレムに入城されました。イエス様は、ロバの子に乗ってエルサレムに入られたと、ルカの福音書も伝えています。これまで多くの王や将軍たちが軍隊に先導され、軍馬に乗ってエルサレムに入城しました。しかし、イエス様は馬ではなく、ロバの子に乗って入場されています。イエス様が馬ではなく、ロバの子を選ばれた、このことが私たちの人生と、どのように関わってくるのかを、今日のみ言葉から、教えられたいと思います。

 

1)私の罪を背負うためにロバに乗られた主

 ルカはイエス様の、エルサレム入城の模様を、19章28節以降で記しています。エルサレムを目指して、旅を続けて来られた、イエス様一行は、エルサレム郊外のオリーブ山の、ふもとまで進んで来られました。 近くにベテパゲとベタニアの村が見えます。イエスはエルサレム入城にあたってロバの子に乗って入ることを決意されており、二人の弟子に「向こうの村へ行って子ロバを借りて来なさい」と言われました。ベタニアであれば、イエスと親しかったマリアとマルタが住んでいますから、イエスの為にロバの子、を用立ててくれるに違いありません。イエスは弟子たちに注意を与えて、遣わされました。31節、「もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい」と。

弟子たちが村に行くと、ロバの子が、つないでありました。弟子たちは村人に断った上で、子ロバを借り、イエス様の元に連れてきました。イエス様は、そのロバの子に乗られて、エルサレムに入城されます。エルサレムでは、高名な預言者が来るとして、人々が集まって来ました。不思議な力で病を治し、悪霊を追い出されるイエスの評判は都まで伝わっていました。もしかしたら、この人がモーセの預言したメシアかも知れない、人々は期待を込めてイエスを歓迎しました。36節、「イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた」。ヨハネ福音書には、「しゅろの枝ナツメヤシの枝」ともある。これは王を迎える時の慣習です。人々は叫びます38節、「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、栄光はいと高きところに。」

人々はイエス様を「メシア=救い主」として迎え入れたのです。当時のユダヤは、ローマの植民地であり、人々はユダヤをローマから開放してくれる、メシアを求めていました。これまで多くの不思議な業を、行なってきたイエスこそ、そのメシアではないかと、人々は期待したのです。

イエスは、政治的解放者としてのメシアを求める、人々の期待を知っておられました。その期待に応えるには、どのようにしたら良いのか、馬に乗って、威風堂々と入城する方法が普通です。ローマの将軍は、4頭立ての戦車に乗って都に入りました。イエス様が「メシア=王」であられるならば、その方がふさわしいはずです。王は、軍馬に乗って堂々と入城すべきです。しかし、イエスは馬を選ばれず、ロバの子を選んで、エルサレムに入られました。ろばの子は、風采の上がらない、戦いの役に立たない動物です。王にふさわしい乗り物ではありません。しかし、イエス様はあえて、ロバの子を選んで、エルサレムに入場されました。

イエス様が、ロバに乗って入城された背景には、ゼカリヤ書の預言があります。ゼカリヤは預言しました。ゼカリヤ9:9節「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ロバに乗って来る、雌ロバの子であるロバに乗って」、と。

イエス様は、ガリラヤからエルサレム近郊まで、歩いて旅をして来られました。しかし、このたびのエルサレム入城においては、あえてロバを調達され、ロバに乗って、エルサレムに入られました。それは、イエス様が、ゼカリヤ書に象徴されるような、平和のメシアである事を、人々に示されるためでした。「私はメシアであり、あなたがたを救う為に、都に来た。しかし、あなたがたが期待するように軍馬に乗ってではなく、ロバの子に乗って、あなたがたのところに来た」。イエスはこの行為を通して人々に語られます「馬は人を支配し、従わせるための乗り物だ。しかし、私は支配するためではなく、仕えるために来た。ロバは人の重荷を負う。私はあなた方の罪を背負うためにロバに乗って来た」と。

 

ロバは、愚直な動物で、戦いの役に立ちません。しかし、ロバは、柔和で忍耐強く、人間の荷を黙って負います。イエスも重荷を担うために来たと言われます。しかし、人々が求めていたのは、栄光に輝くメシア、軍馬に乗り、大勢の軍勢を従え、自分たちを敵から解放し、幸いをもたらしてくれる強いメシアです。重荷を代わりに負ってくれる、ロバに乗る柔和なメシアではありません。人々は、イエスが自分たちの求めていたメシアではないことがわかると、一転して「イエス様を十字架につけろ」と叫びはじめます。これがイエス様を、受難へと導いて行きます。

 

イエスはエルサレムに入城された時、これから何が起こるかをご存知でした。エルサレムはイエスに敵対する、祭司やパリサイ派たちの本拠地です。ヨハネ福音書によると、祭司長たちとパリサイ派の人々は、既にイエスを殺す計画を立てていました。その人々にイエスは、自身がロバに乗ることを通して、平和を呼びかけられたのです。他方、弟子たちや民衆は熱狂の渦に中にいます。彼らはイエスが、エルサレムにお入りになれば、神の国がすぐにも来ると考えていました。イエス様のようなカリスマ性のある預言者、メシアと評判の高い指導者が呼びかければ、人々が決起して集まり、ローマの軍隊を追放することは出来ると思っていたのです。当時の人々にとって、「神の国」とは、イスラエルが植民地支配から解放されることだったのです。

しかしイエス様は、馬ではなく、ろばに乗って入城されました。軍馬は人間を支配する象徴です。他方、ろばは平和の象徴、柔和な生き物です。柔和とは(ギリシャ語=プラエイス)、人々と争わず、力ずくで物事を進めないことです。主により頼む者は、自らの力に頼りません。全てを主に委ねるとき、そこに憎しみも、報復も生じません。力づくで自分に従わせるやり方では、遅かれ早かれ破綻するでしょう。力づくでない、「柔和な人こそが地を受け継ぐ」のです。イエス様は、エルサレムで死ぬことを通して、人々の罪を、我が身に担おうと、決意しておられたのです。ちょうど、ロバが人々の荷を担うようにです。

 

■結 論 

イエスの気持ちを知り、自分も子ろばのようになりたいと思った人に、榎本保郎牧師がいます。「ちいろば先生」として有名な人です。ちいろば=小さなロバの略称です。彼はその著書『ちいろば』のあとがきで次のように述べています。「ロバの子が、向こうの村につながれていたように、私もまたキリスト教とは無縁の環境に生まれ育った。知性の点でも人柄の点でもキリストに相応しいものではなかった・・・ロバは同じ馬科の動物でも、サラブレッドなどとは桁外れに、愚鈍で見栄えがしない。しかし、その名もないロバの子も、一度主の御用に召されれば、その背にイエスをお乗せする光栄に浴し、おまけに群集の歓呼に迎えられて、エルサレムに入城することが出来た。私のような者も、キリストの僕とされた日から、身に余る光栄にひたされ、不思議に導かれて、現在に至った。あの「ちいろば」が味わったであろう喜びと、感動が私にもひしひしと伝わってくる。その喜びを何とかして、お伝えしたい」。と。

ロバに乗る人生とは、ただ主にのみ依り頼んで、歩いていく人生です。ロバは柔和で忍耐強く、人間の荷を黙って負います。イエス様も私たちの重荷を、何も言わずに負って、くださいました。

ロバのように、忍耐強く、愚痴を言わずに、黙々と他者の荷を負っていく。そのような教会を創りたいと願います。私たちは、いつも自分の正しさを主張し、そうすることによって、絶えず繰り返し不正をなし、不幸を引き起こしています。それを知るゆえに、私たちも馬ではなく、ロバを選択いたしましょう。