聖 書  ルカによる福音書 8章26~31節 

 

26 こうして彼らは、ガリラヤの向こう側のゲラサ人の地方に着いた。

27 イエスが陸に上がられると、この町の者で悪霊につかれている男がイエスに出会った。彼は、長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた。

28 彼はイエスを見ると、叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください。」

29 それは、イエスが、汚れた霊に、この人から出て行け、と命じられたからである。汚れた霊が何回となくこの人を捕らえたので、彼は鎖や足かせでつながれて看視されていたが、それでもそれらを断ち切っては悪霊によって荒野に追いやられていたのである。

30 イエスが、「何という名か」とお尋ねになると、「レギオンです」と答えた。悪霊が大ぜい彼に入っていたからである。

31 悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った。

 

 

メッセージ 「いと高き神の子」 滝本 文明 牧師

 

今日のみ言葉の少し前の22節から25節で、イエス様が、弟子たちと共にガリラヤ湖を渡り、その途中で嵐に遭ったという話があります。あまりにも大きな突風で、舟が沈みそうになり、弟子たちは寝ていたイエス様をたたき起こして助けを求め、イエス様が風と波を叱りつけられた事によって、嵐は静まった話があります。そうやって湖を横断したイエス様は、ゲラサ人という異邦人たちが、住んでいる地域に到着しました。そこでイエス様たちは、悪霊に取りつかれて、墓場に住み着いている人に出会いました。

 弟子たちも含めて、ユダヤ人が行きたがらないゲラサ人の地に、イエス様は、あえて行かれました。その目的はただ一つ。長い間、悪霊にとりつかれている男性を救うためです。実にたった一つの命を救い出すために、嵐の中を舟で向こう岸に渡り、誰も行きたがらない土地に、上陸しされたのでした。

 

1)実在するサタンの力

その人について、ルカは27節で、「長い間、着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた。」と記しています。墓場は、普通は住む場所ではありません。この人は鎖と足かせを断ち切る怪力を持っていたようです。

ここで注目すべきことは、28節からの、汚れた霊たちのイエス様への態度です。

「彼はイエスを見ると、叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。『いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください。』

と言います。 31節「悪霊どもはイエスに底知れぬ所に行け。とはお命じになりませんようにと願った。」とあります。彼らは自分たちを助けてくれるように懇願しました。

 

 悪霊と呼ぶものにも、偽りの霊(Ⅱ歴18章21節)、汚れた霊(マコ5章1節)、病の霊(ルカ13章11節)、占いの霊(使16章16節)、奴隷の霊、惑わす霊、臆病の霊、反キリストの霊…とさまざまな表現がされています。

 30節で、イエス様はこの男性に、「名は何と言うのか。」と聞きました。

「レギオンです。」と悪霊が答えていますが、イエス様は悪霊につかれたこの男性に対して名前を聞いておられます。自らを「レギオン」と名乗りましたが、それは6千によって構成されると言われる、ローマ帝国の軍団です。この男性の中には、軍団と言えるほど多くの悪霊が巣食っていたのです。レギオンとは、ローマ帝国の公用語ラテン語の単語です。軍隊の単位で「軍団」という意味です。イエス様は、裸で、狂ったように叫び、汚くて、誰も気にもかけなかった、この男性に名前を聞いて、個人的な関係を持とうとされたのです。

 

 イエス様は、そもそもこんな所に何をしに、やってこられたのだと思いますか?

ゲラサ人の地に、イエス様がなぜ来られたのか、その理由については、聖書に書かれていません。

でも、この出来事の後、イエス様は、すぐに帰っていってしまわれます。

それを考えてみるとイエス様は、この人と出会い、癒し、解放するためにやってきたのではないかという事が、見えてくるのです。このみじめで、悲しい状況にある、このたった一人の人を救うために、イエス様はわざわざガリラヤ湖を越えて来てくださった。

しかも、嵐に巻き込まれ、舟が沈みそうになりながらも、イエス様は彼を救われたのです。

 悪霊は、実際に目で見ることは出来ませんが、私達の目を、神様より遠ざけようとしている力なのであり実在するものです。

 

2)現実に働くイエス様の力

 

31節の、「底知れぬ所」とは、黙示録に出てくる言葉です。

イエス様が再臨する時、悪霊は底知れぬ所に千年の間、閉じ込めれることになるのです。

その時、全てのクリスチャンがよみがえって、千年の平和な時代が起こります。

そして千年の後、悪魔悪霊たちは再び解放されて、最後の戦いを挑みます。

その戦いに敗れ、彼らは永遠の裁きを受ける事になる、と聖書には書かれているのです。

悪霊は、それを知っているわけです。

イエス様は、この悪霊に名前を聞かれ、悪霊の正体を見極めることから始められました。

 32節で、彼らはあわてて、イエス様の権威に恐れおののき、「悪霊どもは、豚に入ることを許してください、と願った。イエスはそれを許された。」 

33節、主の許しを得て彼らは豚の中に入ります。理解の難しい個所ですが、おそらく悪霊たちが、かなり絶叫したので豚がびっくりして、豚の群れはいきなりがけを駆け下って湖に入り、おぼれ死んだ。と思われます。[豚二千匹(マル5章)]

 

 イエス様は、異教の地ゲラサで、悲惨さの中に自らを置くこの人を憐れまれ、助け主として行動されました。イエス様にとっては、豚よりも人の魂の救いということが、大事だったのです。肉体と共に、人間の魂の価値がある、ということをイエス様は思われ、教えてくださっていることを知ることが出来ます。

 35節「イエス様の足元に、悪霊の去った男が着物を着て、正気に返って座っていました。」

 37節「こんな事は誰も見た事がない。」

見た事がない事が起こると、人々の中には恐怖心が起こるものです。

そして恐怖に取りつかれたゲラサ人たちは、豚の損失という経済的理由と、この恐ろしい力を持ったイエス様と弟子たちに、ここから去るようにと願い出ます。何と残念で、何と愚かな事でしょうか。

38節「そのとき、悪霊を追い出された人が、イエス様にお供をしたい、としきりに願いました」が、イエス様の考えは、彼の願いとは違うものでした。イエス様はこの地に留まって、この地にいる人たちに、イエス様の事を伝えるようにと命じたのです。

39節「家に帰って、神があなたに、どんな大きなことを、してくださったかを、話して聞かせなさい。」と言われ「そこで、彼は出て行って、イエス様が自分に、どんな大きなことを、してくださったかを、町中に言い広めました。」、

 私達が抱える問題に罪があります。罪は、私達にとって様々な弊害をもたらす根源です。

この個所で、イエス様が登場されると、悪霊たちは狼狽します。そしてイエス様を「神の子」と呼んでいます。イエス様はまだ自分を明らかにされないのに、悪霊はイエス様を知っているのです。

彼らは敏感に、イエス様の権威を感じ取っているのです。真実の権威の方の前では、防衛反応が働くのです。

 私達の生活には、どのような力が支配しているでしょうか。神のみ言葉以上に、自分の欲、あるいは、隣人の目、上にある人の言葉、などから価値判断が出来ないことはないでしょうか。イエス様に出会った時、人々は変わり得るのです。その時、私達はイエス様に「去ってください」と言わないで、迎え入れる用意が大切です。私達はもう、イエス様のものとなっているのですから。

 

■結 論 

私達も、このゲラサの狂人のように、罪やサタンの惑わしの力にとらわれて、自分の自我に生き日本の多くの偶像崇拝に関わっていたものでは、ないでしょうか。主にお出会いして初めて、誰に造られ、何のために生き、天の御国に帰るまでの旅路を、生きている者であることを、聖書を通して教えられ作り変えられました。み言葉に従い、証しの人生に生きることが、「邪悪で曲がった時代に生きる人々」を救うことになります。私達は、主にお出会いし人生が180度、変えられました。この最大の恵みを、感謝しつつキリスト者としての歩みを、今週も誇りをもって生きてまいりましょう。