聖 書  創世記6章5~8節 

 

5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

6 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。

7 そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

8 しかし、ノアは、主の心にかなっていた。

 

 

メッセージ 「ノアの箱舟」 滝本 文明 牧師

 

今日のみ言葉、ノアの洪水と箱舟は、良く知られている聖書箇所です。神さまが、人を造られたことを深く後悔し、洪水をもってすべてを滅ぼそうとされたけれども、ノアとその家族だけは好意を得て生き延び、洪水の後、神さまは虹を見せて、もう二度と洪水をもって、人を滅ぼすことをしないと約束されたのでした。

聖書は、神さまが深く心を痛めている様子をこう表現しています。5~6節に、「主は地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」。 11~12節に、「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地をご覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた」

つまり、神さまとの関係を完全に失って「破滅し、暴虐に満ちた世界」は、最初に創造された時の「喜び」や「平和の秩序」を失い、神さまはそのことを深く悲しまれて、人を創造したことを後悔されたのでした。

 

1)洪水に備えたノア

私たちは、まだ起こっていない、再臨も、御国の完成も、見えなくとも心から信じ、期待して歩む者です。 晴天の日に洪水に備えた、ノアの信仰に目を向けましょう。

創世記1章31節では、創造された一切をご覧になった神様が「それは非常に良かった」とおっしゃいました。ところが、罪が入って以来、時代とともに、この世界はどんどん悪くなってしまったのです。

5~7節、『主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は言われた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜や這うもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを悔やむ。」「地上に人を造ったことを悔み、心を痛められた」とあります。』神様はすべてご存知ですから、厳密には神様に「後悔」ということはないでしょう。

神様の悲しみや、残念に思うお心を、私たち人間がよく理解できるように、人間の感性に寄せて表現してくださった技法であると言えます。人を造ったことを悔やみ、心を痛められたというのは、私たちには、とても分かりやすい言葉です。

 

愛を込めて造ったからこそ、望まない悪い方に向かってしまった姿を、誰よりも胸を痛めて見つめておられる主のお姿です。他の個所でも、甘いぶどうを期待したのに、酸いぶどうが出来てしまったとの表現があります。

そして主は、7節を読むと、一度この世界を白紙に戻すかのように、「地の面から消し去ろう」とおっしゃっています。まさにこの洪水の時のように、本来私たちは「地の面から消し去られても仕方ないような罪人であった」との受け止めも出来ます。

しかし、「見捨てられても仕方ない私たち」の代わりに、主イエス様が見捨てられました。

 ノアとその息子たちは、自分たちの信仰で世界を、新しくすることは出来ませんでした。この破滅と暴虐に満ちた世界を、新たにすることが出来るのは、十字架の主イエス・キリストの慈しみと執り成しの祈りであり、私たちが立つことが出来るのは、この十字架の主のもとであることを心に刻みたいのです

 さて、それほどに罪が蔓延していた世界において、ノアの存在は神様にとって嬉しいものであったことでしょう。8節によれば、ノアは「主の心にかなっていた」からです。

もちろん、カンペキだったわけではありません。彼も一人の罪人です。ただ、その中でも神様を信じて、悔い改めながら、そのみ言葉に従って生きていたということです。

6章22節で「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。」続く7章5節でもこうあります。 「ノアは、すべて主が彼に命じられたとおりにした。」 

 

私たちも誤解しないで、受け止めたいのです。「主のみ心にかなう歩み」とは、罪を一つも犯さない歩みではありません。罪や弱さを抱えながらも、ノアのように主のお言葉に、従っていく歩みであるということです。主を求め続ける歩みです。

 

箱舟の構造のことについて、おもしろい話があります。

人類の文明とともに造船技術が発達していきましたが、20世紀になって人類は石油の輸送のために、巨大で荷物をたくさん積載することができる船を発明する必要ができました。

そんな中で発明されたのが、石油タンカーです。おもしろいのは、石油タンカーの縦横長さの比率です。石油タンカーは、巨大な船として機能し、しかも最大の積載量を運ぶことができるものとして作られる必要があったのですが、その時参考にされたのが、ノアの箱舟の比率です。

30:5:3という比率が、水の上に浮かび、方向転換も問題なくすることができ、丈夫であり、しかも最大の制裁量を運ぶことができる最高の比率であることが、20世紀になって証明されたのです。

これは、それ以前の船とは、まったく違う構造であり、比率でした。これまでの船は、操作性と木造船としての強度などを考えると、違う形でなければうまく浮かばなかったのです。

ところが、20世紀になって鉄の船を浮かばせようと考えられたとき、箱舟の比率が最適だということがわかったのです。何千年も前に聖書に書かれていた船のサイズが、現代の技術によって正しいことが証明されたのです。

 まさに、わからない中でも信じたノアは、知らない内に最も沈みにくい船を造っていたことになります。主は全知全能だということの証明の一つです!

 ここに信仰のモデルがあります。何のしるしもないのに、主のおことばを信じて、大きな舟を作ったという信仰です。 

 

さて、ノアが造るように命じられた箱舟がどのようなものであったかについて、15節以降に記されてあります。その長さは300キュビト、幅は50キュビト、高さは30キュビトです。1キュビトはだいたい44㎝ですから、長さ132㍍、幅22㍍、高さ13㍍となります。近代の船でいえば1万5千トンぐらいの船に相当する大きな船であっただろうと考えられています。

 それを信じて、晴天の日々に備えをしたということが、彼の信仰の現れでありました。雨がずっと降り続けて来て、これはもしかしたら・・・と思える状況なら、従いやすかったかも知れません。

 でも、まだ、雨が降らないときに、神様のことばを信じて従ったのです。

とても純粋な信仰です。

ヘブル書の11章7節は彼の信仰をこう語ります。

「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神から警告を受けたときに、恐れかしこんで家族の救いのために箱舟を造り、その信仰によって世を罪ありとし、信仰による義を受け継ぐ者となりました。」 

「まだ見ていない事柄について」ということばが印象的です。既に起こったことはもちろん、まだ起こって、いないことでも、主がお語りになることなら、信じるのが信仰です。

 

 私たちもここに立って、行きたいと思うのです。「福音の種をまく」という働きは、とても地味で忍耐深い作業です。それでも、この種蒔きのだいご味は、やがてそこから、芽が出て実りをもたらすと信じて、種を蒔き続けることです。

それを実際に見ていなくても、主がそうなさるに違いないと信じて、期待に胸を膨らませながら蒔くのです。信仰者は「種蒔き」さえも、将来の実りを信仰の目で、見るかのようにしてさせていただけるのです。そして、主はその実りを、全部ではないけれども、時折見せてくださるのです。10年たって、20年たって、その実りを何かしらの形で、見ることができるのは幸いです。

主は真実な方なので、私たちの働きを決して無駄にはなさらないのです。ですから、今はまだ見えなくても、信じて期待して主に従い続けることです。

 

■結 論 

ノアとその家族が、主のお言葉を信じて箱舟を用意して救われたように、御子を信じる者は、その十字架、また十字架の教会(という箱舟)によって、救い出していただけるのです。

この信仰は、まだ見ぬキリストの再臨に対しても、非常に有益な信仰となることを、聖書は教えています。

マタイ24章37-39節にノアの出来事が語られます。 

「人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。」

「洪水前の日々にはノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。」

「洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分かりませんでした。人の子の到来もそのように実現するのです。」

 私達が信じないで、まだ大丈夫と、タカをくくっている者たちに、主イエス様のこの言葉は刺さります。主は必ず再臨されます。その日は間違いなく、近づいています。だから、信じて今なすべきことを忠実に行い、主の言葉に今週もお従いしていきましょう。