聖書 ルカによる福音書4章1〜4節

 

1 さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、

2 四十日間、悪魔の試みに会われた。その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。

3 そこで、悪魔はイエスに言った。「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」

4 イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある。」

 

 

メッセージ 「荒野の誘惑」 滝本 文明 牧師

 

■今日、与えられた聖書箇所は、ルカ4章「荒野の誘惑」です。イエス様はヨルダン川でバプテスマを受けられましたが、その時、天からの声を聞かれました「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」(3:22)。この時、イエス様はご自分が神の子として、使命を与えられて世に遣わされたことを自覚され、「神の子として何をすべきか」を模索するために、荒野に行かれます。ルカはそのことを「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」(新共同訳4:1)と記述します。神の霊がイエスを荒野に追い込んだ、神によってこの試練が与えられたとルカは書いています。

 

 

1) サタンの隠された魂胆

「悪魔」について「辞典」をみると、「神仏の教えを邪魔し、人を悪に誘う魔物」、インドの民間信仰では「天上の世界において、人間にわざわいを与える霊」、『カトリック教会の教え』では、「天使は神の意志を人に伝えたり実行したりする神の使者、悪魔は罪によって神に逆らうようになった天使」と記されています。

「誘惑する者」の第一の誘惑は、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」という誘いでした。メシアとして御国実現のために、奇跡をもって食に困らないようにせよ、という誘惑です。

サタンはイエスのことを、「…正体は分かっている。神の聖者だ」(マコ1章24節)と知っています。ですから、イエスが石をパンにする能力があることも知っています。サタンは、イエスは神ではないと言っているのではありません。サタンの隠された魂胆は、イエスを「父なる神から独立した神」にすること、すなわち父なる神から孤立させ離すことです。

サタンの誘惑が始まりました。最初は石をパンにすることでした。これは、食料や経済問題でなく、「だれが神か」の根本的な大問題です。

 

そこでサタンは、「イエスよ、お前が自分だけで(父に関係なく)命を造れ」と言ったのです。イエスの命は、「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいる」(ヨハ17章21節)と言われたように、何をするにも単独ではなく、父の御心の中にいることが彼の命でした。御子イエスは、父から離れては何一つなさいませんでした。

皆さん、サタンの誘惑を見破ってください。サタンは、あなたの生まれ持った性質や欲求を否定するのでなく、むしろ大いに肯定します。ただし、神になど頼らなくても、自分の命と力量で願いどおりに生きなさい、とそそのかします。それこそ、神からあなたを離す巧妙な手口です。主イエスにだけ、「つながり・とどまり」(ヨハネ15章1~10)続けてください。

「人はパンだけで生きるものではない」、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」

土の塵(自然生命)で造られた人には、「パン=食料」が必要です。そして、命の息(神の霊)を吹き入れられて生きる人には「神の言葉・霊のパン」が必要です(創2章7節)。自然生命と霊の命との間には、少なからずギャップがあるようにも見えますが、しかしそれは矛盾でもギャップでもありません。この世と神では、人生の問題を解決する方向が逆です。世は、「環境→制度→健康→心→豊かな命(幸せ)」と進みます。神は、「霊(神の命)→心(知性・感情・意志)→体→隣人(家族・友人知人)→制度・環境」と進みます。したがって、言葉を豊かに持つことが最優先課題です。神の言葉は、「絶対の義・絶対の愛・永遠」ですから、その基準で心→体→隣人へと神の命が流れていきます。その言葉が、「言(イエス)」を与えてくださるからです。

 ※キリスト教が日本に伝えられた時、海外から来た宣教師たちはライ病や結核にかかった病人が路傍に捨てられ、子どもたちは十分な教育を受けられない現実を見て心を痛め、本国からの資金援助で、各地に病院や学校を建てました。それから150年、キリスト教系の病院、たとえば聖路加病院(聖公会)や東京衛生病院(アドベンチスト)等は、良心的治療で、高い評価を得ています。多くのミッションスクールが立てられ、白百合や聖心、立教や青山等のミッションスクールは、今日でも熱心な教育をしてくれる学校として人気があります。150年間、多くの人たちがキリスト教系病院で治療を受け、キリスト教系学校で教育されましたが、ほとんどの人たちはクリスチャンになりませんでした。教育や医療、すなわちパンが与えられても、人々はそれをもらうだけで、与えて下さる神のことは考えなかったのです。ですからイエスは言われました「人はパンだけで生きるのではない」。パンは人を救いに導かないのです。

 

2)神様と取引している私達

次に悪魔は誘います「あなたが私にひれ伏すならば、この世の支配権をあげよう」。悪魔はささやきます「人々はローマの植民地支配に苦しんでいる。あなたが立ってローマからユダヤを解放すれば、神の国ができるではないか」。それに対してイエスは答えられました「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」。キリスト教はその誕生以来、迫害に苦しんで来て、多くの殉教者が出ました。その迫害を経て、4世紀にキリスト教はローマの国教になりますが、教会が支配者側に立った途端、堕落が始まります。迫害の300年間、教会は「剣を取るものは剣で滅ぶ」というイエスの教えを守り、信徒が兵士になることを禁じてきました。しかし、教会が体制側に立つと、教会の教えは変わり、「政府は神により立てられ、全てのキリスト者は政府に従うべきで、国家の秩序を守るためであれば戦争も許される」と教え始めます。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」(マルコ12:17)、「敵を愛せ」(マタイ5:44)という聖書の教えに反する行為です。教会が地上の権力と手を結んだ瞬間から、福音が曲がって行きます。神の国はこの世にはないのです。

 

第三の誘惑は神殿の屋根から飛び降りてみよとの誘いでした。「おまえが神の子であれば、神が守ってくださる。この屋根から飛び降りて、神の子であるしるしを見せれば、多くのものが信じるだろう。そうすれば神の国を作れるではないか」とのささやきです。それに対してイエスは言われました「あなたの神である主を試してはならない」。人々は繰り返し、しるしを求めました。十字架のイエスに対しても人々は言います「神の子なら自分を救え。十字架から降りて来い」(マタイ27:40)。現代の私たちもしるしを求めます。「私の病気を癒してください」、「私を苦しみから救ってください」、「私を幸福にしてください」。この後には次のような言葉が続きます「そうすれば信じましょう」。私たちは信仰さえも取引の材料にしているのです。

 

荒野の試みの記事は、多くのことを私たちに考えさせる箇所です。三つの誘惑には共通項があります。いずれも与えられた力を使って、地上に神の国を作れとの誘いです。貧しい人もパンを食べることのできる社会を作ろうという運動は、歴史上繰り返し現れて来ました。共産主義者は社会の不正構造が人々の口からパンを奪っていると考え、権力を倒し、理想社会を作ろうとしましたが、出来上がった社会は怪物のような全体主義国家でした。フランス革命も貧しい人々が立ちあがった運動でしたが、結果は血で血を洗う権力闘争に終ってしまいました。神の国はこの世にはない、あるいは人の努力では来ないのです。「人はパンだけで生きるのではなく、神によって生かされていること」を知らない限り、人間は争い続け、平和は与えられないことを、この教えは語ります。

 

 イエス様の時代、人々がメシアに求めていたのは、ローマからの独立を勝ち取り、ダビデ・ソロモンの栄光を回復する指導者でした。紀元70年エルサレムは破壊され、国は滅びました。この戦争に、生まれたばかりの教会は参加せず、エルサレムを脱出しました。「この世の支配権をあげよう」という悪魔の誘惑に従った人々は、国を滅ぼしてしまったのです。

 人々はイエスに繰り返し、しるしを求めました。十字架にかけられたイエスに対して人々は言います「神の子なら自分を救え。そして十字架から降りて来い」(ルカ23:35)。イエスは拒否され、十字架上で死なれ、その場を逃げた弟子たちは、やがて復活のイエスに出会い、従う者とされていきます。人は、しるしを見て変えられるのではなく、神が自分たちを愛され、そのための十字架であったことを知る時に、変えられていきます。現代の私たちもしるしを求めます「私の病気を癒して下さい」、「私を苦しみから救って下さい」、「私を幸福にして下さい」。そして言います「そうすれば信じましょう」。その時、私たちは神と取引しているのです。

 

■結 論 

私たちは生きていくうえで、様々な試練を受けます。これまでも多くの試練を受けていたことと思います。イエス様も悪魔から試練や誘惑を受けらました。イエス様の受けた試練が、神の栄光に至る試練であることを思えば、私たち人間が受ける試練も、天に宝を積むためのものであり、悲しむのではなく、むしろ喜びだと思いたいのです。特に、甘い誘惑は、それが本当に神様の意図しておられることなのかを、じっくり考え、祈りをもって選択して行きましょう。