聖 書  ヨハネ13章1~9節

 

1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

2 夕食の間のことであった、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、

3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、

4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。

5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。

6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」

7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」

8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」

9 シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」

 

 

メッセージ 「最後の晩餐」 滝本 文明 牧師

 

■本日の聖書箇所は、最後の晩餐の場面です。「最後の晩餐」というと、レオナルド・ダ・ビンチが描いた聖画のおかげで、クリスチャンでない方々もよくご存知の場面です。ただ、ダ・ビンチが描いたように椅子に座っての食事ではなく、当時は肘をついて横になりながらの食事が一般的だったようで、雰囲気はまったく違っていたと思われます。

 それに、足洗の場面は、ローマカトリック教会ではローマ法王が毎年洗足の儀式をすることになっていて、以前、法王が誰の足を洗うかがニュースになりました。ちなみにイタリアの刑務所で服役中の人々の足を、法王は洗われたそうです。

 イエス様の時代、人々はスニーカーや革靴などは、履いていませんでした。サンダルのような履物だったと考えられます。道も現代の都会のように舗装されていません。埃っぽい道をサンダルのようなもので歩くので、足は大変汚れていたと考えられます。その足を洗うのは奴隷の仕事でした。それも外国人の奴隷に限られた仕事でした。もっとも下賤な仕事とみなされていたのです。

 

1)弟子たちの足を洗われた主

1節で「過越の祭りの前に」とヨハネは記しています。しかし他の3福音書では、最後の晩餐は過越の食事だとされています。つまりイエス様と弟子たちは一日早く、独自の立場で過越の食事をされたことになります。そして翌日に、イエス様は十字架に架けられました。この最後の晩餐が「過越の食事である」ということが重要なことです。

過越の祭りとは、イスラエルがエジプトで奴隷として仕えていた時代に、神様がモーセを指導者として立てられ、十の災害を持って、イスラエルをエジプトから救い出されました。その時の最後の災害は「すべての家の初子、家畜の初子はさばかれて死ぬ。」というものでした。しかし、家のかもいと門柱に、子羊の血を塗るなら、神のさばきはその家を過ぎ越し、その家の中にいる初子は救われました。イスラエルの全家族は、主が命じられたとおり子羊の血を塗りました。しかしエジプトの人々は、血を塗らなかったので、神のさばきによって彼らの初子はすべて息絶え、エジプト全土で、泣き叫ぶ声が上がりました。そしてこの神のさばきを通して、イスラエルはエジプトから救い出されました。これを記念し、お祝いするのが過越の祭りです。

 

 イエス・キリストが、十字架に架けられ死なれるのは、「過越の祭り」の時であることが父なる神様の御計画でした。それは過越が神様のさばきの時であり、同時に救いの時だからです。人々が救われるために、必要なのは子羊の血でした。子羊がほふられなければならないのです。イエス・キリストは、そのほふられる子羊となって血を流し、その血によって私たちは、神のさばきから救われるのです。つまり、過越の祭りは初めからイエス・キリストの十字架を、示していたのです。

 子羊がほふられたのは、過越の食事の前でした。人々は子羊の血を、かもいと門柱に塗らなければなりませんでした。イエス・キリストが、十字架に架けられ殺されたのは、過越の祭りが始まる前でした。イエス・キリストは、過越のための、ほふられる子羊となられたのです。

4節、「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。」

5節、「それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。」

6節 、こうして、イエス様はシモン・ペテロのところに来られた。ペテロは、イエス様に言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」

7節、イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」

8節、 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」

9節、 シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」

 

 ヨハネは、イエス様が「この世を去って、父のみもとに行くべき自分の時が来た、ことを知られたので、世にいる自分の者を愛され主は、その愛を残るところなく示された。」と1節で記しました。イエス様は立ち上がり、上着を脱いで手拭いを腰にまとわれ、そして弟子たち一人一人の足を洗われました。それは当時では召使いがする仕事でした。この最後の晩餐の席には、召使いが誰もいなかったのでしょう。そのため、皆の足は汚れたままでした。それで主は立ち上がって、12弟子の足を、洗い始められたのです。

 ペテロはイエス様に、足を洗ってもらうことなんて、もったいないという思いから「決して私の足をお洗いにならないでください。」と頼みます。それは純粋なペテロの言葉でしょう。しかし、主は「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」と語られました。ペテロはそれだったら「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」と頼みます。その時、イエス様は彼に言われました。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。」

 カトリック教会、聖公会などでは、洗足式を礼典として行っています。しかしイエス様が命じられた内容をよく読むと、「足を洗い合う」ことに、焦点が置かれてはいません。ルカによる福音書22章24節では、最後の晩餐の時に弟子たちの間で「この中で誰が一番偉いだろうか」という論議が起こった、ことが書いてあります。そのような弟子たちの、さもしい心を知られたイエス様が、召使いがする仕事であった、足洗いを自ら進んで行われたのです。つまり、「足を洗い合いなさい」ではなく「仕え合いなさい」ということが、ここでのイエス様が意図されたことです。現代では足を人に洗ってもらう習慣はありませんし、足を洗い合うことが、仕え合うことになるとは考えられません。かえって足を洗ってもらうことは恥ずかしく、嫌な思いを持つ方もおられるでしょう。そのため「足を洗い合うこと」は、現代では「互いに仕え合う」になります。

 

 イエス様が、弟子たちの足を洗われた本当の目的は、弟子たちにご自分の愛を示すことでした。

15節で、「 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」と言われました。

 20節、「 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を、受け入れるのです。」

 

イエス様の願いは、私たちがイエス様の愛を受けて、私たちも互いに愛し合い、仕え合うことです。主であり、師であるお方がへりくだり、仕える者となって模範を示してくださったのですから、その弟子である私たちも、同じように仕え合うのです。そして互いに仕え合うなら、そのことによって、あなたがたは祝福されるのだと、イエス様が約束されています。

 

 <雪のように白く>

 私たちは、罪のこの世界を生きていきます。どのように汚れないように気をつけても、私たちの足は汚れます。スニーカーを履いても、立派な革の靴を履いても、私たちの生身の足は泥にまみれるのです。生きていくことは、罪の泥にまみれることとも言えます。しかし、なおその汚れを洗ってくださる方がおられます。

詩篇51篇は、罪の悔い改めの詩篇として名高いものです。「神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。/深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。/わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください」で始まります。「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください。/わたしが清くなるように./わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。」このような言葉もこの詩篇にはあります。わたしたちは、深い憐れみによって罪をぬぐってください、罪から清めてください、という言葉には心を合わせらます。しかし、雪よりも白くなるように洗ってくださいというのは、なにか大げさな詩的な誇張のように聞いてしまうかもしれません。私たちの汚れた罪の心が、この世を歩んで汚れた足が雪のように、白くなるなんてことは実は、心からは思っていないかもしれません。真黒な罪が洗われても、私たちはそれが真っ白ではなく、グレーくらいのものにように感じるかもしれません。しかし、たしかに主イエスが身をかがめ奴隷として、私たちに仕えてくださるゆえに、私たちは雪のように白くなるのです。一点の汚れのない者として、父なる神の前に立つことができるのです。主イエスが洗ってくださったからです。

 

■結 論 

イエス様は、世にいる自分の者を、最後まで愛されました。最後の最後まで、その極みまで、とことん愛されました。夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとわれ、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗い、腰にまとっておられた手ぬぐいで拭かれました。決して手ぬぐいを、投げたりされませんでした。 手ぬぐいを投げるというのは、働きを放棄することを意味します。ですから、ボクシングの試合で、もうこれ以上は戦えないという時には、セコンドからタオルが投げ込まれるのです。しかし、イエス様は決して、タオルを投げませんでした。最後の最後まで、とことん愛してくださいました。私たちは、このイエスの愛を知りました。だから、私たちも互いに、愛し合うことが出来るのです。たとえ、相手の足が臭くても、たとえ、顔をそむけたくなるような足でも、互いにその足を、洗わなければならないのです。イエス様が、弟子たちの足を洗われたのは、私たちもするようにと、私たちに模範を示すため、だったのです。私たちもイエス様によって足を洗っていただきましょう。そして、互いに足を洗い合い(仕え合い)ましょう。そのようにして、キリストの弟子としての、歩みを全うしていきたいと願います。