ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』人物事典76（57人目）
～ドミートリー・カラマーゾフ（公判後）～
【ドミートリー一覧】
人物事典66～ドミートリー・カラマーゾフ（1日目17時半） ～
人物事典67～ドミートリー・カラマーゾフ（2日目10時～） ～
人物事典68～ドミートリー・カラマーゾフ（3日目19時半） ～
人物事典70～ドミートリー・カラマーゾフ（3日目の深夜～） ～
有罪確定後
ドミートリー：「おれは脱走する」
神経性の熱病で入院している。スメルジャコフが以前入っていた個室に収容されている。ドミートリーは、カテリーナに会いたがっている。裁判以降、おそろしく考え込むようになった。グルーシェニカが訪ねると、顔中がたちまち喜びに輝いた。やって来たアリョーシャが、二三日のうちにカテリーナが来ることを伝え、「脱走にかんして、兄さんの良心をぜひとも安心させてやってほしい」と頼まれたと告げた。「おれはまだ腹が決まっていない！ 受け入れられない！ 賛歌を歌いたかったのに、番兵のきさま呼ばわりが耐えられない！」と言う。グルーシェニカと一緒なら耐えられるが、グルーシェニカは向こうへ行かせてもらえない。アリョーシャは静かにほほえみ、「兄さんは無実なんですし、そんな十字架、いくらなんでも重すぎます」「兄さんは苦しみを受けることで、もうひとり別の人間を自分のなかによみがえらせようとしたんです」「これでもうすべて検討できたみたいですね」と言う。ドミートリーは、「おれは脱走する。これはおまえに言われずとも決まったことだ。」と元気いっぱいに決断し、「そうですね」とアリョーシャは静かに笑った。その後、アメリカでの生活について語り、いずれロシアに戻ってくるつもりだとも言った。「それにしても、裁判ではまんまとはめられたよな？」「別にはめられなくても、どっちみち兄さんは有罪になりましたよ」。
ドミートリー：「許してくれたのかい、それとも？」
そこへカテリーナが現れる。ドミートリーは、はじかれたように立ち上がり、哀願するような笑みを浮かべて、両手を差し出した。カテリーナは勢いよく彼に駆け寄り、両手をつかみ、隣に腰を下ろした。奇妙な笑みを浮かべながら、二分ほど過ぎた。「許してくれたのかい、それとも？」「わたし、あなたを好きだったのは、あなたが心の広い人だからよ！」「それに、わたしの許しなんて、あなたには必要ない、わたしこそ、あなたの許しが必要なんだもの。でも、許してくれてもくれなくても同じことよね。一生わたしの心にあなたのことが傷として残るもの、そして、あなたの心にはわたしのことが……そうじゃなくちゃ嘘よ」。
――わたし、なんのために来たのかしら？ あなたの両足にキスをするためなの。手を握るためなの、ほらこうして痛いくらい強く。覚えてるかしら、モスクワにいたころ、こんなふうに手を握り締めていたわね……それと、もういちどあなたに言いたかったの、あなたはわたしの神であり、わたしの喜びです、とね、気がくるうほどあなたのことが好きって、言いたかったの。
そう言って、むさぼるように唇を彼の手に押し当て、目から涙をほとばしらせた。
――愛は終わったのよ、ミーチャ。
――でも、終わったことがわたしには痛いくらいに大事なの。そのこと、永久に忘れないでね。でも今からほんの一分のあいだだけ、そうなったかもしれないことをしましょうよ。
――あなたもいま、別の人を愛しているし、私も別の人を愛している、でも、やっぱり、あなたのことを永久に愛しつづけるし、あなたもそうよ。そのこと、知ってました？ わたしを愛してね、死ぬまでずっと愛してね
――愛し続けるよ、それに……いいかい、カーチャ、そう五日前のあの晩、ぼくはきみを愛していた……君が倒れたとき、君が運び出されたとき……死ぬまで！ そのままさ、永久にそのままなんだよ……
こうして二人は、狂おしい、ことによると真実とはかけはなれた言葉を交わし合っていたが、この瞬間にはすべてが真実であり、ともかくひたむきに自分の言葉を信じていた。「カーチャ、おれが殺しったって信じているのかい？ いまではもう、信じてないことはわかっている……でもあのとき……あの証言をおこなったとき……ほんとうに信じていたんだよね、ほんとうに」「あのときも信じていなかったわ。いちども信じたことがなかった！ あなたが憎らしくて、ふいにそう信じ込ませてしまったの、そう、あの瞬間、証言していたときは……そう信じ込もうとしていたし、信じていた……でも、証言が終わったとき、すぐにまた信じられなくなった。そのところを何もかもわかってほしいの。そう忘れていたわ。わたしがここに来たのは、自分を罰するためなの！」。それまでの愛のささやきがまるで嘘のようだった。「きみもつらいんだな、女だし！」「帰らせて、また来るわ、いまはつらくて！……」と立ち上がりかけたとき、偶然グルーシェニカが入って来た。
ドミートリー：「許す気がないんだ！」
すれ違いざま、「わたしを許してください！」と言うカテリーナ。グルーシェニカは、じっとカテリーナの顔を見つめ、憎悪をにじませた毒々しい声で、「ふざけないで、わたしとあんたは憎み合ってる仲だよ！ 意地の悪さはおたがいさまさ！ あんたもわたしも、どうして許せるっていうんだい！ この人を助けてやるんだね、そしたら一生、あんたのために拝んでやるから！」。ドミートリーは「許す気がないんだ！」と非難をこめて叫んだ。カテリーナは、「安心なさい、あなたのために助けてやるから！」と言って、部屋から駆け出した。グルーシェニカは、「口先だけじゃないの、傲慢な女ね。本心から言ってないわ」と言い放ち、「あんたを逃がしてくれたら……なんだって許してやるわよ」。アリョーシャは、ドミートリーに言われて、カテリーナのあとを追った。この脱走計画が実現するかどうかは、物語の中では描かれていない。【エピローグ：2 一瞬、嘘が真実になった】