ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』人物事典71(57人目)

 

~ドミートリー・カラマーゾフ(モークロエ)~

 

【ドミートリー一覧】

 

人物事典64~ドミートリー・カラマーゾフ(序)~

人物事典65~ドミートリー・カラマーゾフ(1日目12時)~

人物事典66~ドミートリー・カラマーゾフ(1日目17時半) ~

人物事典67~ドミートリー・カラマーゾフ(2日目10時~) ~

人物事典68~ドミートリー・カラマーゾフ(3日目19時半) ~

人物事典69~ドミートリー・カラマーゾフ(3日目夜~)~

人物事典70~ドミートリー・カラマーゾフ(3日目の深夜~) ~

人物事典71~ドミートリー・カラマーゾフ(モークロエ)~

人物事典72~ドミートリー・カラマーゾフ(逮捕)~

人物事典73~ドミートリー・カラマーゾフ(予審)~

人物事典74~ドミートリー・カラマーゾフ(逮捕後)~

人物事典75~ドミートリー・カラマーゾフ(公判)~

人物事典76~ドミートリー・カラマーゾフ(公判後)~

 

 

 3日目深夜~(モークロエ)

 ドミートリー:「最後の一日、最後の一時間をこの同じ部屋ですごしたかったんです」

 モークロエに到着して、グルーシェニカの居場所を突きとめたドミートリーは、大股でつかつかとテーブルのそばまで歩み寄り、「みなさん、ぼくは……ぼくは、だいじょうぶです! 怖がらないでください」と叫んだ。そして、グルーシェニカの方を振り返り、小さなポーランド人に、「朝までおつきあいさせていただけませんか? 朝までです。この世の見納めに、同じ部屋で?」と言った。男は拒否したが、カルガーノフはドミートリーを歓迎し、「うわっ、すごい握手だ! 指が折れちゃう!」と笑い出した。グルーシェニカも、「ほんとうにそうなの、いつもそんなふうに強い握手なの、いつもそう!」と愉快そうに口をはさんだ。

 ドミートリーは、小柄なポーランド人(グルーシェニカのフィアンセ・まぎれもない昔の男)に、ふたたび「最後の一日、最後の一時間をこの同じ部屋ですごしたかったんです‥‥…ここでぼくはあこがれたことがあるんです……ぼくの女王様にです!……お許しください、そこの方」と叫んだ。そして、「のみましょう、あなた、すばらしい酒を!」「ぼくは音楽がほしいんです、大騒ぎがしたいんです」と言った。

 グルーシェニカが、「驚かさないんだったら、喜んであんたを受け入れてあげる」と言うと、「ぼくが驚かすですって? かまわずに行ってください、横を通ってください、じゃまはしませんから!……」と、椅子の背もたれをかき抱くように泣き崩れた。グルーシェニカが「なんだって泣いたりしてるのよ?」といらだたしそうに言うと、「ぼくは泣いてなんかいませんよ……」とくるりと向き直り、神経質そうで震えるような笑顔を見せた。「さあ、元気出して、陽気にやるの!」「あんたが来てくれてほんとうにうれしいんだから、ミーチャ、聞いてる?」「もしこの人が出ていくなら、わたしも出ていくわ、よくって!」と言うと、ポーランド人もドミートリーを受け入れた。シャンパンをカルガーノフが注ぐと、乾杯も忘れて、ひとりで飲み干してしまった。

 

――彼の顔つきが一変した。部屋に入って来たときの、おごそかで悲劇的な表情とはうってかわり、どこか子どもじみた表情が現れた。彼は急におとなしくなり、卑屈な感じになっていった。みんなをおずおずとうれしそうに見つめ、ひんぱんに神経質な笑い声を立てていたが、それはちょうど悪さをした子犬がふたたび頭をなでられ、もういちど部屋に通してもらえたのを、ありがたがっているような顔つきだった。

 

 ドミートリー:「アンドレイにウオッカをな、アンドレイにウォッカだぞ!」

 マクシーモフが「銀行ゲームでも、してみてはいかがでございましょう」と卑屈な笑いをもらした。ドミートリーが相槌をうつが、ソファーのポーランド人は「もう遅いじゃないですか、みなさん!」と乗り気ではない様子を見せる。グルーシェニカは「このひとたち、なんだって遅いのよ、なんだっていけないのよ!」と悲鳴に近い声で叫んだ。

 銀行ゲームを始める前に、ポーランド人が、「カードは宿の主人のものがいい」と言うので、トリフォーンに持ってこさせた。トリフォーンが、村の娘たちが集まっていることなども、ついでに知らせたので、ドミートリーは指図をするために飛び出していったが、まだ三人しか来ていなかった(マリアもまだだった)。「そう、アンドレイにウォッカをな、アンドレイにウォッカだぞ!」と思い出したように言った。マクシーモフが追いかけてきて、「五ルーブル貸してください。わたしも思い切って銀行ゲームで賭けてみたいもので、へっへっ!」と言うので、十ルーブル渡した。

 ゲームが始まると、「倍賭け!」で次々に賭けて行ったが、ことごとく負けて、一ルーブルずつ賭けているマクシーモフが勝ち続けた。カルガーノフが、「これ以上は勝負させません!」と叫んだので、あっけにとられていると、グルーシェニカも「この人、ことほんとうの言ってるかもしれないわ」と言う。イカサマをしていると言われて、ひどく侮辱されたと感じた小さなポーランド人は、「冗談でしょう、あなた?」とにらんだ。背の高い方(ヴルブレフスキー)も、「よくまあ、そんなことができますね、あなた!」とどなった。グルーシェニカは、「やめてちょうだい、どなるのはやめて! まるで七面鳥じゃないの!」。

 

 ドミートリー:「三千ルーブル欲しければ、これをもって、どこぞへと消えてくれ」

 グルーシェニカの顔を見ていたドミートリーに、一瞬、「なにかまったく新しい考え」が浮かんで、小柄なポーランド人に近づき、肩をポンと叩き、「ちょっといい話がありますんで」と、となりの寝室へと誘った。

 小柄なポーランド人は、ヴルブレフスキーと一緒ならという条件で応じた。ドミートリーは、「では、みなさん、出発!」と、寝室へ向かった。そして、「つまり、こういうことさ、手短に言うぞ。ほらここに金がある。三千ルーブル欲しければ、これをもって、どこぞへと消えてくれ」。「それで、金は、あなた?」と問うポーランド人に、手付金として五百をすぐに渡す、明日二千五百を町で渡す、「これは名誉にかけて誓う、地面をほじくり返してでも手に入れる!」と叫ぶ。相手の顔が険悪になるので、あせって手付金の額をつりあげるが、「ひとこと言うたびに意気喪失していった」。小柄なポーランド人に自尊心が戻り、「恥知らずめ!」と唾を吐いた。

 すべてが無に帰したとさとったドミートリーは、「そうか、あんたが唾を吐いたのは、グルーシェニカからなら、もっと巻き上げられるって考えてるからだな」と言い放った。小柄なポーランド人は「エビのように真っ赤になり」、グルーシェニカのところへ行き、「アグリッピナさん、ひどい侮辱を受けました」と、大声で叫んだ。グルーシェニカは、彼らが金目当てで自分のところへ来たのだと理解し、「ああ、ばかだった、わたしがばかだった」と、両手で顔をおおった。ちょうどそのとき、隣室ではモークロエの娘たちの合唱が始まった。ヴルブレフスキーが「まるでソドムだ!」「主人、あの恥知らずどもを追っ払ってくれ!」と吼えるように叫ぶ。

 

 ドミートリー:「大先生、あちらにいらしたらどうです?」

 宿の主人トリフォーンは、喧嘩が始まったのだろうと、すぐに部屋に姿を現し、無礼な口調で「おまえさん、なにをそう吼えてるんだい?」と言った。「豚どもめ!」とどなるヴルブレフスキーに、「豚どもだと? じゃあ言うが、あんたはさっきどういうカードを使った? おれが出したカード、あんた、どっかに隠しただろう! あんた、インチキのカードを使ったんだ! そのインチキなカードを訴えようと思えば、あんたなんかシベリア送りにできるんだぞ」と、ソファの背もたれとクッションの間から、まだ封を切られていないカードを取り出した。カルガーノフも、「ぼくもこの目で見ていたんです、こっちの人が、二度もいかさまやるのを」と叫び、グルーシェニカも、「ああ、恥ずかしい、なんとはずかしい! ああ、なんて男に成り下がってしまたんだろう!」と叫んだ。逆上したヴルブレフスキーが、グルーシェニカに拳を突き付けて、「売春婦のくせして!」と言い終わらないうちに、ドミートリーがとびかかり、隣の部屋に連れ出し、「あそこで床に叩きつけてやりました!」と、興奮で息をきらしながら報告した。そして、小柄なポーランド人に向かって、「大先生、あちらにいらしたらどうです?」と叫んだ。

 トリフォーンは、「ドミートリーの旦那、やつらから金を取り戻したらどうです」と声を張り上げる。カルガーノフは、「さっきの五十ルーブル、ぼくは返してもらうつもりはありません」と口をはさみ、ドミートリーも「おれもだ、さっきの二百、いるもんか!」と叫んだ。グルーシェニカも、「それがいいわ、ミーチャ! 立派よ、ミーチャ!」と叫んだ。小柄なポーランド人は、怒りで顔をむらさき色にしながら、少しも威厳を失わずに、ドアに向かいかけたが、「いいかい、もしもわたしについてくる気があるなら、いっしょに行こう、そうでないならこれでお別れだ!」ともったいぶって、ドアの向こうに姿を消した。彼はまだ、相手が自分についてくるという希望を失わずにいた。自分を買いかぶっていた。ドミートリーは、ドアをバタンと閉めた。カルガーノフは、鍵をかけて閉じ込めてしまいましょうと言った(すると、向こうから鍵のかかる音がして、彼らは自分から閉じこもった)。「それでいいのよ! そうなる運命だったんだから!」と叫んだ。【⇒第8編:ミーチャ7 まぎれもない昔の男】

 

 ドミートリー:「君のしあわせをだめにしたくなかったんだ」

 どんちゃん騒ぎが始まった。ドミートリーは夢心地に「自分の幸せ」を予感していた。そして、「まるで水を得た魚のように、すべてがばかげた様相を呈すれば呈するほど、ますます元気が出てきた」。しばらくして、グルーシェニカは、ドミートリーの手をつかみ、「どうしてわたしをあの男に譲ろうなんて気を起こしたの、え? ほんとうに譲る気だったの?」と問う。うっとりした気分にひたりながら、ドミートリーは「君のしあわせをだめにしたくなかったんだ!」と答えた。

 しばらくして再びグルーシェニカに呼ばれ、「どうしたの、へんな顔をしたりして?」「病人をひとり置いてきぼりにしてきてしまってね。その病人が元気になってくれるなら、元気になるとわかったら、自分の十年分の命を今すぐにでも分けてやるんだが!」「あんたは明日、ほんとうにピストル自殺する気だったの、バカな人ね。わたしって、あんたみたいに無鉄砲な人が大好き」「だめ、たのしまなくちゃ、わたし、たのしいんだから、あんたも楽しんでちょうだい」というやり取りがあった。

 

 ドミートリー:「もしピストル自殺するなら、いましかない!」

 マクシーモフの踊りを見て、みんなと別れたあと、二階の木造回廊のすみにたたずんでいたドミートリーは、とつぜん頭を抱えた。「もしピストル自殺するなら、いましかない!」「ピストルを取りに行かなくちゃ。ここにピストルをもってきて、このいちばん汚らしい、暗い隅で自殺するんだ」。一分近く、腹をきめかねてたたずんでいた。ここに駆けつけたとき、恥辱だけがあった。しかし、今は「彼女がだれを愛しているのかは、目を見ればわかる。そう、いまや、生きてさえすればいい……なのに、生きていくわけにはいかない」。ドミートリーは、「グリゴーリーを生き返らせてください!」と、神に祈った。一条の希望の光が輝いたような気がして、彼女のもとへ再び向かった。「たとえ恥辱の苦しみにまみれていようと、彼女の愛の一時間、いや一分は、残りすべての人生に値しないだろうか」。

 部屋に戻る途中、トリフォーンとばったり出くわす。面食らったような不思議な表情をしていたので、何があったのだろうと不安になった。部屋に戻ると、グルーシェニカが、声を押し殺しながら、はげしく泣きじゃくり、ドミートリーを手招きした。グルーシェニカはドミートリーへの愛を告白し、飛び起きて両手でドミートリーの肩をつかんだ。ドミートリーは嬉しさのあまり口がきけず、しばらく彼女を見つめていたが、ふいに彼女をきつくだきしめ、はげしくキスを浴びせ始めた。「わたしの話なんて聞くことないのよ! キスして、もっとつよく、そう、そんなふうに。愛するといったらどこまでも愛するの! いまからあんたの奴隷になる! 奴隷になれるのがうれしいの!……キスして! わたしを打って、わたしを苦しめて、思いどおりにして」と叫び、グルーシェニカは、コップのシャンパンをあおる。

 

――どうとでもなれ、何がどうなってもかまうもんか……この一瞬のためなら世界ぜんぶだってくれてやる