春の色が増してきた。

そんな思いを強く感じる2月10日の朝は、まるで春のようである。


 春節である。いわゆる旧の正月、または大陰暦の正月、そして中国の正月だ。その春節のニュースがであふれている。中国系のニュースの筆頭は、政治的なニュースを押しのけて、瀑買い関係のニュースが多い。昨今の日本の観光ブームの中でも際立っている。


 中国政府には瀑買い禁止令なるものも検討されているらしいが、今のところは多くの中国人観光客が日本の休日を楽しみ、日本製品の購入を喜びとしている。


 なぜ、中国がそんなに豊かになり、なぜ日本の製品がそんなに人気があるのかは、簡単な経済指標や繊細緻密な日本のものづくりの技術から導き出される簡単な論理と言うことになる。


 中国の経済的豊かさを象徴しているかのような瀑買いだが、その瀑買いを楽しむ中国の人々はごく限られた人々で、巨大な中国の一部の富裕層だろう。13億人ともいわれる中国の人口から考えて、数パーセントの富裕層の日本観光だと、単純に言い表すこともできるだろう。


 中国の経済は急ブレークがかかり、驚異的な経済発展のつけが中国の目下の国内政治の課題でもあるらしいけれど、そんなこととは関係なく、日本観光で富を表現する中国の富裕層のエネルギーに圧倒されそうなニュースが多い近年の日本観光ブームだ。


 「瀑買い禁止令」には驚くが、そんなことが現実の起きることはないだろう。その目的は、当然中国人が押し上げる日本経済への懸念だろう。日米同盟が中国の海洋進出を阻む最大の要因であるから、日本経済を押し上げることは、中国人が中国の海洋進出を阻む要素を与えていると考えるからだ。



 重箱の隅をつつくようなというか、風が吹いたら桶屋が儲かるなどの、思考法から導き出された法律が国民を縛ることになるのは、古今東西の権力者が考えることのようだ。


それにしても中国の春節は華やかだ。


 日本の正月は静かで華やかさも秘められているような感じであるが、中国の春節は派手で華やかすぎるとさえ思える。


 伝統が生きる派手さの中に経済的豊かさの色合いも加味されるから、尚更、私たちには驚異的な華やかさと映るのだろう。驚異的な華やかさの中に中華思想が強調されるから、外国人には少々不自然さも感じるのも事実だ。伝統の中に中華思想を表現するものなら、春節は中華思想の塊と言うことにもなるが、そんな考えも日本人的と言うか、外国人である私たちのもつ安易な中国観かもしれない。


 その伝統的な中国文化を遥かな故郷とする日本人の私たちには、ある程度理解できる中国の春節だが、漢字文化圏以外の国の人には、少々理解しがたいかも知れないなどの考えも、現在では間違いだろうか。

 その昔から、世界至るところに中華街があると言っても過言ではない。また、近年の経済大国となった中国の世界戦略は華々しく、世界の隅々に中華資本が注入される現実の前に、中国的文化への理解度も増し、中国最大の行事である春節への理解度も世界的になっていると単純に考えるが、でも、単純に中華思想が世界に受け入れれることもないだろうと相矛盾することも考える。


妙な中国への敵愾心だはないし、敵対心でもない、

でも、自由を圧迫する中国的な考えへ抵抗もあることは否めない。


 瀑買いは歓迎だが、その瀑買いの観光客に合わせて様々なものが変わるのには違和感がある。一時

的なブームとして受け止めるのがいいだろうと、誰でも思うことを強調したい。


日本も経験した驚異的な経済成長だ。

ジャパン・アズ・ナンバーワンが高らかに鳴り響いたこともあった。


 日本の観光客の瀑外的な金の使い方も世界から注目され、マナーの悪さへの顰蹙も世界的な時期もあったと聞くから、現在の中国人観光客の瀑買いもマナーの悪さも、特別のことではないと、有り触れたことを強調する。



 余計なお世話だが、何時までも続くわけでのない瀑買いへの期待で何かを変えてほしくない。中国人観光客の瀑買いの時期が過ぎて、その観光客が別の日本に抱く何かが彼らを惹きつけると、いよいよ日本は観光大国になるのだろうと、評論家的に、少々偉そうに言ってみたい。



 それにしても、中国人観光客の集団に出会ったら、その声の大きさや無遠慮が会話に驚く。文化的な相違を受け入れるの始まりとはいえ、何となく畏怖心も抱くこともある。山の中で時々会う単身の中国人観光客は実に静かであるが、観光バスから降りた時の中国人観光客の群れに飲み込まれた時は、恐怖を感じるのも確かだ。


 それでも、瀑買いは歓迎だ。中国の春節は続いているから、まだまだ、日本製品の売れ行きは増す。中国人観光客の瀑買いで、潤うのは悪いことではない。
 

 いよいよアメリカの大統領選挙が始まった。始まったと言っても候補者選びが始まったわけだが、長いアメリカの大統領選挙はここがスタートラインである。スタートラインとなるここはアイオワ州だ。注目度のないアイオワ州が4年に一度注目されるのが大統領選挙の始まる時であるから、アイオワ州にとっては、4年に一度のお祭りとなる。
 


 振り返ると8年前のオバマ大統領誕生のステップはまさにアイオワであった。逆説的に言えば本命視されたヒラリー・クリントンがしくじったのはアイオワであった。何かが起こりそうな大統領選挙のスタートライン・アイオワである。民主党と共和党の大統領候補者選びが始まるわけだが、民主党は圧倒的な支持率のヒラリークリントンが、8年越しの挑戦で、間違いなく大統領候補になり、そして、間違いなく大統領になると思われたが、アイオワの風は簡単に大統領候補者を決めさせない。
 


 奇跡的ななどの表現は適当ではないが、奇跡的な追い上げの候補者がヒラリークリントンを脅かす。その人は、74歳のバーニー・サンダース上院議員。74歳で社会主義者と主張して大統領候補に名乗りを上げ、そして、若者たちを惹きつけ支持を拡大した。スター的な響きのあるバーニー・サンダースの名前だが、無名に等しい存在であったと報道から探るる人物像からも、アメリカの大統領候補としては異色としか言いようがない。社会主義者の大統領候補である。自由の旗手アメリカ合衆国の大統領が社会主義者でも問題があるわけではないと思うが、社会主義と共産主義と同一の思想というイメージがあり、共産主義者と同一のイメージもあり、その目指す国が旧ソ連や中国を連想させるかもしれないの思いがあるから、異色の候補者ということになる。


 さて、強いアメリカを目指す共和党も異色の候補者が掻き回す感じだ。掻き回すと言う表現は適切ではないが、トランプ現象と言われるトランプ旋風を起こす歯に衣木瀬ないとかでは表現できない無思慮な発言が、アメリカの一部の人間の代弁者的となり、多くの賛同者から持ち上げられる。一時的な現象とタカをくくっていたアメリカ社会は、トランプ現象に違和感も示したが、でも、一部の人の代弁者が、多くの人の代弁者的になり、支持率は上昇気流に乗るかのようだ。


 本格的な選挙戦の始まりは、民主党バーニー・サンダースと、共和党ドナルド・トランプの異色候補に注目が集まる。アイオワの風はある意味気まぐれな風である。世界で最も影響力の権力者を選ぶ自由の国アメリカの自由度が発揮させる風が吹く。結果的には民主党はヒラリー・クリントンだと私は予想するが、共和党はとんと予想がつかない。まさか、ドナルド・トランプが候補者になるとは思わないが、現在の勢いではあり得ないことではない。長い、長い、大統領選挙だから、何が起きるか分からないとはいえ、アイオワの結果は重要な意味を持つ。それがアメリカの大統領選挙だ。


「私ども日本人が決して忘れてはならないこと」


天皇陛下のフィリピンでの言葉であり、旅立つ前の羽田空港での言葉だ。


「私ども日本人が決して忘れてはならないこと」


その、単純な言葉に限りない意味が含まれているのだろう。




天皇皇后両陛下のフィリッピン訪問には特別の感慨を抱く人は多いだろう。

両陛下の慰霊の旅は戦争の惨禍を忘れてなならないと教える。

あの戦争の残したものはあまりにも多く、

70年たった今でも、多くのことが残っていることを、

私たち日本人に、今一度振り返って見よと教えるかのようだ。



 フィリッピンは太平洋戦争で、最も多くの犠牲者を出した国だと言っても過言ではないだろう。日本人の戦死者が五十万人以上で、フィリッピンの人々はその倍以上の犠牲者を出した。天皇陛下が出発前に、そして、フィリッピンでも言われた無辜の市民が、無差別に殺された戦場がフィリッピンだった。

 終戦当時のフィリッピンの人々の日本への感情は、それは赦し難く、憎しみが重なりあった特別の反日感情だったに違いない。その反日感情を消し、最も親日的な国に変えたのは、キリスト教の赦しの教えであると言ってもいいと思うが、でも、その赦しの教えも、目の前で肉親が殺され、多くの同胞を殺される殺戮の現場を見た人間の心から憎しみの感情を消すことは不可能に近いだろう。


 また、自分も殺されるかもしれない思いが、多くの無辜の市民と言われる人々の心に残っていた。限りない憎しみがあったはずの人々が、反日の感情を捨て親日国に変わるには、一人の大統領の特別の思い大きな力になった。


 自らも最愛の家族を、妻と三人の子供たちを殺されたキリノ大統領は、多くの日本人戦争犯罪者、いわゆるBC級戦犯を恩赦で釈放(解放)した。


 1953年7月のことで、60年前のことである。


 

 妻と三人の子供が日本兵によって殺された大統領が、日本人戦争犯罪者に与えた恩赦は、特別の意味を持つだろう。妻と三人の子供たちを殺された大統領によって、赦しの教えが実践された時、キリスト教徒である多くのフィリッピンの人々に赦しの尊さが示された。


 議会の承認を得るために議会にかければ、反対されるに決まっているから、議会承認の必要ない特赦で多くの日本人戦犯を解放したのだ。多くの政治的な駆け引きや、日本からの除名嘆願などもあったというが、それでも、多くの戦犯への恩赦は特別の意味がある。



 「日本人が決して忘れてはならないこと」


 天皇陛下の言葉の中の忘れてはならないことに、戦犯を恩赦で釈放(解放)した、

キリノ大統領のこともあるような気もする。



さて、さて、突然、


 「あゝモンテンルパの夜は更けて」の歌があったことを思い出す。



 モンテンルパは刑務所があった土地だ。

 


日本人戦犯は、

フィリピンBC級戦犯裁判で死刑や有期刑を宣告され、

モンテンルパ刑務所に服役していた。

100人超の戦犯に1953年7月に恩赦令を出したのは、

繰り返して言うがキリノ大統領だ。



さて、キリノ大統領は、
共和国独立後副大統領となる。
ロハス大統領が急死し大統領に就任する。
そして、49年の大統領選で当選した。

51年9月、キリノ政権は対日講和条約に調印するも、議会の反対で批准ならず。
そんな政治情勢の中での恩赦には特別の意味があったと何度でも強調したい



天皇皇后両陛下のフィリピン訪問には多く歴史がついて回るような気がする。
フィリッピンの国家的寛容はキリスト教国のそれであり、親日へと舵を切った人々はキリスト教徒の赦しの教えの実践者であると、フィリッピンの人々を称えたい思いだ。その赦しの教えが、天皇皇后両陛下をフィリッピンへと導いたと思いたい。赦しの心から生まれた日本とフィリッピンの関係は、神が仲介した特別のものとして永遠の平和への礎になってほしいと願う天皇皇后両陛下の思いが、


「日本人が決して忘れてはならない」

と言う言葉になったのだろうと思う。



 天皇制を否定もしないが肯定もしない人間の天皇への思いは、慰霊の旅を重ねる象徴としての人間天皇の心の豊かさを称えるものである。戦争法案と悪評の安全保障関連法裁決時の、あり得ない国会模様、集団的自衛権行使容認の憲法違反的な独裁制への戒めでもあるかのような気もするが、政治に口を出せない天皇陛下の思いとも考える。戦後築き上げた平和を守るために、多くの犠牲者を出した激戦地への慰問の旅を続けていると解釈する。そのたびに終わりはないと思われるが、老いと共に歩む旅は厳しさも増す。



 何はともあれ、日本人への、日本国への、平和の尊さを教える天皇皇后両陛下の慰霊の旅を称えたい。



 そして、キリスト教国フィリッピンの赦しの教えから生まれた日本への限りない友好を忘れまいと誓う、平和ボケの日本人である。



政権の中枢を担う重要閣僚の政治資金木瀬法違反とも思える不祥事の発覚で、政治と金の汚染国家日本の現実が突き付けられ、株安などの暗い日本社会の中で、際立つような新鮮さのニュースが、米国からのプラネット・ナインの発見のニュースだ。


発見とは言えないが発見だというニュースである。



発見されたのはプラネット・ナインだ。


謎の惑星というべきか。



 太陽系の最外縁部にある地球の十倍の重さの巨大惑星がを発見されたという。いや、巨大惑星というより巨大惑星を含む惑星群が発見されたという。いや、巨大惑星群の可能性があるという発表があったという。天文音痴には、可能性だけなら発見でも何でもないではないか、そんなに世界的なニュースになることはないのでは、などと御託を並べるが、それは違うようだ。可能性は存在の証明の第一歩で、単なる可能性ではなく、存在がほとんど証明されたような可能性らしい。そんな説明で納得できるほどの知的要素を持ち合わせてない当方には、なお、分からなくなるが、兎にも角にも、新惑星群の存在の可能性があると言うだけはわかる。



カリフォルニア工科大学の研究チームが発表では、

「プラネット・ナイン」と呼ばれる惑星の大きさは、地球の約10倍、冥王星の約5000倍だ。太陽系外縁部を非常に細長い軌道で巡っている。太陽一周は1万~2万年かかるらしい。もちろん地球は一年で一周するのだ。



さて、そこで天文音痴の発想自由な人間は愚かな発想である。太陽一周が一年だから、もしこのプラネット・ナインに人類と等しき生命体がいると仮定すると、つまり人間がいると仮定すると、その寿命は何年になるのかと考える。つまり何歳まで生きることが可能かと考える、日本人女性の平均寿命八十歳を超えているから、それに、その、1万倍から2万倍の長い一生となるのだと感心する。単純にそんな計算が成り立つわけなどないが、でも、可能性がないとは言えないだけに、謎の天体への関心は高くなる天文音痴である。もし、プラネット・ナイン自分の分身的な生き物が生存していたらとも考える。神は地球上だけに自分をつくったのではなく違う星、つまりプラネット・ナインにも自分の分身的な生命体と置いたとしたら、いや完全に自分のコピー的な人間を置いたとしたら・・・と妄想が広がるが、そんなことは火星でも、他の惑星でも同じだけに、自分を天体の中にはめ込む考えは、訳がわからなくなる。


さて、太陽の周りを違った周期で回る太陽系惑星は、最初の頃は、水星・金星・地球・火星・木星・土星の6つです。

いや、天文学の黎明期の昔は、太陽も惑星と考え、太陽、水星、金星、地球、火星、木星、土星であり、地球の衛星である月も、そして木星の衛星も含まれていた。つまり、まだ惑星の概念が成立しない時代は、太陽も地球の衛星の月も木星の衛星も惑星と考えられたのだ。



 天文学の進歩が惑星の概念を変えた。そして、新たな惑星として天王星、海王星が発見されが、その間に、多くの小惑星も発見された。そして、謎の惑星の存在の可能性も予想された。そして、冥王星が発見され9惑星となった。でも、後に冥王星が惑星ではないと判定され惑星は8となった。それでも、謎の惑星の存在は否定されることはなく、天文学者たちの捜索は続いていたのだ。



 宇宙は謎に満ちている。一年が地球の1万年~2万年の長さになる星で、のんびり暮らしたいものである。

 テロの起源は人類の歴史と共にあるかも知れないが、現在頻発するテロの起源はニューヨーク同時多発テロだろう。そして、アメリカブッシュ大統領のテロ撲滅のための戦争が、多くのテロ組織を生み出したと言っても過言ではない。イスラム教国の中東からアフリカ、アジアへと拡大するテロの恐怖。地球全体がテロの恐怖の中にあると言っても過言ではない。


 インドネシアで起きたテロは最大のイスラム国で起きたテロというよりは、アジアの国で起きたテロとして私たちに迫ってくる。先進国首脳会議の開催地では、想像を絶する警備態勢が敷かれるはずだ、日本国内の国際線空港はもとより、港もテロの水際警備の対象となるだろう。私たちの身近で、私たちの日常の中にテロの恐怖が入り込んでくることも当然ありそうで、頻発するイスラム教国のテロは対岸の火事ではなくなった。



 また、アフリカでテロが起き多くの人が巻き添えになった、恥ずかしいが、国の名前さえ知らないアフリカの国でのテロだ。その国はブルキナファソという。


 西アフリカの国で、マリと国境を接する国だという。そのブルキナファソの首都ワガドゥグでテロが起きたのは、昨日15日の夜で日本時間は今日の早朝だ。高級ホテルが襲われた、20人以上が殺害され、テロリストたちは、なお、人質を取ってホテルに立て籠もっていると報じられる。

そしていつも通りの犯行声明だ。

「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ」だという。



 テロを競う組織が幾つあるかさえわからないが、それはそれは、私たちの想像をはるかに超える数だろう。小さな集団は無数とは言わないが、多いだろう。存在感を示すためのテロこそが、まず最初の目的であり、イスラム教の教えなど関係ないはずだ。イスラム教国の犯罪グループの隠れ蓑になっているような気もする。それでも、自爆テロであるから、それなりの覚悟は必要で、宗教的と幻想を抱く反宗教的なものが行動原理となってテロリストたちを動かすのだろう。反宗教的なものを表現できないが、戦前の日本の神風特攻隊的な行動原理に違いないと思うが、似て非なるものかも知れない。



 さて、「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ」はその名が示す通り、アルカイダ系ららしい。アルカイダはアフガニスタンの山岳地帯にその根を持つ、アメリカのブッシュの戦争の標的だった。未だにその影響力が残るから、イスラム国(IS)と覇権争いをしているのかも知れないと持ったりする。拡大するテロの恐怖は、テロ集団の複雑な絡み合いでさらに増し拡大するのだろう。


 ブルキナファソも独裁政権から民主政権への移行ができなかったアラブの春の失敗例のような国らしい。2014年独裁者コンパオレ前大統領が反政府デモで退陣した。
 ブルキナファソと国境を接する国マリの首都バマコでテロがあったのは記憶に新しい。宿泊客ら約20人が犠牲になったマリのテロもアルカイダ系だったと記憶するが、アルカイダ系のテロリスト集団は多いのだろう。
 
 私が名前さ知らないブルキナファソはマリ同様に旧フランスの植民地だった。ブルキナファソはマリとその他の5か国、合計6か国の中にある内陸の国である。1960年の独立宣言。それ以降は度重なる軍事クーデターが繰り返された。1991年以降、コンパオレ大統領の独裁が続いていたが。2014年11月辞任した。

 外務省のホームページ(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/burkina/data.html#section1 )によると、伝統的宗教57%、イスラム教31%、キリスト教12%で、イスラム教国ではない。フランスの旧植民地だから、キリスト教徒も多いわけで、イスラム教国ではない。



 何はともあれ、世界はテロの恐怖の中にある。日本もその恐怖からは逃れられない。テロのなくするためのさらなるテロである戦争が始まり、軍事大国の最も安易な作戦である空爆が連日連夜行われても、テロ集団を減らすことすらできない。テロをより巨大なテロである戦争で消滅させることは不可能だろう。テロリストの潜む世界を完全に消滅させない限り不可能だろう。なら、無駄な戦争ではなく、別の道を探るしかない。その道は・・・?。現在のところ神のみぞ知るであるが、その一歩は夢のある世界への歩みだろう。
 

 

12日の国会論戦。

白熱した論戦とか、

逼迫した国会風景とか、

年熱気を孕んだ論争とか、

そんなことはつゆも思わないが、

面白い質疑応答が繰り返されるのは間違い。



常にブチ切れ状態を作り出す安倍首相だが、

今日は特別にブチ切れた感じだった。

そして、「私は嘘をついていない。嘘をついているなら辞めます。」

と言ったから、ブチけれも限界感がある。



国会議員を辞める。それとも、首相を辞めると言ったのかと、
改めに記憶をたどる。



 衆議院予算委員会の質疑応答は白熱した・・・ものだったが、

しかし、国家の何かと関係する白熱ではなく、

弁舌さえる安倍首相の一人舞台的な白熱であり、

得意のブチ切れをたまたま見せる安倍首相の一人舞台的な国会だ。



安倍首相がむきになることは常であるが、今日は特別だと思った。それもそのはず、注目の本蓮池透著「拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々」が持ち出されたのから、ある意味仕方ないともいえるが、安倍首相のこれまでが否定されるかのような本への怒りは特別のものがあるのだろう。「拉致を使ってのし上がった男」と言われるのだから、ある意味皮肉も込めて同情すると言いたい。


安倍首相は、まだ読んでいないという。だから、質問者に対しても、いちいちコメントするつもりないとい

う。

 

家族会が一枚岩ではないと示唆し、一致団結の言葉をこれ見よがしに言う。

一致団結して、一致結束して、すべての被害者を奪還するために全力を尽くしていくと言う。


「安倍首相は拉致を使ってのし上がった男でしょうか」と、不躾な質問に、
「議論をする気すら起こりません。そういう質問をすること自体が政治利用している」とむきになる。

「被害者を取り戻すことが政治の責任」
「政治家の困難な仕事には常に批判が伴う」



質問者は、


「2002年、小泉総理の訪朝で、5人が戻ってきた。北朝鮮に戻す約束だった。当時官房副長官だった安倍首相は『私は職を賭しても日本に残すべきだと判断し、小泉総理の了解を取り、5人の被害者は日本にとどまった』とフェイスブックに書いている。でも、蓮池透さんの著書には、そうは書いてないと。


さて、安倍首相は、私は嘘をついていないという。多くの証人の名前を上げる。官房副長官室に集まって最終判断をした人たちの名前だ。



安倍首相は、

「大切なことは今そんなことを言い合っているときじゃないんですよ。5人の被害者を、8人の死亡したといわれている人たち、そしてすべての被害者を取り戻すことではないか。常にですね、あの5人の被害者を日本に残すときもそうだった。国論を二分しようという策謀は常にある。こんなものにひっかかっていてはだめ。そうではなくてしっかりと私たちは団結をしなければいけない。あなたがこういう質問をすること自体が私は本当に残念に思います」


 「蓮池さんは嘘を言っているのか」と質問が続く。


安倍首相は、

 「私は誰かを落とすことは言いたくない、私の言っていることが違っていたら、私は辞めますよ。国会議員を辞めますよ」と、今までにないブチ切れ状態だ。



 さて、国会議員を辞めるとは、首相もやめるということだが、その嘘とか嘘ではないとかが明確になるのは、何時なのかわからないが、首相退陣後なら国会議員を辞めるで、その前だったら首相を辞めるということなのだろう。誰がうそを言っているかよりも、進展品拉致問題へのいら立ちが国民にはあるのだ。


さて、安倍首相が完全なブチ切れ状態は続く。


「本の引用だけで、独自の取材を全くせずに、私の名誉を傷つけようとしている。極めて私は不愉快ですよ。こんなことをやっていて、私は何の意味があるんですか。20年前、私たちが一生懸命拉致問題をやっていたときにあなたは何をやっていたのですか」


この辺は安倍首相に分がある。仰る通りだ。


そして、


「あなたが批判することが北朝鮮の思うつぼ」

「常にマスコミを二分し、国論を二分するのがこの問題の歴史」



訊く方も答える方も、

質問者も答弁者も、

国会の威厳を損なうとしか思えないが、

国会無視の政治手法をとり続ける安倍首相のむきになる答弁が、

お叱りを承知で言うなら、面白いのである。


この問題へ、さっそく蓮池透さんが、

私は嘘をついていないとコメントしている。


8日の朝7時ごろ、三重県菰野町の中学校で男子生徒が意識不明で倒れていた。搬送されて病院で死亡した。自殺ではないかと思われる状況だが、まだ原因は分からない。



8日の昼前、大阪の繁華街で女子高生の飛び降り自殺があった。心斎橋筋商店街でのことだという。制服姿の女子高生の自殺体には、特別な悲しみを感じる。活動的て清らかな制服が死に結びつくことはないからだ。すべてのエネルギーが未来へと向かって突き進む高校生の死は痛まし過ぎる。



ただ、漠然と生きてきたような、ただ、のうのうと流されてきたような人生の自分が、長々と生きていることが罪と考えたくなる子供たちの自殺であり、少年少女の自殺である。逆説的に考えると、人生なんてただ生きているだけで第一次の目的は果たせるのだから、兎に角、生きるしかないと考えることだと思う。




二つの事件に共通するものはないが、少年少女不可解な死として迫ってくるものがある。子供たちの自殺や不可解な死は、大人社会の責任であり、原因は大人社会が作り出したのだと、大人の一人は考えるが、自分たちがその原因を突き止めることも、その対策を考えることも出来ないから、情けない思いと同時に、口惜しさ、寂しさ、空しさにとらわれる。



日本は自殺大国だ。ジャパン・アズ・ナンバーワンと賞賛され、経済大国として世界も羨む豊かさを謳歌していたバブル崩壊前も、夢から覚めたように豊かさが色あせたバブル崩壊後も、日本は自殺大国であった。バブル崩壊後に年間3万人を超す自殺者を数えた。そして、世紀と跨ぎ、11年連続で3万人を超えたが、2012年から3万人を切り減少を始めた。減少しているとはいえ、まだ、まだ、自殺大国には違いない。



何度も書いてきたが、2~3万人と言えば、私たちの住む地方都市の人口が消えてしまう。それだけの数になる、深刻な問題のはずだが、私たちは現実的な問題として、身近な問題として、自分たちの問題としては考えない。いわゆる対岸の火としか考えいない。



そんな自殺問題を真剣に考え、対策を考える専門家や慈善団体やNPOやボランティアの活動さえも対岸の出来事である。国も自殺防止に関する法律をつくったりはしているが、そんな法律で自殺がなくなるわけもない。少なくなったにしろ一時的なものだろう。法律で繊細な人間の精神作用を制御、また左右することは出来ないと、私は悲観的にしかとらえない。自殺の原因が経済的なものが多くても、それでもと、法律で解決できる問題ではないだろうと考えると、さて、対策はとなるが、私ごときにそんなことが分かるわけもない。



子供の自殺、少年少女の自殺は特別な悲しみだ。



生まれていった何年生きたからなどの思いもわくが、子供たち、少年少女たちの精神的な葛藤を思うと、悲しみが怒りにさえ変わる。子供たちを死に追いやった大人社会への怒りだ。子供たちの主な社会は学校であるから、怒りは自然に学校へと向かうの致し方ないが、でも、それは大人社会全体の問題だと、言うのが妥当だが、それでは、漠然として、何の意味もない。



さて、大阪の少女自殺も、もし仮に三重の少年の事故も自殺と考えると、なぜの思いに突き動かされる。少年少女が犠牲になる殺人事件が続けて起きたのも記憶に新しいが、自殺のニュースは途切れることがないと言っても過言ではない。



命は親から与えられるが、それは神からの贈り物だ。

別の言い方をすると、子供は親から生まれるが命を与えたのは神だ。

すべての権利を神が持ったまま、親に預けられた命だ。

その命はたとえ自分でも左右することは罪だ。

命を左右するのは、神だけである。



子供たちには、まず、そのことから教えるべきかも知れない。自殺など考えることも許されない罪だとに教えることが大事かもしれないと考え特効薬はない社会的な問題への対応は難しいから、自殺予防に取り組む専門家や慈善団体、NPOやホボランテイアの方々には頭が下がる。ありとあらゆる知恵を絞って、子供たちの、少年少女の自殺への道を閉ざしてほしいと願う。


そして、神に、自殺を考え始めた、子供たちを、少年少女を救ってくださいと祈る。

 2016年年明け早々に国際社会に衝撃が走った。イスラム教世界のことはよく知らないが、イスラム教世界が真っ二つに分かれての戦争が始まるのでと思われるニュースに、イラン・イラク戦争を思い出した人も多いかも知れないが、サウジアラビアのとイランの戦争になれば、サウジアラビア寄りのスンニ派連合とイラン寄りのシーア派連合の戦争となれば、イスラム教国以外のアフリカの国々や、西欧の国々まで巻き込んでの第三次世界大戦へと発展するのではと想像させるほど衝撃的なニュースだ。



 衝撃のニュースはサウジアラビア内務省からの発表だ。2016年1月2日、テロに関与したシーア派47人の死刑執行の発表だ。処刑者の中にシーア派高位聖職者のニムル師がいたからシーア派の大国イランが黙ってはいないし、サウジアラビアにも多くのシーア派がいるのだ。



 さて、処刑された指導者ニムル師は、サウジアラビア東部で反政府デモを主導し、2012年に逮捕され、14年に死刑判決を受けた。イランは死刑にしないよう要請していたという。それでも行われた死刑執行にイランは黙ってはいない。


 最高指導者ハメネイ師は3日、「サウジアラビアは神の報復に直面するだろう」と宣言した。私は宣戦布告に等しいと考える。
 

 イランの首都テヘランでは2日夜にはサウジアラビア大使館前で抗議デモが行われた。当然のように大使館が襲われた。
 

 サウジアラビアはイランの大使館が襲われたことのを受け、イランとの外交断絶を宣言した。そして、バーレーンは4日にイランとの国交を断絶を宣言。スーダンも同日、イランとの断交を表明した。



これから先の展開はわからない。

分からないがイスラム世界が真っ二つに割れて、

戦争の危機にあることは確かだ。


 原油の値下がりしている。それは私たちの望むところで、ガソリン代も急激に値下がりしてうれしい限りだが、サウジアラビアとイランが戦争となれば、また原油の生産量が少なくなり、またガソリンの値上がりとなる。


 そんなガソリン代が心配だからではないが、戦争などになれば、さらにイスラム国が絡み、複雑な戦争が展開されるだろう。多くの犠牲者出て、多くの難民が生み出される。そして、戦場は世界大戦と呼べるほど拡大するだろう。


 アメリカの仲介も、ロシア、中国の仲介も、効果はないような気がする。ましてやフランスやイギリスでは尚更だろう。頼みの国連はほとんど何もすることができないのだから、世界の人々はただ、ニュースに耳を傾け、戦争にならないようにと祈るしかできないのか。



 イスラム教のこともイスラム世界のことも殆どわからないが、でも、平和を願わない国民はいない。イスラム教圏の人々も、私たち同様に平和を尊ぶだろう。世界の平和のために、平和な国の住人も祈る2016年の始まりだ。 

正月三が日も過ぎ、今日はもう1月4日だ。


正月も終わり、今日から2016年が始まった感じだ。


国会も召集され、政治も動き出した。お役所も仕事始めで、

多くの企業でも仕事初めで、日本が動き出した。



糖尿病と診断されてからもうすぐ二年になる。これまで、歯医者以外に医者に縁がなかった人間にとって、糖尿病と診断されたときの衝撃は大きかったが、すぐに知り合いに何人もいる糖尿病患者のことを思い出し、つい何日か前に入院した知人の見舞いに行った時の自分の口から出た無責任な励ましの言葉を思い出した。


自分が言った励ましの言葉であるが、一生付き合わなければならない病気と向き合う若い病人に対しての無責任でもあり、無神経とも思える言葉だった。


それは、私が判断した最大の慰めの言葉であった。

「一昔前までは糖尿病など病気のうちに入らない、いわゆる贅沢病であり、おいしい食事を控えればいいだけの病気だから、気楽に気長に付き合うだけだ」などと、如何にも糖尿病に対しての知識があるかのような言葉であった。


思い返しても申し訳ないような言葉は、さらに、「友人の孫は小学入学時には、自分でインシュリンの注射をしていたくらいだ」と続けたが、それはそれで真実であり、小学校入学したての子供のインシュリン注射を見て驚嘆したのだ。


その子に比べれば、大人の食事療法など、等々と続けたのだ。


そのことを思い出すと、自分が診断されたことへの衝撃を引きづってなどいられない思いになり、人に言ったことだけに、自分が病気となったからには、「気楽に気長に付き合う」だけと居直り、それが現在まで続いている。


人からの慰めの言葉など、跳ね返しての、「気楽に気長に付き合うだけの病気のうちに入らない」などの強がりを今も言っている。食事療法で落ちた体重は元に戻らず、衰えた肉体との格闘が続く日々となったが、合併症など心配のない、糖尿病と「気楽に気長に付き合う日々である。



食事療法はダイエットとほとんど変わらないから、特に苦しいこともないし、美味しいものを、腹いっぱい食べたいなどの思いを捨てると、それほど苦になることもない。私の場合は体重を増やし肉体的な力をつけるのが最大の目的となった、所謂、気楽な糖尿病患者である。


インシュリンを打つこともないだけに、やはり気楽であるが、でも、血糖値に対する反応はほとんど反射的であり、糖尿病に関する医学的な文言にも過敏に反応するのは、糖尿病患者の宿命か。




さて、去年の夏ごろと記憶するが、アメリカの医学雑誌に炭水化物以外は、どれだけ食べても問題ないという論文が発表されたとかの記事を見て以来、それを信じているから、パンやごはん以外は気にしないで食べている。


体重の復活もいくらかあるし、肉体的な活力も増したような気もするが、でも、糖尿病的けだるさは増しているような気もする。アメリカ医学雑誌のその後の展開は知らないし、日本の医学会はどうかなどの思いを抱きながらも、炭水化物以外は気にしないで食べている。もちろん糖分はほとんどと、いっていいくらいに口にしない。



そんな、気楽で気長に糖尿病と付き合う糖尿病患者である私にまたまた朗報だ。



朗報は朝日新聞だ。


米飯の前に魚や肉を食べると、血糖値の急上昇が抑えられると、関西電力医学研究所が発表したという。同じメニューでも食べる順番を意識することで、糖尿病の予防などにつながる可能性があるというが、でも、そんなことはダイエットでもやっていると、また、少々知ったかぶりで記事を見る。



関西電力医学研究所の研究結果は欧州糖尿病学会誌(電子版)に掲載されたという。


野菜を米飯より先に食べると、食物繊維の働きにより、小腸で糖の吸収が穏やかになって、血糖値の急上昇が抑えられるのは、ダイエットでやっている。

糖尿病患者も健康な人も、「魚や肉を先に食べると血糖値は、ご飯の後で魚や肉を食べるより、3~4割低かった」という。


朗報には違いないが、でも、炭水化物を可能な限り控えている私にとって効果はどうか。いまでも、ダイエット的に考えて、ご飯やパンはほとんど最後に食べるから、それほどの朗報でもないかも知れないが、でも、自分のやり方が正しいと証明してくれたような気もするから、やはり朗報だろう。




不治の病という言葉は悲劇のヒーローのための言葉だ。死に至る病と不治の病との違いは、悲劇性違いだと思っていたが、糖尿病と診断された時の衝撃は、不治の病ではなく死に至る病に対してのものだった。何時かは死ぬではなく、やがて死んでいくという思いだった。ガンの告知とは違う命の区切りがぼやけて見える感じであった。だらだらと治ることのない病に弄ばれるように死に至るという、敗北感にとらわれながら、「気楽に気長に付き合うだけ」と人に言った無責任で無神経な言葉で救われた言っても過言ではない。



改めて言う、「気楽に気長に付き合うだけ」の糖尿病患者が私である。


食べる楽しみがなくなり、生きている意味がないねと言われたこともあるが、バカなである。食べる楽しみは今まで以上にあるのだ。「気楽に気長に付き合う」だけの糖尿病など、贅沢病であると、今でも思う私は、病気だが病人ではない。
 

私は夢がある。これから戦地に戦場に向かう夢がある。 

2016年の新年を祝して、皆さまに新年のご挨拶です。


新年明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。


静かな新年を迎えた今年の私たちの置かれる状況は、

かなり危険な臭いのする政治模様です。


今年は選挙権が18歳以上に引き上げられての、

初の国政選挙があり、楽しみにしています。



色々様々な変化も期待できる年のような気もするが、

閉塞感が満ちる社会へと進むような気もする。



改めて思うのは平和の尊さだ。

平和がすべての社会にあって初めて、自由も平等もあるのだと再認識して、2016年はゆっくりと歩めたらと思います。



どうぞ、本年が皆様にとって、平和で安心して暮らせる社会であり続けますようにと祈ります。