春の色が増してきた。

そんな思いを強く感じる2月10日の朝は、まるで春のようである。


 春節である。いわゆる旧の正月、または大陰暦の正月、そして中国の正月だ。その春節のニュースがであふれている。中国系のニュースの筆頭は、政治的なニュースを押しのけて、瀑買い関係のニュースが多い。昨今の日本の観光ブームの中でも際立っている。


 中国政府には瀑買い禁止令なるものも検討されているらしいが、今のところは多くの中国人観光客が日本の休日を楽しみ、日本製品の購入を喜びとしている。


 なぜ、中国がそんなに豊かになり、なぜ日本の製品がそんなに人気があるのかは、簡単な経済指標や繊細緻密な日本のものづくりの技術から導き出される簡単な論理と言うことになる。


 中国の経済的豊かさを象徴しているかのような瀑買いだが、その瀑買いを楽しむ中国の人々はごく限られた人々で、巨大な中国の一部の富裕層だろう。13億人ともいわれる中国の人口から考えて、数パーセントの富裕層の日本観光だと、単純に言い表すこともできるだろう。


 中国の経済は急ブレークがかかり、驚異的な経済発展のつけが中国の目下の国内政治の課題でもあるらしいけれど、そんなこととは関係なく、日本観光で富を表現する中国の富裕層のエネルギーに圧倒されそうなニュースが多い近年の日本観光ブームだ。


 「瀑買い禁止令」には驚くが、そんなことが現実の起きることはないだろう。その目的は、当然中国人が押し上げる日本経済への懸念だろう。日米同盟が中国の海洋進出を阻む最大の要因であるから、日本経済を押し上げることは、中国人が中国の海洋進出を阻む要素を与えていると考えるからだ。



 重箱の隅をつつくようなというか、風が吹いたら桶屋が儲かるなどの、思考法から導き出された法律が国民を縛ることになるのは、古今東西の権力者が考えることのようだ。


それにしても中国の春節は華やかだ。


 日本の正月は静かで華やかさも秘められているような感じであるが、中国の春節は派手で華やかすぎるとさえ思える。


 伝統が生きる派手さの中に経済的豊かさの色合いも加味されるから、尚更、私たちには驚異的な華やかさと映るのだろう。驚異的な華やかさの中に中華思想が強調されるから、外国人には少々不自然さも感じるのも事実だ。伝統の中に中華思想を表現するものなら、春節は中華思想の塊と言うことにもなるが、そんな考えも日本人的と言うか、外国人である私たちのもつ安易な中国観かもしれない。


 その伝統的な中国文化を遥かな故郷とする日本人の私たちには、ある程度理解できる中国の春節だが、漢字文化圏以外の国の人には、少々理解しがたいかも知れないなどの考えも、現在では間違いだろうか。

 その昔から、世界至るところに中華街があると言っても過言ではない。また、近年の経済大国となった中国の世界戦略は華々しく、世界の隅々に中華資本が注入される現実の前に、中国的文化への理解度も増し、中国最大の行事である春節への理解度も世界的になっていると単純に考えるが、でも、単純に中華思想が世界に受け入れれることもないだろうと相矛盾することも考える。


妙な中国への敵愾心だはないし、敵対心でもない、

でも、自由を圧迫する中国的な考えへ抵抗もあることは否めない。


 瀑買いは歓迎だが、その瀑買いの観光客に合わせて様々なものが変わるのには違和感がある。一時

的なブームとして受け止めるのがいいだろうと、誰でも思うことを強調したい。


日本も経験した驚異的な経済成長だ。

ジャパン・アズ・ナンバーワンが高らかに鳴り響いたこともあった。


 日本の観光客の瀑外的な金の使い方も世界から注目され、マナーの悪さへの顰蹙も世界的な時期もあったと聞くから、現在の中国人観光客の瀑買いもマナーの悪さも、特別のことではないと、有り触れたことを強調する。



 余計なお世話だが、何時までも続くわけでのない瀑買いへの期待で何かを変えてほしくない。中国人観光客の瀑買いの時期が過ぎて、その観光客が別の日本に抱く何かが彼らを惹きつけると、いよいよ日本は観光大国になるのだろうと、評論家的に、少々偉そうに言ってみたい。



 それにしても、中国人観光客の集団に出会ったら、その声の大きさや無遠慮が会話に驚く。文化的な相違を受け入れるの始まりとはいえ、何となく畏怖心も抱くこともある。山の中で時々会う単身の中国人観光客は実に静かであるが、観光バスから降りた時の中国人観光客の群れに飲み込まれた時は、恐怖を感じるのも確かだ。


 それでも、瀑買いは歓迎だ。中国の春節は続いているから、まだまだ、日本製品の売れ行きは増す。中国人観光客の瀑買いで、潤うのは悪いことではない。