正月三が日も過ぎ、今日はもう1月4日だ。


正月も終わり、今日から2016年が始まった感じだ。


国会も召集され、政治も動き出した。お役所も仕事始めで、

多くの企業でも仕事初めで、日本が動き出した。



糖尿病と診断されてからもうすぐ二年になる。これまで、歯医者以外に医者に縁がなかった人間にとって、糖尿病と診断されたときの衝撃は大きかったが、すぐに知り合いに何人もいる糖尿病患者のことを思い出し、つい何日か前に入院した知人の見舞いに行った時の自分の口から出た無責任な励ましの言葉を思い出した。


自分が言った励ましの言葉であるが、一生付き合わなければならない病気と向き合う若い病人に対しての無責任でもあり、無神経とも思える言葉だった。


それは、私が判断した最大の慰めの言葉であった。

「一昔前までは糖尿病など病気のうちに入らない、いわゆる贅沢病であり、おいしい食事を控えればいいだけの病気だから、気楽に気長に付き合うだけだ」などと、如何にも糖尿病に対しての知識があるかのような言葉であった。


思い返しても申し訳ないような言葉は、さらに、「友人の孫は小学入学時には、自分でインシュリンの注射をしていたくらいだ」と続けたが、それはそれで真実であり、小学校入学したての子供のインシュリン注射を見て驚嘆したのだ。


その子に比べれば、大人の食事療法など、等々と続けたのだ。


そのことを思い出すと、自分が診断されたことへの衝撃を引きづってなどいられない思いになり、人に言ったことだけに、自分が病気となったからには、「気楽に気長に付き合う」だけと居直り、それが現在まで続いている。


人からの慰めの言葉など、跳ね返しての、「気楽に気長に付き合うだけの病気のうちに入らない」などの強がりを今も言っている。食事療法で落ちた体重は元に戻らず、衰えた肉体との格闘が続く日々となったが、合併症など心配のない、糖尿病と「気楽に気長に付き合う日々である。



食事療法はダイエットとほとんど変わらないから、特に苦しいこともないし、美味しいものを、腹いっぱい食べたいなどの思いを捨てると、それほど苦になることもない。私の場合は体重を増やし肉体的な力をつけるのが最大の目的となった、所謂、気楽な糖尿病患者である。


インシュリンを打つこともないだけに、やはり気楽であるが、でも、血糖値に対する反応はほとんど反射的であり、糖尿病に関する医学的な文言にも過敏に反応するのは、糖尿病患者の宿命か。




さて、去年の夏ごろと記憶するが、アメリカの医学雑誌に炭水化物以外は、どれだけ食べても問題ないという論文が発表されたとかの記事を見て以来、それを信じているから、パンやごはん以外は気にしないで食べている。


体重の復活もいくらかあるし、肉体的な活力も増したような気もするが、でも、糖尿病的けだるさは増しているような気もする。アメリカ医学雑誌のその後の展開は知らないし、日本の医学会はどうかなどの思いを抱きながらも、炭水化物以外は気にしないで食べている。もちろん糖分はほとんどと、いっていいくらいに口にしない。



そんな、気楽で気長に糖尿病と付き合う糖尿病患者である私にまたまた朗報だ。



朗報は朝日新聞だ。


米飯の前に魚や肉を食べると、血糖値の急上昇が抑えられると、関西電力医学研究所が発表したという。同じメニューでも食べる順番を意識することで、糖尿病の予防などにつながる可能性があるというが、でも、そんなことはダイエットでもやっていると、また、少々知ったかぶりで記事を見る。



関西電力医学研究所の研究結果は欧州糖尿病学会誌(電子版)に掲載されたという。


野菜を米飯より先に食べると、食物繊維の働きにより、小腸で糖の吸収が穏やかになって、血糖値の急上昇が抑えられるのは、ダイエットでやっている。

糖尿病患者も健康な人も、「魚や肉を先に食べると血糖値は、ご飯の後で魚や肉を食べるより、3~4割低かった」という。


朗報には違いないが、でも、炭水化物を可能な限り控えている私にとって効果はどうか。いまでも、ダイエット的に考えて、ご飯やパンはほとんど最後に食べるから、それほどの朗報でもないかも知れないが、でも、自分のやり方が正しいと証明してくれたような気もするから、やはり朗報だろう。




不治の病という言葉は悲劇のヒーローのための言葉だ。死に至る病と不治の病との違いは、悲劇性違いだと思っていたが、糖尿病と診断された時の衝撃は、不治の病ではなく死に至る病に対してのものだった。何時かは死ぬではなく、やがて死んでいくという思いだった。ガンの告知とは違う命の区切りがぼやけて見える感じであった。だらだらと治ることのない病に弄ばれるように死に至るという、敗北感にとらわれながら、「気楽に気長に付き合うだけ」と人に言った無責任で無神経な言葉で救われた言っても過言ではない。



改めて言う、「気楽に気長に付き合うだけ」の糖尿病患者が私である。


食べる楽しみがなくなり、生きている意味がないねと言われたこともあるが、バカなである。食べる楽しみは今まで以上にあるのだ。「気楽に気長に付き合う」だけの糖尿病など、贅沢病であると、今でも思う私は、病気だが病人ではない。
 

私は夢がある。これから戦地に戦場に向かう夢がある。