池田晶子の「暮らしの哲学」を読んで・・・
市立図書館から池田晶子さんの「残酷人生論」を借りて再読しようとしたら、「魂を考える」が県立図書館から入手されたとの連絡が入り、これを読み出したのですが、すぐに今度は市立図書館にて、「暮らしの哲学」が入ったので最初、並行して読んでいましたが、どうやら「暮らしの哲学」の方が面白くて読みやすかったせいもあり、こちらを先に読み終えました。タイトル的にはあまり好きでないタイトルですが、「暮らしの手帖」なんて言うものがありましたから・・・でも、要は中身ですよね。この本はサンデー毎日に昨年四月から池田さんがお亡くなりになる最後あたりの著書ということになりますので、なおさら読んでみたいという気持ちもありました。週刊誌の連載ですから、形而下から話を始めて、形而上へと展開して行くプロセスはいつもの池田流ですね。この本を読み始めて、晩年は彼女の心境が微妙に移行していっているのがわかります。その『移行』は、彼女が求めているものへと昇華している状況みたいなものに思えます。語り口はかなり、穏やかになっています。そして、この本を読んでいる読者を強く意識しているところが、いつもより強く感じられます。『言葉の力』の章から『自分の消滅』までの展開は面白い。私もショルティという名のシェトランド・シープドックを飼っていますが、(コリー犬を小さくした牧畜犬です) 以前どこかの欄で、「我が名犬はいろんな命令の言葉を理解する」と云い、「但しそれは言葉がわかるという意味ではない。音に対する『意味』への条件反射だ!」と付け加えていました。しかし、あとでよくよく考えると、それは誤っている気がしていました。実は人間にしても、言葉がわかるのではなく、厳密に言えば言葉の『音』を『意味』として捉えて、『わかる』、『わからない』が発生するのだと。それがよい証拠に、日本語という言葉の『音』でないと、それがたとえ同意語の外国語であれば、何をいわれても「ポカン!」でしょう。すなわち、人間は言語を『音』として捉えて、その『意味』を理解して通じているのだと。であれば、我が愛犬のショルティも言葉を『音』として捉えて、その『意味』を理解しているから、なんと覚える言葉は少ないとしても、人間とはそんなに言語伝達の仕組みは変らないことに気付きます。そこのところを池田さんも指摘していたので、これは面白いと思いました。ちなみに、ショルティは餌を食べるとき、『よし』で食べられるという意味を与えているので、『よい』とか『よせ』とか、『いいよ』といっても『よし』という言葉を聞くまでは餌は食べずにちゃんと聞き分けをして待っています。『言葉』から『意味』へ、『意味』から『わかる、わからない』の『感覚』へ、そして『言葉』とは感覚を働かせる『音』によるものだというこの展開。音が響かせる『意味の世界』を想うとき、やはりわけのわからない呪文とか、念仏とか祈りとかのサウンドは畢竟、音の作用による直覚でもって、神秘感を抱かせ、神を想わせ、宇宙を感じさせる力があるのかしらんと思います。いずれにしても池田さんのこの辺の章を読むことで、そうしたことが腑に落ちました。『晩秋に感じる原感覚』の章で、「やはり現象ははかないもの、我が身はうつろうもの、四十も半ばを過ぎ、志も未だ半ば、日暮れて道遠し、何をか為さん。」と本人の心境が書かれていましたが、少し弱気でなんだか予感めいた気がします。最後の章、『世の中イデアだらけ』においては、『同じ』は、『違う』の中にこそ存在している。という話の展開は、『むむっ』と思ってしまいます。それは、確かに、『違う』の中に、『同じ』が存在しているこの真理、そして『違う』をよく覗き込むと、『同じ』が存在している。それは、まさに普遍と個別とが織り成すこの世の弁証法とは、池田さんの意見、同感です。さて、この本の読後感として、同じ愛犬家として私も、我が友『ショルティ』と出会えて奇跡で、幸せだと思うし、当のご本人は何の言葉をも語らないからこそ、そばにいても私の気持ちは安らぎ、そして言葉がない故の信頼感と、愛情が湧きます。人間にとって言葉なんぞなかった方が幸せだったのかもしれないと思うぐらいの『無言の力』をもっているのは何故でしょう。 哲学することと、友としての犬を愛すること。それって、やはりどこかで通じているのではないかな?と思います。そうでないとあまりにも寂しいではないですか?by 大藪光政