神社の森

考える人『口伝西洋哲学史』の最終章『黙らっしゃい!』は、32歳頃の著者の想いが破裂しているような気がします。書かれてあることは強烈極まりありません。東洋と西洋哲学の意義をここで解き明かしていますが、それにしても参りました。西田幾多郎の『善の研究』についても一刀両断の解説とは!


池田さん、私は高校生のとき哲学に関心をもって読もうとしてまったく歯がたたず、いとも簡単に挫折というより「はい、さようなら!」で終わりました。世の中にはこんな読めない難解な本もあるものだと。自分の読解力のなさを痛感し、それ以来は哲学書から遠退いていました。

それで、何故読めないかというと、まず彼が云う哲学用語が理解不能でそればかりがどんどん洪水のように出てくる文章は、私を寄せつけなかったのです。でも、池田さんの云うヘーゲル読みのコツとして教えられた要領でそうした哲学用語を無視して全体が掴めたら、少しはわかった気になったかもしれません。


でも、あなたが言うとおり西田幾多郎は全部わかっているくせに、なお考えて書き続けるあの文章は、あなたが言う『昼下がりの法事で、お経を聞いているような心地になる』とは、なんと絶妙な表現でしょう。この一言であのときの悔しさが氷解しました。

ここで、あなたが引用されている『絶対精神』の正体は一体何でしょうか?『精神』に『絶対』がついていますが、分けての言葉の意味はわかりますが、足したらどういう意味になるか?あなたは『絶対精神』を時には『宇宙』といったりしていますよね。でも、その『宇宙』は、サイエンスが扱う『物質宇宙』ではないことはわかりますが、どうも言葉は曖昧です。『精神宇宙』のことを指すのでしょうか?


なんだか『宇宙』といってしまえばすべてを指すことになってしまいそうですが、「ヘーゲルの絶対精神」、「西田の絶対精神」、「個人の絶対精神」は「ヘーゲルの宇宙」、「西田の宇宙」、「個人の宇宙」と書き換えれば、唐突な表現になりますからやはり『絶対精神』なのでしょうか?そうであれば、すべては同一ということになりますね。

しかし、あなたは最後のところで『哲学史』 というものを、「哲学史とは、考えるという業病に憑かれた病人たちの病歴だと、君はまだ、あれらのカルテを拝み上げるのか。」と巧に表現していますが、『哲学史』というものを単なる歴史として扱えばそういうことにはなりますが、あなたが書かれたこの『口伝西洋哲学史』は、考えそのものの探求ではないですか、だとすれば池田哲学も含めてやはり『哲学史』というものは、見方によれば人類の立派な『絶対精神』という果てのない『考える人の思惟としての宇宙』ではないでしょうか?

という風に、解釈すればあなたが言われるように、考える人のカルテをただ拝むのではなく、自ら考えて討ち死にせよとは、いつものあなたの口癖である『覚悟してかかれ』という意味がよくわかります。であれば、前日書いたように薄学な者にとっては、自分で考えつつも、ここはやはり『先達人の考え』も学びつつ考えなければ己の考える残骸もお粗末な残骸となるでしょう。

最後の章は、哲学と宗教としての禅を同一して思考してゆくプロセスで展開していますが、どうも池田哲学は『存在』という解けない謎に対して思索に必要なものはすべて包括してゆく姿勢が強いですね。『知性による否定とは真実への信仰、すなわち哲学とは形を変えた宗教に他ならないのではないか』という論理の展開にもすさまじいものがあります。やはり32歳頃といえば、やる気満々と元気溌剌の時代ですね。

by 大藪光政