神木
この本の初版は、2002年の六月です。2001年から2002年にかけて「本の旅人」に連載されたものです。これを著者が整理して出版したものです。久し振りに読み返して見ますと新たな発見があります。ということは、読む側にとってこの本は、色々と考えさせるベクトルを持っていることになります。

池田読者が二月に亡くなられたニュースで、どうでもいいことですけど彼女が既婚者だったことを始めて知った人が多かったと聞いております。確かに池田著書においては、所帯じみた話は皆無で、しかもこんなやっかいな考えの持ち主が家庭を持つことなぞと、思ったに違いありません。

しかし、「ロゴスに訊け」の『老犬介護で夜も眠れず』の章で、愛犬家である池田さんが「今度は主人が昏倒して入院してしまった。」と書かれています。私も以前これを読んだとき、どうも子供さんはいないみたいだけどご主人はおられるのだなあと思って通り過ごしていてそのことはすっかり忘れていました。

そんなことより、この本はやはり池田哲学の方針をきちんと実行した本です。ひとつは、哲学のプロパーでない読者に対して現代の人にわかるように哲学専門用語を出来るだけ使わずに書いて行く作業。もうひとつは、現代の事象を池田哲学で磨かれたロゴスの剣によって一刀両断でその皮相をすっぱりと剥ぎ取り、その虚構の本質が何であるかを問い詰める作業を行ったことが上げられます。

そのために、時には幾人かの有名文筆家が犠牲になられました。この本では「生きている、ただそれだけで価値なのか」の章で五木寛之氏の『大河の一適』について述べられていました。池田氏が「人間には『生きている』ただそれだけで値打ちがあると思うのです」といった五木氏のキャッチフレーズをタクシー広告の中で見たところから彼女のロゴスが発せられるのです。これは当然池田何某の発言ではなく、ロゴスの展開です。そしてロゴスは語る。「人間は『生存している』、ただそれだけで値打ちがある」といっていることに疑問を投げかけるのです。

『生存している』ということは、摂食し、排泄し、生殖し、死亡するという「ただそれだけ」に値打ちがあるということがどうして価値なのか?人は『なんのために』生きるのか?それが価値ではないかと。そしてそれは二千五百年前にソクラテスが「ただ生きることではなく、善く生きることだ」と口伝しているそのことではないかと。ここで、池田氏は親切にも五木氏の言っていることは『善く生きる』の『善く』という言葉が当然含まれているのでしょうねと、暗に助け舟を出されています。


池田氏も少し、出版界で苦労されたのか?流石に出版社への気遣いから少し切り方が『峰打ち』になってしまったようです。私は五木寛之氏の小説を学生時代に読んだ事がありますが、「青春の門」で私は騙された思いがします。あの小説は、「書物には『書いている』ただそれだけで値打ちがあると思うのです」のキャッチコピーを彼に返して上げたいと思っています。


すなわち、『善く書く』ことが脱落しているのです。彼にはなんの哲学もありません。興味本位です。色んな見聞を広めて(摂食し)、ただ排泄しているだけです。ですから、彼の小説はどこで終わっても良いのです。そのことに私は直覚で学生時代にいち早く気付きました。


最近は、『他力』だとか、『私訳歎異抄』とか今の現代の不安を先取りして売れる本をめざして、つまらない本を出していますが、なかなか懲りませんね。なんで『峰打ち』なんかされたのですか?池田さん!やはり、ずばりと切ってあげるべきでしたよ。でも、切るにはやはりその方が書かれた本をちゃんとお読みにならないといけませんから・・・読んであげるほどの事もないと判断されたのでしょう。

さて、「物質は非物質の物質的表現」の章ですが、あなたが言う『物質』とは『脳』のことを指し、『非物質』とは『精神』のことを指すのですね。それならば「やはり物質はどこまでも非物質ではないからである」と断言されているのもわからないではありません。ただこうした狭義の『脳』と『精神』の関係ですら永遠の課題ですので、広義の「物質と非物質の関係は如何に?」となりますが、果たして「やはり物質はどこまでも非物質ではないからである」という言い回しは成立したとしても、「物質は非物質によって生成されている」といった仮説を否定することは出来ない気がします。


そう直覚するのは、たとえば『アミニズム』は「すべての生物、無機物には霊魂、霊、魂などが宿っている」という信仰です。そして日本にも古来ありましたが、これは物質には非物質が宿っているということになります。この『宿る』という意味の解釈が問題となるのですが、どのように関係しているのか?狭義の『脳』と『精神』 の関係よりもっと説明しがたいものがあります。すなわち物質には非物質との関係が狭義の問題に比して、あまりにも乖離がありすぎます。

そこで、統一理論で考えた場合、やはり物質の本質をどんどん追求していきますと、分子から原子そして素粒子そしてその先へと限りなく細分化していったものが、果たしてそれが科学としての見地で物質といえる代物なのか?そうなるとそれはもう非物質の世界に入るのではあるまいか?そう考えた方がすんなりおさまる気がするのです。

すなわち非物質から物質が生成されて、そしてまた物質から非物質へと生成されるそうした円環状の世界になっているのではあるまいか?という仮説なのですが・・・如何でしょうか?そうしますと古代の人が直覚で、物質には非物質が存在しているこの畏敬の念も説明できますし、『脳』と『精神』の関係も必然的に思えます。そもそも、物質と非物質をまったく別物として分けることにこそ無理があるのではあるまいか?それはもともと関係がある存在ですから。


この書物を読むと色々なことがよどみなく湧き上がってきます。池田晶子さんに感謝!また、再読したときには新たな発見があると思います。それは自己実現なのかもしれません。

by 大藪光政