バラ3



「新・考えるヒント」を読み返したのですが、この本は2004年の1月に書き終えていますので、池田さんが亡くなられたのが今年の2月なので、約3年前の出版本です。当初はオピニオン雑誌に連載予定が、難解さから流れてしまって全体を書き下ろしとして刊行したものです。


内容的には、他の哲学専門書に比べると大変わかりやすくご本人は書いたつもりでしょう。でも、雑誌は読んですっとわかるものでないと、読者がついて来ないからというのが、出版社の言い分でしょう。要するに商業ベースでものを見ているのでそうなります。でも、結果的には、こうした内容は書き下ろしとして出版するのが妥当でしょう。


読者は、色々いますから、わかる人が読めばいいでしょう。或いはわからなくても関心があり、考えてみたいと思う読者もいるでしょう。しかし、すっと読んでわかると言うことは、さほど考えなくてもわかるということですから、それはただ本を読んだだけということで新しい発見は、あまりありそうもありません。


すっと読めるということは、すでにその読者にはその内容に関するデータとか、考えがすでに存在していて、しかも『こうだと』という判断もついているということですから、そこから生まれるものは自分の感想でしかないでしょう。


しかし、この本は池田さんの本の中では、手強い本です。考えることを強いられます。うまく例えられませんが、読んでいて柔と剛を持った文章です。しかし、小林秀雄の影響をこうも強く受けている・・・と言うより、池田さんにいわせると、小林秀雄とは私のことだ、すなわちそんなことはどうでも良い、哲学を批評でもって世に問うた小林のやり方に、自分の姿を見た・・・ということでしょう。


池田さんが存命であれば、「心」と「精神」と「魂」の使い分けは何を持ってされているのか?お聞きしたいですね。池田さんの文章の中で出てくる「心」を「精神」と置き換えても、或いはその逆の場合も違和感がないことがあります。「魂」の場合はちょっと違いますが・・・。いずれも物質から遊離してしまった非物質のことですから、もとをたどればおなじでしょうか?「心」から「精神」へ、「精神」から「魂」へと移行して行くという事でしょうか?


そうすると「魂」の存在は、古代から信じられていましたが・・・(幼少の頃、私もそれを信じていましたが)、小林も、池田も現代科学が測定することが出来ない「魂」の存在を、問いかける行為が哲学であるならば、なんとロマンのある行為かと思ったに違いありません。これは、「魂」が「宇宙」である、その逆とか・・・或いは「物質」は「魂」であるといった次々に想定された問答を繰り広げることは、感性ある人々の唯一の喜びかもしれません。


それは、決して答えが出ることがない問答であるからロマンある行為なのでしょう。科学の探求する行為の前提条件は『答えがある』ことを想定して進められていますから、答えのないものに対しては、哲学で望むのがもっともでしょう。


人間の欲求である、物質欲、性欲、名誉欲などは、お金で購えるものですが、この考えることで奥深いロゴスを味わう喜びは、お金とは無縁です。


最後に付け加えますと、池田さんが言う、『外在的教条』としての『道徳』は、こうした哲学の感性をもった人にとっては、真理としての教条をもった道徳としてその人の心に見出すでしょう。


by 大藪光政