書物からの回帰-エッフェル塔

[ パリ / エッフェル塔 2011年5月1日撮影 ]

この本を読む前に読みかけの本として「語りえぬものを語る」という本を読んでいました。

「語りえぬものを語る」という本は言語哲学の本ですから一般の方が読むには無理があります。恐らく大抵の人は途中ですぐに投げ出すでしょう。

もっとも最初から読まれない方のほうが圧倒的でしょう。(笑)

それを半分ほど読んでいる頃、たまたまこの「道徳教育はホントに道徳的か?」が、図書館に新刊本として入っていました。

それで一寸手にしてみたら、このタイトルに関心を抱き面白そうだなと思って内容を見てみました。すると、とてもわかりやすい書き出しだったのですぐ読み終えると判断し、こちらの本を先に一気に読もうと思い立ちました。

しかし、実際に読み出すとなんだかわからないうちにとても時間が掛かりました。何故でしょう?

文章の書き方も内容も別に難解ではないのに、何故か?時間がとても掛かったのです。確かに所用で多忙だったこともあり、合間合間に読んだから読む効率が悪かったのかもしれません。

ひとつわかったのは、わかりやすい文章を読んでいると僕の場合どうも集中力に欠けるようです。

わかりやすい文章は、昼間でも読めるので、その分色々な雑念が入ります。また、わかりやすくても新しい発見がないと、これまた退屈して集中力に欠けます。

この「道徳教育はホントに道徳的か?」は、どちらかというと今の学校教育における道徳課題だけでなく、教育界全体と社会全体が抱えている問題まで捉えて分析し、問題点を掲げています。

でも、先程の「語りえぬものを語る」を読んでいたせいか、言葉に言い尽くせないものがここにもあるなと思った次第です。

ちょっと皮肉なことを言えば、「道徳教育はホントに道徳的か?」の本は、ホントに道徳的な本と言えるか?とか、「道徳教育はホントに道徳的か?」の本を書いた著者はホントに道徳的な人か?とか言葉の言い回しで疑問の問いかけに対する疑問を意図もカンタンに表現できます。

まさに言葉の為せる技ですね。つまり、論理空間においては何だって言えるのです。ただそれを読んだ時、どこまでが、真実、或いは、本質、それとも真理であるかをどうしても知りたくなります。

そうなってくると、カンタンな文章であっても読めば読むほどその真偽を確認し、自分の考えと照らし合わせ、様々な思いを巡らせて読んでいきます。

とくに私の場合、三年前から子供たちに対しても教育に携わる機会を設けましたから、(無量育成塾とウェルナー少年少女合唱団)そうした実際の行為空間における発生課題とも照合することになります。

小中学生にとっては、松下良平氏のような教育に関したこと細かい適切な分析が出来るはずもないし、そうした深い洞察などありません。

松下氏が最初に掲げられた「手品師」という題の道徳教材の内容をどう理解するかは、子供も大人もそれぞれの考えが働きひとつの結論には達しないでしょう。それぞれの考えを思い抱く程度で終ればそれで良いのではと思います。

それを結論としてこれが正しいとやってしまえばそれはもう道徳教育ではなく、洗脳かもしれませんね。難しい道徳的内容に対して、教師は固定された考えを生徒に押し付けることなく、むしろ生徒たちの様々な考えを引っ張り出すのを手伝う産婆さんであって欲しいですね。

そういえば、スケートの真央ちゃんのお母さんが大会が始まる直前に危篤になり、連絡が入って急遽大会をキャンセルして帰国されましたがそれがとても話題になりましたね。

こうした判断、大会に出場することがお母さんに対するホントの孝行なのか?大会の試合をかなぐり捨てて母の元に駆けつけるのが真の孝行なのか?どちらなのか?と言う選択肢を人はすぐに考えてしまいがちですがそれはそのときのご本人が決めることであって良いも悪いもないし、どちらにしても悔いは残らないような気がします。

道徳教育でもって国家の統制を個人に対して行われるのは寒気がしますが、かといって、国を憂うことや国の為に働くことそのものが否定されるのもおかしいことです。それは国家あっての個人の生活保障でもあるからです。

やっていけないことは、お国の為と言う大義名分で個人を抑圧してはならないというそれだけですね。個人にとってそれがお国の為か否かは本人が思うことであって、その人の判断は知性、感性、理性に依存しますから、人にはそれぞれのレベルというものがあるのでそれが食い違っても致し方ないことです。

それを一律に、回れ右!で有無を言わさず号令したり、それに従う手法として洗脳的な教育は特定の利益を守る為の教育となり、国家の為の教育でないのは自明です。

金子みすゞ の詩、「わたしと小鳥と鈴と」を読まれた方にはそうしたことに対してなんとなくお分かり頂けると思います。

国家のリスク管理で、もっとも大切なのは『国民の考え』に対しては多様性を持たせるということです。その多様性を持った考えの中から松下氏の言われる『共同体道徳』が育っていけばと思うところです。

その共同体道徳の『道徳』という言葉自体がとても抽象的でわかりにくく、語りえぬものを語らなければならないことになります。

先日、創設したばかりのウェルナー少年少女合唱団が7月から練習を開始し、初めて11月の下旬に会場の人の前に立って歌ったのですが、ステージ外での態度において礼儀・礼節をわきまえているとは言えない事がよくわかりました。

その礼儀・礼節は全体的に言えば会場に入ってから会場を去るまでの間のすべてを指します。(このことはブログ/無量育成塾にも触れています)

今の家庭は、共働きが当たり前みたいで仕事と生活に追われていて、どうも子供の躾が行き届いていないようです。自分のことしか考えていない子が多いのです。

これは、松下氏の言われる市場モラルのところと符号するところかもしれません。

今の低学年の子供にとって大切なのは難しい道徳教育ではなく、ごく当たり前な礼儀を身に付けることでしょう。意外とそれが出来ていない子、わかっていない子が多いことが発足したばかりの合唱団活動で露呈しました。

そうした人との関わり方を、特定の道徳時間でなく、日頃子供たちと接している機会にその場でどしどし躾けをしてもらいたいものです。これは犬の躾と同じですね。もっとも、家庭内での躾が一番だというのは申すまでもありません。

松下氏は、こと細かく色々とお調べになってとても立派に鳥瞰的視点から道徳というものを分析されて問題点を掲げられていますが、最後のまとめとして、『共同体道徳』と『市場モラル』との区分と言うのか、棲み分けと言うのか?要するに分けられているのですが。。。

どうも、そこが引っ掛かるところですね。つまり、前者は『道徳』と言う言葉を使われているのに、後者は、英語の『モラル』をお使いになっています。

何故でしょう?

共同体⇔道徳、市場⇔モラルという言葉のもつイメージがぴったりだったからなのか?

それとも、若干、道徳⇔モラルとの意味の違いがあってそうされたのか?

日本語を英語に翻訳する時、完全な翻訳は出来ないのはみなさんおわかりと思います。

それは、国と国との文化の違いがありますから、当然、それぞれの国に住んでいる人々の概念構成も違ってきます。従って、言葉だけでは語りつくせないニュアンスというものがあります。

それを承知でお使いになられたのなら、共同体と市場において二つの違った"道徳"が存在しないことになります。

しかし、見出しの中で、「せめぎあう二つの道徳」と書かれていますから、おかしなものだなあ~と思いました。

二種類の道徳が存在することになりますね。

見出しを書くのであれば、「「せめぎあう二つの道徳とモラル」とされた方がまだ納得します。

でも、道徳そのものが二つの世界に分かれて在るわけではなく、後者はどちらかと言うと、コンプライアンス的なものを言うのでしょう。

そういえば、『商道徳』という造語があるくらいですから、『市場道徳』があってもそれは、ご自由に・・・いろいろな道徳造語をということになります。言葉は論理空間では幾つでも自由に組み合わせられます。

ただ問題なのは、『共同体道徳』、『市場道徳』、『商道徳』・・・『何某道徳』などが対峙する"道徳"であるような場面が出てくると、ちょっとやっかいになりますね。

どちらが正しい道徳なのか?なんて莫迦げたことになります。(笑)

学者の方は、物事を研究したり調べたりする時、手法として分類したり分析したりされますが、それから今一歩、是非、本質を描いて頂きたいものです。

松下氏は、僕より九つ年下で若いですね。鹿児島県人だから、もし、焼酎で鍛えておられれば、酒も強くて正義感も人一倍でしょう。

期待しています。

by 大藪光政