書物からの回帰-欄-H22.01.24


最近、一年に三回程度の頻度で葬儀に出向いている。結婚式は、それに比べて殆んど少なくなった。歳をとるとそうした付き合いの方が増えてくるというものなのだろうか?


これまでに、そうした事柄に付随したお通夜、法事などを含めると数え切れないぐらいお参りしている。それで、必ず聴くのがお坊さんのお経である。これだけの頻度で数多く経験しているのにそれらに耳を傾けても殆んど意味不明である。


しかし、わからなくても不安にはならない。わからないから有難いのかもしれない。先日もお正月明け早々にご近所の方がお亡くなりになったのでお通夜に出向いた。送迎のバスを用意されていたのでご近所の皆と一緒に乗り込んで行った。


お亡くなりになった方は、享年76歳であった。この歳だと皆さんの会話の中では、お亡くなりになるには少し早すぎるという声が聞こえてきます。


でも、雰囲気としては、若い青年が亡くなったのとは違って、意外と、参列者には笑顔も見える。まあしょうがないなあ~といった感じである。身体も弱っていたのでご家族の介護も大変だったようだ。


そんな雰囲気の帰りのバスの中で、皆さんに、「今日のお坊さんのお経は長かったですねぇ~」と話の水を向けてみた。すると、「大藪さんも、そう思いましたか?そうですね~かなり長かったですね。」とすぐ返事が返ってきました。「宗派は、天台宗でしたね。天台宗はお経が長いのですかねえ?」と、もう一人の年長者が言い出した。


「いやいや、檀家としてお寺に尽くされたから、お経を丁寧に唱えてくれたのやろう。」と、他の者が付け加えた。それを聞いて、少し笑ってしまった。やはり、現世利益だなあ~と。


そこで、大きな声で、「ところで、今日のお経の意味わかりました?」と質問してみた。すると、誰もが、そんなお経なんぞわかるものか!という顔で苦笑いしていた。


世の中とは、不思議なもので毎回出くわすであろうお坊さんのお経の唱えに対して、まったく意味がわからなくても、黙って辛抱して聴くし、その意味を知ろうともしない。ましてや、誰もがお坊さんの唱えるお経がたとえ長くなっても黙って耐えている。こんな不思議なことがあるのだろうか?と、迂闊にも今となってやっと気付いてしまった。


今年のお正月は、図書館から画家である平山郁夫さん監修の 『シルクロード』 のDVDを借りてきて、それを観ていました。これは、石窟の中にある壁画や仏像の紹介もあり、西洋と東洋の融合とか仏教伝来などをガイドしてくれた内容です。


その中で、鳩摩羅什の姿像がとても印象に残りました。クチャ キジル千仏洞にある造形美あふれる鳩摩羅什の姿と彼のすごい語学力でもって経典翻訳を成し遂げたということには宗教に関心のない者にとっても深い感銘を与えてくれます。


そんな状況を経たある日、図書館で偶然にもこの本に出会ったのです。


タイトルが、『信じない人のための・・・』 という、人たらしの殺し文句が付いています。どうも、最近の文庫本には、こうしたうまい人を引き付ける仕掛けがありますね。出版社の本は商品ですから売れて何ぼの商売です。


それはまあよいとして、宮沢賢治が、『漢和対照妙法蓮華経』 に心酔したというから法華経のこの紹介本でも読んでみようという気持ちになりました。


この本を読み始めてすぐ気付いたのですが、宗教の関係本としてはかなり明快で現代感覚に対応した書き方をしています。だから、最初からスイスイト読めます。


中村圭志氏は、ものの捉え方がユニークですね。第一章の法華経のイントロダクションの歴史の概観においては、時系列とヨーロッパ、中近東、インド、東アジアといったフィールドの中での各宗教の発生をマップの図表にしています。こうした工夫はバラバラな宗教の歴史認識を改めて比較することで共通点やよく違いなどがわかり、宗教の世界が俯瞰できます。


また、哲学者や孔子などの出現にも注意を払ってくれているので当時の連関を探ることが出来ます。ここの章では、仏教における大乗、小乗の歴史とその相違についても理解が深められます。この章までは、わりと素直に読んでいくことが出来ました。


ところが、第二章の“法華経のレトリック”の章を読むと、少しあきれてしまいました。中村氏の言い分を素直に真に受けますと、『法華経』 そのものが、莫迦〃〃しく見えてきます。鳩摩羅什が一生懸命翻訳した 『妙法蓮華経』 とは、そんなものなのかとあきれてしまいます。


中村氏は、『法華経』 を小莫迦にするためにこんな本を書いたのか?と疑いたくなるくらいです。どうも、中村氏の意図が読めない。信じない人にとっては笑いながら信じなくてよかったと思うでしょう。でも、これだけの長い歴史に耐えてきたものであるからもっと考えさせられるものがありそうだと思うのだが。


第三章の油断にならない法華経と題した章には、消えない緊張(一)として、「 - 法華経に『内容』 があるかのか?」という問いから始まっています。そして、実際、法華経には「思想がない」「理論がない」という非難が多く浴びせられてきた・・・とまで、書き記している。


消えない緊張(二)においては、依存性と主体性と題して、法華経が一神教のロジックに似たものが感じられるといっている。つまり、信じる者と信じない者との差別をはっきりしているということです。まあ、キリスト教みたいなところがあるようだと言っているのです。そういえば、あの新興宗教団体も他の布教されている神や宗派を徹底して排除していましたね。


あと、消えない緊張(三)では、-成仏って何?という問いかけでは、「私たちはみなブッダになれるんだ」という話が出てきます。 『成仏』 という言葉は現代の我々にとっては別に難しい言葉ではなく葬式の段階で、『迷わず成仏してくれ』 と、囁くのは当たり前のことですね。


つまり、死んだら 『仏』 になる。それは我々日本人にとってごく普通な気持ちでしょう。でも、同じ仏でもブッダは別格のようです。 しかし、そうなるとブッダ以前にも人間が存在していますがそれらの人々はどうなるのか?・・・その数は限りないほどいる。そうした人たちが仏に成れていないのか?どうなのか?と、つい、思ってしまう。


『いやいや、そのブッダ以前の人たちも仏になっているはずだ・・・』 と、変な論理で思うとブッダの教え以前に成仏した仏の方が尊いのではないか?とも変に考えてしまう。


著者の中村氏は、法華経について、「法華経がたいへん興味深いのは、それが決してオタク的煩瑣哲学に陥ることなく、輪廻宇宙のヴィジョンに足を取られることもなく、読者を苦界の菩薩道に、苦を超脱しつつ苦の只中にある境地にそのまま引っ張りこもうとしている点です。」と、こう述べている。( オタク的煩瑣哲学 →内にこもって、意味のない枝葉的な思索に耽ること、と捉えると良いみたいですね)


まあ、そういわれてもまったく頓珍漢になってしまいそうですが、苦界においては逃避せず現実を直視して苦を共として迷わず生きるということが大切なのだというのでしょうか?


消えない緊張(四)では、-信じられない約束、とあります。ここでは、救いを求める心とそれを救ってやろうという観音さまについて書かれています。「夢の論理においては、人間と観音の二つの努力が重なり合います。他人の苦に限りなく同情する人間の姿が、すなわち観音の姿である。利他の行為の究極はこの観音の約束である。この利他行を離れて人間の究極目標達成(成仏)の契機はない。」と、中村氏は述べて、その後に宮沢賢治の 『雨ニモマケズ』 の有名な詩を紹介しています。


そうすると、中村氏の言い分、すなわち法華経の言い分は 『利他行』 をやっていない者は成仏できないということになりますので、誰でも成仏できるということと矛盾します。


考えとしては、死んでからの総括が、『成仏』 ではなく、 『利他行』 を実行しているときが成仏なのかもしれません。つまり、リアルタイムでの刹那的な成仏です。それは生き仏かもしれません。その方がなんとなくピンときます。だから、生き仏になれ!という宗教だとこれはすごい宗教だなあ~と思ってしまいます。


死んでから、『利他行』 のご褒美に成仏させてあげるというのはとてもおかしい限りですが、年寄りから、「そんなことをしていたら、死んだら成仏できないよ。」という脅し文句には、今の子供はどうだかわかりませんが、昔は効き目がありました。それは少しでも死後に良い世界に行きたいという願望がありましたから。


この 『雨ニモマケズ』 の詩は、小学四年生のときに水本政夫先生から教えてもらった詩です。教育大(当時は学芸大)を出たばかりの水本先生はとてもユニークな先生で、正規学習内容以外のことを色々と教えてくれました。これは、後の私にはとても大きな影響を与えたと思います。水本先生が紹介した 『雨ニモマケズ』 の詩の内容を改めて読み直してみると、 『利他行』 を勧めた 『方便詩』 なのですね。


当時の小学4年生の私としては、強烈な印象を抱きました。ある意味での嫌悪感がありました。その頃は、詩とは美しいものという観念があって、それが打ち砕かれたからです。


こんな行為で生きていく姿勢を持った人、又は、こんな風な精神を持った人間に成れと謂わんばかりの説教詩は好きになれませんでした。なんだか、誤魔化している気がしてならなかったのです。こんなことが出来るはずが無いと当時の素直な心で思ったのです。


今、この詩をどう捉えるか?といえば、自他との関係においては自分の出来る範囲において誠意を尽くすという生き方をすれば悔いはないだろうと思います。


中村氏のこの詩に関する解説を読めば、 『この詩句の論理は、法華経/観音経のロジックと究極的につながっている』 と言い放っている。だから、賢治は、若干三十五歳の若さでそうしたことを理解し、その教えに基づいた詩作ができたのだからこれはすごいことだと思う。


こうして中村氏の解説を最後まで読んでいっても、 『法華経』 の真髄には直接触れることは出来ない。お坊さんのお経を聴くのと同じで、ただ有難い解説だと思っているだけかもしれない。(笑)


信じない人という前提には、内容がわかっていて信じない人と、内容がわからなくても信じないとの二手に分かれる。多くの人は後者に属するでしょう。


中村氏は、その後者に対して書き下したのがこの本であるはずなのにこれを読んだ読者は果たして、益々信じなくなったであろうか?それとも変心して信じるようになったのだろうか?


私?人間という動物は本当に色々な方便を考えつくものだとつくづく感心しました。これも、生きるための智慧なのでしょう。究極の目的が達せられるのであればどの道を歩んでも良いのではないかと思ってしまいました。


by 大藪光政