書物からの回帰-昆虫と花


この間、朝日新聞に、この本の紹介が書かれてあった。なんとなく、面白そうだったので、福津市の図書館にリクエストを出してみた。もちろん、新書だから購入してもらうことになる。これまで色々とリクエストを出してみて、取り寄せをしてくれなかったことは一度もない。感謝!、感謝!


いつもの納期で本が入ってきたので、読むことにしたが、町内でのソフトボールの試合後、準優勝の打ち上げ宴会など、二度にも亘る、とてもうれしい飲み会、すなわち、ご近所のお付き合いが色々とあって・・・、当然、飲み過ぎて、そのたびに早朝の午前三時とか四時に起きるのは、とても無理で、しかも、その酔いの疲れもあって、ついつい、この本をそのままにしていました。( 甲斐性が無いでしょう!)


そこで、やっと真剣に読み始めたのは、今日の午前三時になってからです。何故、この本に関心を抱いたかと言うと、別に、この本の良いうわさを知ったからではなく、仕事上、ひょっとして、参考になるかも?と思ったからです。


職務上、データベースの情報処理を行う時に、正規化も含めて、データベースを構築するとき、必ず、それを構築する企業の業務上の分類作業が発生します。その時、そうした分類力のスキルがなければ仕事はうまく行きません。


近隣の企業で富士通関連子会社が納めた基幹製造ソフトが、半年経ってもうまく使えないという問題に対して、解決の依頼が以前ありましたが、見てみるとなんのことはない、分類をうまくしきらないだけの事でシステムが稼動までには到らなかったのです。


ソフト会社は、データベースの整理はあなたたちのお仕事でしょうと言って、サポートしなかったのです。まあ、現場のことはわかりませんということでしょう。それで、原因がわかりデータが膨大だったので、分類作業をちょっとしたルーチンプログラムを組んでデータの階層の整理をしてあげると、たちまち、稼動することができました。


この企業の事例だけでなく、すべての仕事において分類手法スキルが求められます。たとえば、PCのOSである、ウインドウズやアップルなどのシステムにも“階層”という大切な階層構築の技術があります。


この階層は、系列としての分類が出来る仕組みなのですが、これは、データやプログラムなどすべての所在を構築するのに最適な仕組みなので、これを取り入れたアイデアはとても素晴らしいと思います。


そして、この階層を元にパスというアドレスが設定できるから、プログラムが、随時、必要なものに対してアクセスすることが可能なわけですね。でも、せっかく、立派な階層システムがあるのに、ユーザーは、その階層に対して、どれだけうまく分類して、きれいに運用しているか?疑問です。


そうはいっても、私自身も、わかっちゃあ~いるけど、面倒くさくて、適当な分類での決め方をしている場合があります。『灯台下暗し!』 (笑)


ところで、この本を読む本当の目的は、仕事のために上手な分類手法を学ぼうという魂胆ではなく、分類とは何か?といった真相や、何故、分類するのか?といった根源的な分類の動機も含めてその思想を学びたいという想いがあります。


生物学の中には、生物に対する立派な分類体系がありますが、どうも、三中氏は、そうしたところだけでの限定的学者ではなく、分類ということを学問として思索されている方のようです。ですから、色々な分野においても、分類というキーワードで文献をたくさん渉猟されているので逸話が大変豊富です。


生物という学科には、高校時代のトラウマがあります。それは、あとから考えると生物とは暗記する学科というイメージがあって、生物の権威ある先生から、植物の名前を覚えろ!と強いられたことから、物理学にくらべると嫌になったものです。また、分類体系というものを知ったのもその頃ですが、「門、綱、目、科、属、種」といったカテゴリーの図を見た瞬間、すごい学問だなとつくづく恐れ入った記憶があります。


でも、今となっては、そうした分類体系というものが、本当に科学といえるものか?と言った素朴な疑問を抱いています。それは、分類と言うものが絶対的ではなく、ある意味で目的に応じてカテゴリー展開が変わることもあるからです。


普通は、分類学といえば、まず、植物とか昆虫などの分類がすぐに頭に浮かびます。そして、この世に存在するすべての生物を果てしなく分類出来きそうなものですが、カモノハシ ( くちばしがあって卵で生まれるが、乳で育ち、前足は、水かきがあり、後ろ足は爪がある ) のような動物については、学者はいろいろと決めかねたようですが、そうしたどちらに分類されるか?といった問題もこの世には存在しますからこの世は面白い。


一方、こうした生物の分類作業とそうでなくて、先程述べたような仕事における分類作業とはどう違うのか?といったことも知りたくなります。ちょっと考えてみると、論理的には似たり寄ったりのような気もします。そうしたところで、この書物からは、分類学が如何に厄介な問題を抱えているのかを、著者から改めて教えられることになります。


たとえば、分類学を探求すると、必然的に哲学的課題ともぶつかりますし、分類学がある意味で非科学的な要素も含んでいて、混沌としたものであることに気付かされます。また、分類する世界というものが、閉ループの世界なのか?それとも限りないオープンの世界なのか?といったことも思い巡らしてしまい、『存在』 という難しい問題にぶつかり、誰にも、これに対して答えは出せない世界のようです。


しかし、この本では、そうも言いつつもこうした難問である分類というものを、三中氏は、面白いエピソードを交え、時には自身のことを語り、読者を退屈させることなく、話を進めてくれます。その技量はたいしたものです。


ものごとを分類する行為が如何に難しいかを考えさせる為に、三中氏は、第一球目にて面白い球を投げてくれました。


それは、小学生にもわかりやすい話でした。「日本でもっとも高い山は、どこ?」、「日本でもっとも長い川はどこ?」といった質問です。まあ、これを大人や小学生から中学生に対しても質問すれば、ほとんど誰でも答えられます。


ところが、次の質問が問題なのです。「日本でもっとも低い山はどこ?」、「日本でもっとも短い川はどこ?」・・・これには、子供たちはもちろんのこと、大人でも?と考えてしまいます。識別の基準となるものがないからです。


結論としては、『法律』 がこれを決定するということです。と、なれば、この分類は科学的とは言い難くなります。こんな調子で、三中氏は、面白く分類学が抱えている問題点を教えてくれます。


第三章の三番目のタイトルは、「今日のワタシは昨日のワタシか」というテーマで始まっていますが、これも、以前、私がブログで問うたことがあります。それで、考えていることは誰しも同じなのだなあ~と笑ってしまいました。これは、私の 『同一性』 を支えるものとして、『時空的同一性』 は、『種』 に関わる論議ではつねに表面化する論点であると、三中氏は言っています。そして、それは 『存在の学』 としての形而上学が長年取り組んできた難問であるとも書いています。


これは、肉体が常に更新されていると三中氏が言っているのと、同じように、心も常に更新されています。先程まで憂鬱な気分だった人が、宝くじに当たったことで、急に、ウキウキとした態度に豹変できるのは、時間軸に沿った状況の変化による心のアップデートですね。


長期的にみれば、小学校の頃は、とても出来の悪い子だったのに、社会に出て成功し、一躍立派な社会人となり、率先して多くの社員を引っ張っていく経営者になった方もいますし、その逆もある話は、どこにでも転がっています。


過去と未来は、現在という可変的な実在で繋がってはいますが、生身である人間は常に時間軸上で変化し続けているのです。だから、たとえば、人生の成功者という分類をしょうとするときに、その人が亡くなる最後まで見届けないと、判定できない場合が生じてきます。


となると、分類そのものが、科学的な手法で運用できないことを意味します。つまり、結果が定まってからの分類ということになり、法則性というものが分類には適用できないことになります。


もうひとつの話として、不気味な話は、「 分類学の『公理化』 」といったものを試みたジョセフ・ヘンリー・ウッジャーの変わった仕事の話です。、彼は、生物学における公理論的体系の構築を目指して研究を続け、1937年に、『生物学における公理論的方法』 と題した論理式だらけの本を出したのですが、この論文記載を見ると、まるで生物学とはほど遠い代数学の世界といった感じです。


DNAが遺伝子情報エレメントであることが判明したのが1952年ごろであるから、こうした科学者の模索もわからないではないが、生物体系すべてを論理的に数式化出来るほど生物の存在はシンプルではないと思うのですが、DNAの構造が分子生物学上、サイエンスとして受け入れられていますから、とても薄気味悪いところです。


つまり、もし仮に論理的にそして数式化できたとしたら、そうした仕組みを人間の手で作ることが可能だと言うことです。それは、科学者の手によって、新しい種だけでなく新しい体系すら構築できる可能性を秘めていることを想像させます。


人間が、神の手を持つということになりますか?


第8章の三番目には、「種をめぐる 『本質主義物語』 」と題された話があります。ここでは、プラトンを引用して、『方法論的本質主義』 というものと、物事には本質があると無意識に感じ取ってしまう 『心理的本質主義』 というのを取り上げています。


この 『本質』 という言葉から分類というものに対して連想されることは、『分類』 の本質は何か?とか、生物にとって多様性の本質は何か?といった哲学問答にもなりかねないようなことが頭に浮かんでくる。


それは、目的のない分類とか、目的のない多様性といったもの・・・つまり、戦略のない生物などというものが、存在するのか否か?といった問いと似ている気がする。


生物は、単なる偶発的な産物なのか?という大きな疑問にもぶつかってしまう。


これを言い換えると、『私』 という存在は、偶然、かつ、自然発生的な存在なのか?という自問になってしまう。


また、先程取り上げた 『心理的本質主義』 というものが、人の心に潜在的にあるということは、どういうことなのだろうか?何故、潜在的に仕組まれているのか?という疑問を抱いてしまう。


それは、置き換えると、誰が 『心理的本質主義』 を人間の無意識の中にプログラムさせたのか?と、想像してしまう。怖い話だと思う。


生物に限らず、この世のすべてには、本質が必ずあると固く信じているのは何故か?逆に言えば、この世のすべてに本質があるのは何故か?


もし、そうでなく、必ずしも本質があるとは言えないというのであれば、本質のない世界とは、いったいどんな世界を想像すればよいのだろうか?と、思い巡らすことが出来ずに困ってしまう。


この本の中身の紹介は、まだまだ終わりませんが、これを読み終えた私にとっては、初心である「分類とは何か?といった真相や、何故、分類するのか?といった根源的な分類の動機も含めてその思想を学びたいという想いがあります。」という課題のところで、当たり前ですが、解答を得ることはできませんでした。しかし、それなりの収穫はあったようです。


『分類とは何か?』 については、人間の便宜上の作法なのでしょう。何故、分類するのか?については、とりあえず、「考える人」が存在するからでしょう。自然はあるがままで、『分類』、という仮想的な枠を創ってはいません。ただ、一見、『あるがまま』 の世界が、実は、多様性を構築しながら “見えない世界” を呑みこんで混沌として在るだけです。


選別する。区別する。判別する。識別する。鑑別する。比較する。差分する。検分する。分ける。棲み分ける。・・・etc。


これらは、常に、とどのつまりは、群として、種として、隣人と共に生き抜く為の生活上の知恵でしょう。そういう意味では、自然が求めた必然的に発生して起きた行為でしょう。


by 大藪光政