今月は、少し難しい三冊の本を並行して読書しているから、読み終えるまで書評を書くのが停滞気味です。そんな時、月曜日に塾生の為の読書本を図書館から借りてきたのですが、その中に、「風の又三郎」を入れてみました。
宮沢賢治の文学は、児童文学的な扱いを受けていますので、絵童話集で見受けられるような一見子供が読んでもわかりやすいという風に思えますが、実際はそうは思えません。
この前は、多くの読書本の中に「どんぐりと山猫」の本を加えていましたが、これは、自分が小学校四年生のとき劇に出演していたので、懐かしく思って取り上げただけです。
「風の又三郎」の作品は、名前からして結構有名で知っていたのですが、どうしてか?どうも、読んだ記憶が無い。こうした自分が読んだこともない本を読んでもらうことも多々ありますから「風の又三郎」をそのまま子供たちに与えても良いはずですが、いささか迷いがありました。
塾生に読ませる本に、私の偏見があってはいけないと言う考えで、自分が読んだことの無い本についても、パラパラと見て、文章の難易度だけを確認して借りてきて本人に選んでもらいます。
つまり、塾においてそうした多くの借りてきた本の中から塾生が選ぶ時は、文章の難易度が本人と合うのかだけを確認して、あとは、塾生の好みに任せています。ところが 「風の又三郎」に限って、タイトルを知っているのに中身を知らないというのが、どうも今回、あんまりな気がして昨晩遅くになってから、ちょっと覗くように読んでみました。
読み始めて、すぐにわかったことが、自分の小学生の頃と重ね合わせて読んでいくと、似たような心象風景を思い出させてくれる作品だったということです。
小学校二年生を終業し、三年生の新学期からは鴨小学校から仁保小学校へと父の仕事の関係で転校しました。黒板の前に立って、先生が僕の名前を黒板に大きく書いて紹介してくれました。白土先生という眼鏡を掛けた、少し太り気味のとてもやさしい先生でした。僕は、そこで、ぺこんと頭を下げて挨拶しました。
仁保小学校は、生徒数が鴨小学校より、ぐうん~と少なく、まあそれでも、クラス単位の生徒は、学年が揃っていました。「風の又三郎」のように、ひとクラスで、凡ての学年が入ってしまうような山村の学校ではありませんが、とても小さな田舎の学校でした。ですから、現在はすでに廃校になっています。
いきなり、転校してきたばかりで、右も左もわからない私がどういうわけでそうなったのかは、よく覚えていませんが、学級委員長の選挙投票で選ばれてしまいました。クラスの学級委員長としての仕事には、想い出が色々とあったので楽しかったのですが、残念ながら父の仕事の関係でたったの一学期だけで学校を去ることになり、二学期は大浦小学校へと、移りました。
今度は、川岸先生という女の先生が、黒板の前に私を立たせて、きれいな字で名前を書き、紹介してくれました。自分の名前が書かれたときは、じっと見つめられる視線を感じて、少し、気恥ずかしい思いがしました。それは、炭鉱の町に在る比較的小さな小学校だったのですが、私の服装がモダンだったので、クラスの者にとって異端者的に映ったようです。早速、悪がきに、講堂の近くの校門の付近に呼び出されました。
まあ、生意気な格好をしているから集団でいじめてやろうとしたようです。私にとっては、上に兄が二人もいたので、そうした同級生相手に対して、別に怖いとも思わず、「なんだ、やるのか?」と、逆に、相手の一番強そうなのに、睨み付けて声を掛けました。向こうは、慌てて、何をするまでもなく引き上げて行ったのを覚えています。
この時期は、大浦小学校が炭鉱の公害による落盤で、教室の校舎が沈み込んだので、校舎を建て直す工事が始まっていました。それで、講堂を仕切って一部教室代わりにしたり、授業を二交代にしたりして、時間をずらして授業があったので、早帰り、遅帰りなどといった面白い学校生活を体験できた時期でもありました。
確か、その三年生の三学期に先生が、校舎、図書館などの落成記念として全校生徒に作文を書かせました。そして、忘れた頃に、どういうわけか入賞したとの知らせを受けました。その時は、作文コンクールだということを知らずに書いたので賞状を貰った時は、狐につままれた気がしました。
小学校四年生のとき、福岡学芸大 ( 現在の福岡教育大 ) を卒業したばかりの水本先生という新担任のクラスに入り、そこで多くのことを学びました。水本先生は、文部省のカリキュラムにとらわれず、自分がよいと思ったことをどしどし、勝手に自分で教育に取り入れていった、大変、当時としては風変わりな先生でした。音楽の時間は、音楽の教科書に無い、西洋のクラッシックから歌謡曲まで、そして、国語の教科書に載っていない、宮沢賢治の詩や物語を紹介してくれました。「どんぐりと山猫」の演劇をやったのも、先生の発案でした。
水本先生は、時々、授業をしないで、こっそりと下駄箱から履を出させて静かに外に抜け出すよう、生徒に指示して、クラス生徒全員を引き連れて近くのボタ山を登らせたり、大浦池に遊びに連れて行ったりして、そこで、坂本九の歌を歌わせたりして遊ばせてくれました。今だと、教育委員会から処分されるようなことを平気でやっていました。(当時、大浦池は、池と言うより湖のように大きな池でした。現在は縮小しています)
大浦池と言う湖には、その湖を見渡すようなところに石碑が立っていて、昔、雨乞いの為に人身御供として、少女が生き埋めにされたという話が伝えられていました。その人の苗字をとって大浦池と名付けられたと聞いています。でも、今になって思うと、いくら雨乞いの為とはいえ、生きた少女を干しあがった池の底に埋めてしまうような残酷なことを土地の人がするとは思えません。
これは、ずっと、長い間本当だったのだろうか?と、思い続けていました。そして、最近になって、私は仮説を立てました。恐らく、水飢饉の時、不幸にも病気か事故で死んだ少女をお墓に埋めずに湖底に埋めることを親が同意したのではないかと思っています。
この湖で水泳していると、泳げる人まで溺れて死ぬと言う事故が後を絶たなかったので、遊泳禁止となっていましたので、学校の先生からは絶対に泳ぐなといって、たたりみたいな大浦池伝説を話されていました。ところが、新任の水本先生が、なんとこの大浦池で泳いでいるという知らせがクラスに入って、早速、大浦池へ駆けつけてみたところ、先生は湖の真ん中をクロールで気持ちよく泳いでいました。後で、校長に注意されたとか言う話を聞いたような気がします。先生は、そんな迷信を払拭させたかったのかもしれません。
先生の指導が良かったので、科学者かエンジニアを夢見ていたこの私も田川市の作文コンクールで、四年生の二学期には、小学生の部で一位に入賞したのでとてもうれしかったのですが、もっとも驚いたのは先生の方でした。理科や図工が大好きな私は、国語の試験の成績がそんなに良い方ではなく、当然、通信簿はそれに準じていました。ところが、コンクール入賞がきっかけで次の通信簿の評価ランクがあわてて上がったので、親と一緒に笑ってしまいました。
大浦小学校に転校してからは、六年生の最後までいることができましたから、一番多感な時を山や川、そして池などに包まれた自然の中で、ゆっくり過ごすことが出来てよかったと思っています。それこそ、「風の又三郎」のように、風景の違いこそあれ、似たような自然と良き先生や友人に恵まれた環境の下で多くの経験を得ました。
今の子供たちが、こうした宮沢賢治の作品を理解するのには、少し、難しい気がしますが、そのまま受け止めるだけなら、それは、それでよいことで、大人になったときに再度本を開いて読むチャンスがあれば、賢治の世界を堪能できるはずなのですが、残念ながら多くの大人は、読む機会はそうないでしょう。何が忙しいのか、わからない忙しさで過ぎ去る人生ですから。
この「風の又三郎」について、宮沢賢治学会イーハトーブセンター理事の天沢退二郎氏は、この作品を「・・・一種の怪談であるといわねばなりません。」と、言って学校の怪談といったものを例に挙げて、この作品を批評されていますが、そんなことかなあ?と、首をひねりました。
その点、橋本光明氏が書かれたコメントには同感させられるものがあります。橋本氏は、「・・・風については単なるきっかけでなく、その場が一転するような異変を起こしたり、魔力を感じるほどの効果をあらわします。これが、さらに賢治の幻想を活発にさせ、異空間へと走らせているようです。」と述べられている。
賢治の作品は、詩的であり、音楽性を含んでおり、さらには絵画的でもありますから、この本に挿し絵が入ること自体、かえって下手をすると作品を損ねる気もします。ここは、やはり、読者の想像力にゆだねるべきでしょう。
この作品は、内容的には左程大した物語にするほどの内容ではなく、ごく、ありふれた学校生活と子供たちの遊び風景をスケッチしただけのものです。つまり、あるがままの自然な子供たちの出来事なのです。しかし、その描写にはとても詩と音楽を感じさせる力を持っています。
馬が逃げて、それを追いかけているうちに己がどこを彷徨っているのかわからなくなり、自然に対する恐れとその心細さを抱いた嘉助が倒れてしまうところの描写を読むと、ショパンの幻想即興曲嬰ハ短調が自然と聞こえてきませんか?
この作品を都会の子に読ませても、恐らく、こうした山や川で遊んだ経験があるのと、ないのとではまるで受け止め方が違うでしょう。それだけでなく、音楽に対する感性を持ち合わせていないと賢治の心を摑むことはできないような気もします。
この作品は、さらっとした美しさがあり、少し切ないバラードのような心持がします。だから、まるで音の旋律が風のように乗って彷徨う気分にさせられます。大人になって己のそうした子供の頃を思い出しながら、ショパンの旋律と賢治の心象描写とを融けこませて味わうことが出来るのは、やはり、大人でないと無理と言うものです。
子供がピアノ演奏において、如何に天才的なテクニックをもっていても、人生経験の乏しい心では、単なる旋律としての響きで終わります。それと同じように、様々な経験や苦労を経てからの鑑賞こそ賢治と向き合うことのできるひとときではないでしょうか?
by 大藪光政