福津市の図書館の奥に入ると、書棚にずらりと、中国古典文学大系全集 (平凡社出版) が置かれています。この本棚は、殆ど出入りがないせいか、歯抜けはありません。紺色の表紙に朱色で背表紙には、今回借りた本を例にとると、「 老子 荘子 列子 孫子 呉子 中国古典文学大系4 」と、記されています。
まあ、一般の方が近づいて手にするところを見たことがないですから、敬遠されているのか関心が無いのか?どちらかでしょう。こうした状態は、博物館の資料館という印象すらあります。そういう私も、中国古典文学という響きだけで、どうも西洋と比べて・・・身近なのに気が引けるのは何故だかわかりません。
以前、本を開いてみたことがありますが、何せ、フォントの小さいこと・・・6ポイント以下です。注釈は3ポイントぐらいで書かれていますから、虫メガネが欲しいくらいです。幸い、目の手術をしたおかげで小さな字が読めるようになったのでこの本を借りる気になりました。
今回取り上げる 「天瑞篇第一」 をはじめとした翻訳は福永光司氏がお書きになったもので、読んでみますととてもわかりやすい仕上がりとなっています。福永氏は、大分県中津市ご出身で東京大学文学部教授、京都大学人文科学研究所長、北九州大学教授などを歴任された方と聞いて、同じ九州人なので親しみが湧いて来ます。
この本の中では、列子が荘子よりもページ数が多かったので、意外でした。誰もが知っている『朝三暮四』も、この中に収められています。これらをすべて読んでいきますと、丁度、私が四月より開校した 『無量育成塾』 (学費全額免除の塾)のテクストに、イソップ寓話やトルストイの寓話集を使用したこともあって、おおむねそうしたものを読むのとそんなに雰囲気として変わらないものがあると感じました。
すなわち、列子の話も寓話だとして読めば楽しく読めるし、事実、福永氏の訳が大変わかりやすいので楽しく拝読している次第です。丁度、子供になってイソップ物語を読むのと左程変わりません。まあ、云ってみれば大人の寓話集でしょう。こんな本が図書館で誰も借りずに書棚に飾られているなんて、もったいない!
僕が、若くして目の手術(左眼だけ)をしたのも、実は、この全集を読みたかったからでもあります。
さて、『天瑞篇第一』 のはじめに、「 生成しないものが生成する一切万物を生成させ、変化しないものが変化する一切万物を変化させる」というのが第一として語られています。
これを読んで、「ギョッ!」としました。そしてしばらくして偶然、先日の朝日新聞の読書紹介で「宇宙を織りなすもの-ブライアン・グリーン著-青木薫訳」について尾関 章氏の書評に「・・・・これは、この本が点描する最新宇宙像の一つである。科学は今やブンガクの領域に迷い込んだようにも思える。・・・」と書かれてありました。
内容的には、同一ではないと思いますが、素粒子の世界においても、物質の探求と言う点において物質を構成する究極な素子があるのかないのか?あるとすれば、その究極素子には質量はあるのか?そしてそれは変化しない絶対的なものなのか?という科学で言えば解明、ブンガクでいえば問い詰めになります。
まさにこれを読めば古来中国では、物理学的なブンガクが展開されていたという証明がなされているわけです。取り組めば迷路に嵌ったような限りのない難問になりますが、やはりこうしたことを思考する楽しみを当時の知識人は持ち合わせていたのですからすごいですね。
物理学の世界では、究極の素子は粒子ではなく超ヒモで出来ているとも云われており、真偽は現在不明です。ですから、こうした世界は形而上の世界としてしか想像できません。そういう点では、ブンガクの世界と同レベルなわけです。
私がいつも不思議に思うのは、限りなく頑丈な金属の箱があってその中が空洞であると仮定します。そして、その中に入っている空気その他の気体やその中に入っているすべての物質を吸引して完全な真空に出来るマシンでもって物質がまったく存在しない真空状態を作ったとします。すると、その金属の中は本当に何も入っていないのでしょうか?
もし、まったく何も入っていないとしたら、その空間という体積は何を意味するのでしょうか?私は、それでも空間を占める未知のものが詰まっている気がしてならないのです。『真空』という言葉は、空気を含めたその他の物質が入っていないというだけであって、まったく何もないという意味だとはとても受け止められません。その中には、物質を除外しても尚且つ、物質ではないが、何かが存在している気がしてならないのです。
また、本当にまったく物質のかけらすら存在するものが無いとしたら、その空間の中においては、距離や時間と言う形而下の概念も意味をなさなくなります。( 形而下では物質が存在してこそ、初めて距離も時間も存在するという認識があるからです。) つまり、まったく物質が存在していない世界は無の世界です。
無の世界の 『存在』 といえば、言葉に矛盾を含みますが、そうした実験が可能であれば、一応、閉じられた空間における無の世界が存在することになります。それはひょっとすると数学的な概念の世界と同じかもしれませんね。でも、その箱の外側 ( 形而下の世界 ) においては、距離も時間も存在しますから、変な感じとなりますね。
光速に時間を掛けると距離が出てきますが、天文学では宇宙での星間距離を例えば、100万光年などと表示します。しかし、こうした距離は形而下では人々は認識できません。つまり、人にとっては1000万光年だろうが100億光年だろうが同じことで、計り知れない感覚だと云えるでしょう。
話が戻りますが、「 生成しないものが生成する一切万物を生成させ、変化しないものが変化する一切万物を変化させる」を、よくよく考えて見ますと普遍なものが変遷するものを仕切っているとして捉えられますが、理屈としては受け入れやすい理論だと思います。
それは、生成するもの・・・変化するもののおおもとが、もし、生成するもの、或いは変化するものであったとしたら、では、その生成するもの、或いは変化するもののもとをまた辿る必要性にせまられます。となると、限りのない、つまり、エンドレステープになってしまいます。
そこで、根源は生成しないもの或いは変化しないもので出来ているとすれば、そこで話がブンガクとして完結しますから説得力があります。でも、どうもそれも、怪しい気がします。物質の世界において、まったく変化しないものが存在するとしたら、それこそ、その世界は変な意味を持ちます。
また、「この世に変化しないものが存在する」 と云うあなたは、物質としての絶対的普遍なものを見たことがあるのか?という問いかけに対して、Yesと応えられないに決まっています。誰も見ることもできないし、その存在も知らないでしょう。
そもそも、物質は変化しうるものという考えの方がまともであると想定し、変化しないものというのは、すでに物質にあらずと言った方がいいかもしれません。でも、物質を構成している究極の素子が変化しないものであるとすると、そこに矛盾が起きます。
つまり、「物質は物質でないもので構成されている。」 ということです。この場合は、究極の素子で構成されたものが、『物質』という性質をもたらしていると考えるべきかもしれません。また、物質と変化しないある存在を取り持つものの存在というものまで想像したくもなりますね。
さてさて、科学はどこまで追求できるのでしょうか?おそらく、おしまいはお手上げではないでしょうか?それとも、神が創ったベールまで辿り着くでしょうか?もし、辿り着くことができれば、もう科学者も神のレベルまで一歩近づいたことになります。しかし、それでも、神は創造主、科学者はあくまで、それを証明できた人であるので、やはり、大きな違いですね。
たったひとつの列子の寓話で、これだけ想像が膨らみますから、とてもとても楽しい読書となります。
皆さんも列子を、お読みになっては如何ですか?
by 大藪光政