この前、『暗夜行路』を読んで、志賀直哉にすっかり騙された・・・と感想を書きましたが、夢の中で志賀直哉が出て来て是非、「和解を読みなさい・・・」と言う。それで、「今、荘子を読んでいるからそんな暇はない!」と答えると、「そんなに怒りなさんな・・・荘子も良いが、『和解』も良いと思う。文庫本でたったの100ページだからすぐ読めるだろう・・・」と、優しい目で見詰めて云う。
それで、読むことになったのだが、読んで納得!今までの経緯が良くわかる。不仲の父と子が和解するまでが良くわかる。それに、『和解』の中には、今度は『暗夜行路』の前身として『時任謙作』を書きあぐねていることも書かれてある。これも、『暗夜行路』と『和解』が、入れ子状態。
さて、読み終えた後に、安岡章太郎の解説を見たが、彼曰く、「 『暗夜行路』は、長編としては失敗作だという評価も出ている・・・」と書かれている。これを見つけて、やはりそうか・・・と感じつつ、もしこれをあの時、漱石が朝日新聞に出稿することを勧めたのを、志賀直哉が同意していたら・・・本当の失敗に終わって作家生命が消えていただろうと思い、本人の辞退は正解だと思った。漱石に、作家生命を絶たれるところだった。
ところで肝心の『和解』だが、この和解は父と子の"純粋和解"として解釈する読者が多数でしょう。(どういう意味で"純粋和解"と云っているのかは後でお話します。) しかしまあ、世の中には和解と言っても色々有りますね。裁判所の和解勧告もそうだし、和解そのもの内容は様々ですね。
そして、和解に到る条件は、現世利益であることが殆どではないだろうか?とくに裁判所での和解勧告には双方の利益を鑑み、裁判所が査定するわけですけど、その査定の多くが金銭での解決であったり、社会的権利の優位性であったりします。裁判での和解が、心の和解であるこということは数少ないですね。つまり言葉だけの和解というやつです。
裁判沙汰にならないまでも、和解は双方の損得の精算みたいなところが多々あります。では、この志賀直哉父子の場合はどうでしょう。『和解』に書かれてある内容では、そうした損得は表面には出てきていません。ただ云えることは現世利益として、父の高齢化にともない、老後のケアとしての問題と、子としての経済的自立にあったと思います。
現世利益というと、宗教でもこれがあるから皆、信者になるのであって決して無視できないところです。世の中、皆そうした現世利益を抱えて行動判断をしていますから、それなくして和解するとなればそれは"純粋和解"としての行為となります。
また、和解に到る行為としては二つの行為があります。そのひとつがロゴスによる行為です。そしてもうひとつがパトスによる行為です。この『和解』に書かれた父子の和解は後者のパトスによる行為だと思います。ですから、今までの経緯とか、その内容に関する精査はなく、ただその場のお互いの顔の表情から双方が意志と感情を読み取り、互いにただ涙するのみです。(二人とも涙は見せませんが心で泣いているのです)
世の中には、色んなパターンがありますからこの二つを組み合わせた和解も在るでしょうし、その両方も無い和解も在るでしょう。それは、偽装和解ですね。
芥川が漱石に尋ねた、「どうしたらあの志賀直哉みたいな文章を書くことができるのだろうか・・・」のところは、前回でも紹介しましたが、ひょっとするとこの『和解』を読んでそう感じたのかもしれません。そうだとしたら、皮肉では決してなかったでしょう。
『和解』を読むと、文章は淡々としていますが、その迫ってくる人の心の想いには胸を打つものがあります。おそらく飾らずに淡々とした展開がそうさせるのでしょう。そして父と子の和解のシーンがあまりにも自然です。ですから、読者は皆、"純粋和解"として胸を打つのです。パトスのみですべてが氷解する感動は人の心を揺さぶるのです。
漱石も私小説を『道草』で書きましたが、漱石の場合はお金をせびる義父に対する決別です。だから論理は通っていても、ちょっとクールな物語です。漱石と志賀直哉との違いは、ロゴスとパトスのウェイトが違うと感じます。漱石はロゴス。志賀はパトス。といった感じがします。
志賀直哉が比較的、長寿で漱石が短命だったのは、ひとつにはそうした性格の違いからきている行為のせいかもしれません。漱石は、新聞投稿義務といった職を抱えて、論理、論理の展開で苦しかったのではないでしょうか?その点、志賀は書けない時は書かなかったし、生活環境に工夫しながら急がずにじっくりと時を待つ・・・そんなところが、『暗夜行路』を仕上げられた要因だったのでしょう。つまり自然な生き方の中での創作活動です。
そして、『暗夜行路』と、『和解』の入れ子状態の双星みたいな作品で、初めて世に問うことが出来たような気がします。つまり、失敗作が立派に生き残ったのです。
これを読んであらためて自身に発生する対立に対して、どう真摯に和解していくか?また、その和解によって心を浄化できるのか?そしてそのことで自己の精神を昇華していくことができるのか?そしてそれは、すべて論理では尽くせない人情も絡めて成立させることが出来るのか?
と、次々に考えさせられるところです。
「どうでした?『和解』を読んでくれて・・・」と志賀直哉が問う。
「うむ・・・あなたが父に対して手紙で交わすこと止めて、直接会いに行かれましたね。それが一番の和解のきっかけですね。そして、あなたが父の姿を実家の家中を探して・・・部屋にいた父との和解シーンが始まる。その光景はまるで映画を見るように脳裏に映ってきましたよ。父と子の間において言葉は妨げになるだけで、必要だったのは相互の心から発する魂の叫びだったのですね。それは和解というより氷解ではないでしょうか?その氷解においては現世利益すら、なかったのですね。そしてその氷解により、周辺 (家族や親族) には春が来たように明るくそして、賑やかになっていく・・・そのシーンも素敵でしたよ。」
「そうかね・・・ありがとう。それじゃあ、まだわしの書いた短編が幾つかあるからそれも読んでくれるとありがたい。決してコマーシャルではないよ。」と笑って彼は消えていきました。
by 大藪光政