玄海温室の花


図書館のIT関連のところに、この本がありました。面白いタイトルだな・・・と覗いてみると、書いた人の経歴がなんと、小説家から色んなジャンルに首を突っ込んでいる異色の作家であることがわかりました。


どうしてこんな本を出したのか?と思って、つい借りてしまいました。第一章は『「紙に印刷する」という発想からの脱却』と題されていて、ここでは物書きとしてワープロ専用機、或いはパソコンのワープロを使用する是非について調査するため、作家に対してアンケートを取ったりしてその結果の実情を述べています。


鐸木氏は、自身の結論としてワープロはあくまでも単なるツールであるから、使い慣れた紙や筆記用具と同じと思って使用してもなんら問題はない。慣れるか慣れないかだけであると云われています。この点に関して異議はないと思います。


また、有名作家による手書きの文章は、後に価値が出てくることに対しては、別段その価値を否定されていません。でも、資料館などで、有名作家や詩人の直筆を見ますが、まあなんと殆どミミズが這ったような字ばかりなのでしょう。中には確かに達筆の方もおられますが・・・。


しかし、己のことを考えますと・・・字の下手さだけは同類だなあと思う次第です。恐らく深く考えながら文章を書くとどうしてもそうなるのではないか?と想像します。三島由紀夫の直筆を、彼が割腹した時に『天女五衰』の最終章のくだりが発表されて、初めて直筆で見たとき「ははあ~ん。三島は字を矯正しているな。」と勘付きました。


当時の新聞は、三島の字を達筆だと批評していましたが、あれは癖のないペン習字の手本をまねた字だと想像します。本当の達筆はもっと枯れた字だと思います。それで、己の下手な字もペン習字で矯正できると確信し、大学卒業後ペン習字をしばらくやっていました。するとやはり癖のない、きれいな字が書けるようになりました。(現在は元に戻っていますが・・・) 三島は自身の肉体まで改造したほどですから、当然彼のこだわりとして矯正したに違いありません。


話が少し反れましたが、下手な文字を書く人にとってワープロは福音なのは間違いないでしょう。でも、作家の多くは機械音痴が大勢おられるようです。あの池田晶子さんもパソコンワープロに挑戦して、結局使いこなすことは出来なかったようです。だからなのか?インターネットやブログに対しては批判的でした。ブログを匿名で書くのがけしからんとか、情報を手に入れることだけに対する疑問点などを非難していましたね。でもそれはそれで本当のことですから文句は言えません。


自分が出来ることで他人が出来ないとなるとちょっと不思議な気がしますが、これは性分といったところもありますから「機械をうまく扱えない分、他の人よりずっと思考能力があると思えばいいじぁありませんか!」と云いたいところです。


さて、作家の方は芸術家でもありますから、やはり直筆で作品を書かれる方がロマン的です。ここの本題である『テキストファイル』についての鐸木氏の様々なご意見は全体的にみて面白いと思いますが、大変残念ながら鐸木氏自身やはり、パソコンにインストールされているWordなるものとテキストファイル形式といったものに対して、いまひとつ正しく理解されていないと思います。


もちろん鐸木氏は『テキストファイル』の正体を正しく把握されていますし、そのことについては文系の方がよくもここまで・・・かなり柔らかい脳をお持ちだと・・・敬服します。この件については日頃、理系の技術者でもよく知らないで仕事をしている人を多く見かけます。ですから大変感心いたします。


鐸木氏の云われるとおり、『テキストファイル』は世界共通で互換がしやすい拡張子といっていいでしょう。それは、データベースの世界で『CSVファイル』に匹敵するものです。(CSVファイルは主に数値データを扱う時に使われます。) ですから、情報のやりとりではその方がうまく行きます。


たとえばブログに掲載する時はHTML形式なので、このアメーバサイトではWordで書いたものをそのまま貼り付けるとトラブルが起きます。他のブログではそれが回避できるか、又は兼用できるシステムになっているところもあります。このように現在、色々な拡張子での表現があり複雑な中、唯一共通している『テキストファイル』でもって文章を書くべきだと氏が云われているのでしょう。


でもちょっと待ってください。『テキストファイル』は確かに共通ですが、文章を書く作業性としては、やはりエディターではなく市販ワープロの方が大変すぐれています。行間隔も自動で取ってくれますし色々な点で便利さと見やすさは歴然です。問題は共通でないと言われるのでしょう。でもWordから『テキストファイル』に変換するのは至極簡単なのですから・・・『テキストファイル』なんてものは、あっという間に仕上がります。


しかし、鐸木氏はそれがやっかいなように思われています。それはやはりWordをご存じないからでしょうか?やり方はいたって簡単なのですが・・・何故でしょう。もし、氏が言われるように出版社がWordの文章を受け付けないと言われるところがありますが、出版会社の実情を直接知りませんが・・・もしそうであるならば、その出版会社のレベルは昨今のIT時代においてかなり低いものでしょう。


たとえば、このアメーバのブログにしても、ワードで書いてから、それをHTML変換とテキスト変換にも簡単に出来ますので、それをそのままブログに貼り付けることができます。またその逆も出来ます。部分保存をしながら書くということであれば、ブログサイトとワードを両方開いて文章が固まったところを順次ワードに転写していけばいいのでとても便利です。


機械のワープロ文章が、パソコンによるワープロに変わってから文書変換が出来なくなったということは、よく聞きますが、その変換ソフトも市販されています。しかし、うまく変換出来る場合と出来ない場合とがあるようです。それは、文章だけでなく色々な図や罫線など各社独自の約束がありそれが邪魔しているのでしょう。


ワープロは、文章だけでなく色々な図形や便利な機能が付いてしまっているから、互換が利かなくなってしまったのです。昨今のワープロには昔と違って『テキストファイル』やその他変換機能もついていますから、文章だけに限って云われるのなら、わざわざ不便なエディター(Windowsではメモ帳がそれに相当します)を使わなくてもワードが便利です。それがお好みでなければ一太郎もあります。


私は仕事としてエディターをよく使うことがありますが、それはプログラム作成の時です。プログラムはVBAにしても殆どがプログラム専用のエディターやメモ帳機能で書くようになっていますが、いざ保存という時はやはり、それぞれの拡張子になって保存されます。そしてプログラムの世界も互換という問題は尽きないほど山とあります。


鐸木氏が書かれたことについて述べるには、紙面が幾つあってもたりませんので、ここで著作権のお話をして止めにします。鐸木氏は、著作権証明機構なるものをお考えのようですが、残念ながらそうしたものを作ってもこの世がある限り、泥棒は無くならないのと同じだと思います。


著作権は、出版会社や著者に対する金銭の問題ではなく、創造者に対する敬意だというところでは同意見だと思います。しかし難しいのは、剽窃に関する識別でしょう。一般的な盗作とは、文章まるごとの引用、つまりそのままそっくりか、少し作り変えた程度の内容を自分の作品に載せることでしょう。それは、他人がちょっとみればすぐにわかるものです。そしてその出典がばれるか否かのところでしょう。


ところが、人の文章を読んで感動してそれを自身の中で消化してそれを新しい自身の言葉で表現した時、それはもう剽窃とは云いがたいところがあります。有名な作家の文章の中には、古典からの出典とか、同世代の無名人の文章からの引用を一旦、自身の中で消化して創り直したものがあるに違いありません。


そうなると何処までが剽窃で、どこからが創作かは難しいところでしょう。ましてや無名人の発言をそのまま己の言葉に変換して紙に書けば、誰も盗んだとは言わないでしょう。この問題は絵画や音楽にしても同じことが言えます。


多数の芥川賞受賞作家が新しく出現しては泡のごとく消え行く時代に、物書きが何故書くのかは人によりけりで、生活の為、人の為、世の為・・・と色々上げられます。経済的理由であれば、盗作だってするでしょう。そうした金や名誉欲しさに盗作をする行為を哀れんでも、きりがありません。そんなことより、己の行為が善い事なのか否かを問うことの方が大切だと思います。


さて、最後になりますがこの本に書かれていることについて賛同するところが多々あり、多くは真実だと思います。そしてそのことについては皆さんが直接お読みになったらいいのではと思っています。


by 大藪光政