わたしの想い | わたしの夢はどこに・・・

わたしの夢はどこに・・・

私ってなに?本当にGIDなんだろうか?まだまだ彷徨っています。
その中で多くの方のブログを見させていただいて、いろいろなことを教えていただきました。
このブログは自らの心の整理と、一つの事例として他の方の参考になったらお返しになるかな
と思って開きました。

 

前回の記事で「わたしのカウンセリングと診断書」をテーマに書いたので

  その前提となる”わたしの想い”について

  過去記事を振り返りながら、少し取り纏めてみたいと思います

 

過去に何度も書いていることですが

  わたしがトランス絡みでの一番古い記憶は小学四年生の頃

  多分学芸会で演じた小坊主の衣装の裙子が”黒のミニスカート”のようでドキドキしたことで

  そのころから女の子の洋服を目で追っていた気がします(自分史①小学校まで)

 

それでも具体的な行動は何もなかったのですが

  その後中学になり夢精を経験する前後においたを覚えたのですが

  その時一つだけ見つけた母のナイロンショーツを穿いていました(^O^;)

このころ生えだした髭をなぜか忌避して、毛抜きで抜き出したのですが

  それもいつしか間に合わず・・・           (自分史②中学時時代)

 

この頃はもうすでに

  ”ちんちんついているからおとこのこ”なのは疑ってはいなかったし

  いつしかなくなって女の子になれる、なんて夢は見ても

  ありえないことも分かっていました

でも女の子になれたらいいなぁ~

  なりたいなぁ~、とは(外に出してはいけない、という分別はありましたが)

  この想いは

  自分の心に蓋をすることなく

  心のすぐ下に抱えたまま

  途切れることなく今まで続いてきました・・・これがわたしがトランスする原点ですね!

 

ただ高校時代大学時代の時には

  クラスメイトの彼後輩の彼女にそれぞれの初恋を経験しますが

  家の事情(三畳/六畳の二間で個室なし)

  トランスに関することはほとんどありませんでした

    ※まだこの時代はトランスに関する情報というより概念そのものがなかったのです

      そして金銭的には

      基本的には親から授業料(千円/月)と教科書代くらいしか出してもらっていなかったので

      特奨の五千円はすべてクラブの練習会計(運転量に応じたGAS代)に消えていたし

      あとは長期休みの時にやっていたバイト代しか自由になるお金がなかったので

      クラブ活動以外に使う余裕もなかったのですよね~(^O^;)

 

そして本当の意味でトランス絡みの動きを起こしたのは

  最初の会社に入って三年目

  静岡に転勤して来て一人だけの生活が始まってからです

ちょうどこのころカルーセル真紀さんがモロッコで性転換手術をしたのは知っていましたが

  あくまでもひとごとで

  自分が性別変更するなんてことは思いもよらず

  ”女の子になりたい”≒”女装する” であり

  先ずは下着を求めることから始めました

そして長いなが~い時間をかけて

  通販だけでなく、リアルなお店も

  ランジェリーショップ、ブティック、コスメショップ、美容院と

  カムアウトしながら女性装で動ける範囲を広げては行きましたが

  あくまでも女装者としての活動でした

 

言葉(概念)がない時には

  それ以上には何もしようがありませんでした(^O^;)

  それでも、その時々で出来ることとして

  今の改名した名で通帳やクレジットカードを使っていました(^O^)

    ※これも改名時の実績資料にしました

この頃は、女性装する人はすべて女装者で

  一部はパソコン通信のフォーラムで得るものもありましたが

  わたしの情報源の一番は、初めての女装誌「QUEEN」でした

 

それで、人様よりもずいぶんと遅かったのですが縁あって結婚した時も

  まだ世の中にはGIDの概念は広まってはおらず

    ※DMS-ⅢでGIDの概念が提唱されたのは1979年でしたが・・・

  わたしは彼女に女装者であることは伝えました

 

そして二十年

  日々お仕事と子育てで忙しくしていましたが

  細々と女装はしていました

それが上の子が中学生になるころ

  「上の子が分かるようになるからやめろ」と言われたり

  「まだそんな趣味にお金をつぎ込んで・・・」と言われて

  だんだんとモヤモヤとしてきたのです

その頃には、埼玉医大での法令順守下の性転換手術があったり

  金八先生での性同一性障害の生徒のお話しがあったりして

  最後に特例法が施行されていました

 

ここに”性同一性障害”という言葉がわたしの耳にも届くようになったのです

  リブログした元記事でも書いていますが

  わたしは動くには言葉が必要なのです

言葉(概念)があれば

  わたしの心は定まります

 

それでわたしは”性同一性障害”という言葉を知って

  わたしが何者なのか定義できるのかな、と期待したのですが

  今の割り当てられた性別に強い拒否間のある”中核群”ではないと感じ

  極々甘く判断すれば”周辺群”には紛れ込めるかもしれないが

  どうもすっきりしない自分が居ました

 

それがDMS-Ⅳ/TRからDMS-Vに改訂されることにより

  GID(性同一性障害)からGD(性別違和)になり

  判断基準も

  これまでの”割り当てられた性別に対する忌避感”①②と共に

  ”反対の姓に対する強い欲求”③④⑤⑥の評点があがったのです

    ※DMS-Vでの青年/成人における性別不適合・・・『GIDについて考える資料』より抜粋

      ・A.経験あるいは表現された性別と割り振られた性別との間の
         顕著な不適合で少なくとも6カ月間持続し
         以下の項目のうち2個以上によって示される

       1. 経験あるいは表現された性別と第一次および/あるいは第二次性徴

         (若年青年期では予期された第二次性徴)との間の顕著な不適合

       2. 経験あるいは表現された性別との顕著な不適合感のため
         第一次および/あるいは第二次性徴から解放されることに対する
         強い欲求をもつ
        若年青年期では予期された第二次性徴を妨げようとする強い欲求

       3. 反対の性別の第一次および/あるいは第二次性徴への強い欲求.

       4. 反対の性別(あるいは割り振られた性別とは異なる他の何らかの性別)

         であることに対する強い欲求.

       5. 反対の性別(あるいは割り振られた性別とは異なる他の何らかの性別)

         として扱われることへの強い欲求.

       6. 反対の性別(あるいは割り振られた性別とは異なる他の何らかの性別)

         に典型的な感情や反応を持っているという強い確信.

 

これで、わたしは私をやっと定義付けられたのです

  ただそれは”性同一性障害”なのかというと
  わたしの心としてはどうなのかな??とは思っています
それでも(女♀にはなれないのは分かっていますが)
  女性として生きていきたいのは
  長年抱えてきた事実なのです
そしてその想いは
  三人の症例実績も多い専門精神科医に
  (虚偽の申告ではなく)ありのままに伝えて
  ”私は性同一性障害者である”との診断をいただいたのだから
  日本において公的には”私は性同一性障害者”
  その事実に基づいて
  手術要件も含めた特例法の求める五要件すべてをクリアして
  今わたしは女性になりました
 

わたしは配慮パスだろうが

  ただ日常の暮しを女性として暮らさせていただければよく

  それだけで十分ですし

  それ以上を求めることもしてはいません(^O^)

 

このことを誰かに指刺されることがあるとしたら

    ※二人のこどもと彼女(元奥さん)は仕方ないかな(^O^;)

  それには断固抗います!

    大学を22で出てから、71の誕生日までフルタイムで休みなく働いて

    二人のこども達を大学まで出して社会に送り出したのだから

    日本の勤労/納税/教育という三大義務をすべて満額でこなしたうえで

    法律に則って自分の想いを成し遂げたことを否定されることはない!と

 

補足として以前の記事『人生七十古来稀なり』で紹介した

  わたしの自分史年表の省略版を再掲します

  前の記事でも書いていますが

  もう一つ右側の列に[GID絡みの想い]として

  あまり公の場には晒したくないことも書いています