自分史② 中学時代 | わたしの夢はどこに・・・

わたしの夢はどこに・・・

私ってなに?本当にGIDなんだろうか?まだまだ彷徨っています。
その中で多くの方のブログを見させていただいて、いろいろなことを教えていただきました。
このブログは自らの心の整理と、一つの事例として他の方の参考になったらお返しになるかな
と思って開きました。

 

まだまだ人様からしたら、ある部分丸く成り切ってはいないところが残っているものの

  わたしもこの歳になって、それなりには繕うということを

  多少は身に着けてはきているのかな(^O^;)ということは感じています

 

でもその根本的な部分を色濃く表れているのが

  下の子かな?と思ってはいます

いろいろな面での考え方だとか、生き方の現れてくる部分は

  上の子がよく引き継いでくれている、というか

  似たような動きをしてくれますが

  より本質的な、考えるのではなく、心の思いによる動きは

  下の子がより近く、何も纏わずに表しているのかな、と感じます

 

そんな二人のこども達ですが

  誰しも彼しも友達になるわけではないですが

  いつも何人かの気心の知れた友はいる様ではあります

それでも(二人とも)

  独りになるのが絶えられなくて

  自分の意に染まなくても、無理に自分の意を押さえて

  仮初めの友達付き合いをするということはなく

  それくらいなら一人でもよい!

  という考え方を引き継いでくれているように感じています

 

そんな二人の子供の親であるわたしは

  中学二年の時の担任から母親は次のように言われたそうです

  「□□(旧姓)君は、クラス全員と違っても

      それが正しいと思ったら、一人でもやろうとする」と(^O^)

このことを学校から帰ってきた母に言われても

  何のことで言われたのか、本人は思い浮かばなかったのです

    (そのくらい日常茶飯事だった??)

でも、わたしはそのことを後で振り返って

  それが”わたしの自我の確立した時”と思うようになりました

そしてそういうことと裏表の関係なのかもしれませんが

  そのころからず~っと、いろいろな人に

  「おまえは変っている!」と言われ続けてきました

  (けっしてそのころから女の子の格好で外出していたわけではないのですが・・・)

だからと言って

  いじめられたり、つまはじきにされることもなく

  わたし自身も”変わっている”という言葉は、誉め言葉だと捉えていました(^O^)

 

そのある意味変わっていることとしては

  一年の二学期に ・・・・私達の頃は三学期制で、夏休みから冬休みの間の秋学期

  立候補して図書委員をやりました

    ※それから中学の三年間、クラスは変れどもずっと図書委員をやって

      それが高校に入ってからは、完全に三年間図書委員をやり通しました

  (高校の時の図書委員会は別として)

  後にも先にも立候補してなんらかの委員をやるなんて言うのは見たことないので

  このあたりも変わっているのだろうと思います

    ※少しきっかけは違うのですが、前の地の自治会では成り行きで部長を自らやりました

 

と言うわけで、「自分史」としては少し間が空きましたが

  自分史の②として中学時代

  そんな自我の芽生えだした時期ではありました

併せて、わたしの二つの大きな側面であるジェンダーに関することと

  将来のお仕事に関わっっていくコンピューター周りに関する

  具体的な動きを始めた時でもありました

  もちろん何の自覚もないままですが・・・

 

クラスメイトを始め女子との個人的な付き合いだとか・・・・もちろん男の子とも(^O^;)

  一人女の子に混じって遊ぶと言う様な事はありませんでしたが

  近所にも同い年の女子が3人いたので

  その子たちとの幼馴染としての付き合いは続いていましたし

  クラスの女子からは少女漫画雑誌を借りたり

  (小学校の時の様に)一緒に担任の先生のお家に年始の挨拶に行ったりはしていました

そういうわけで

  中学生になって、思春期に入ってきても

  特には女子を意識して避けて、男子とだけつるむようになる

  なんてことはありませんでした

 

でも個人的な性の問題と言うと

  中学一年の時に、先ずは夢精を経験します

  なんの知識も、前触れもなく、ある夜突然に(*_*;

朝起きて

  本当は”べったり”だったのでしょうが

  何も知らないわたしは”ビッチョリ”と感じ

  ”あぁこの年でおねしょするなんて!”と、びっくりするやら、かなしくなるやら(>_<)

  でもなんか変??とは思いつつも、コッソリと始末して・・・

そして、それから少しして

  家族みんなが出払っていて、一人で何気にいじっていると

  急に気持ちよくなって、暴発!

  そこで初めて先日の夜のことを理解したのでした(^O^;)

 

でもそれから

  母の下着やら水着を、押し入れの奥にしまい込んであった柳行李から引っ張り出してきて

  身に着けて一人遊びにふけるようになるのに

  それほど時間がかからなかったのはなぜなんだろうか??

    ※小学生の時には一度もそんなことはなかったのに・・・

それに伴って

  とげぬきをこっそりと買い込んで、髭を抜きながら

  (髭が)生えて来なくなったらどうしよう!?と

  矛盾した思いと行動の、自分でも纏まらない時期を過ごしていました(^O^;)

 

そして過去記事のお風呂に関する時にも書いていますが

  父親の帰りが、お仕事で毎日遅かったので

  小学生の内は母と一緒に女風呂に行っていたのです

  それでもさすがに中学に入ってからは、男風呂に一人で行くようになりました

初めて一人で男風呂に行く時のドキドキ感は今でも覚えています

  大きくなって、改めて女風呂に入る時の方が簡単に入った気がします(^O^;)

 

もう一面のコンピュータに連なる動きとしては

  その時は電子系の機械周りのなんか、ということで

  先ずは入学早々

  一年の担任に「(立)(業高校)に行けるかなぁ」と聞いていました

  そんな時に聞かれても先生は答えのしようもないでしょうが

  わたしも、その時どんな答えをしてもらったのかは覚えてはいませんねぇ~(^O^;)

 

そして三年の四月頃はまだ進学先は決めきれていなかった様で

  友達と周った学校見学では

    ※今の様なオープンキャンパスみたいなことはありませんでした

  県工/市工ばかりでなく、無線技士もいいかな?と、水産高校にも行きました

でもなんのかんのと言いながらも、中学では小さな小さな井戸の中の蛙ちゃんでした

    ※中学に入って最初のテストで学年14位(一学年600人中)

      ご褒美でもらったお小遣いで、フラスコ、ビーカーと言った実験器具をそろえました

      この実験器具を買ったお店では、大学生の時にアルバイトすることになるとは思いませんでしたが!

      そしてそれ以降も20位を下ることはなく

      三年生の時は5位を下ることもありませんでした(^O^)

  そしてわたしのこども達の辞書にはない”努力”を、わたしはそれなりにはしました

  その努力の甲斐もあって

  なかなかたどり着けなかったのに、三年二学期の実力テストでやっと一番

  それらも踏まえて、大学進学前提で普通高校進学校に進みました(^O^)

 

そんなこととは関係なく

  一年の時には、日本短波で「電子計算機講座」が放送されて

  まだまだ真空管からトランジスターに変わろうかと言う時期の電子計算機でしたが

  テキストを取り寄せて、ラジオからの講座を聞いていました

それからは

  AND回路やOR回路の動作結果を解いたり

  雑誌「電波技術」の回路クイズに応募したりして

  完全に理系の子が形作られていきました

そしてクラブ活動は、ラジオ研究部(略称ラジ研)に籍を置き

  二年生の時に電話級アマチュア無線技士の資格を取りました

    ※当時は、電波法規と無線工学の二科目あり全問筆記式でした

      受験の為に初めて一人で東京まで行ったのですが、受験とは別のドキドキもありました(^O^;)

      そしてその当時の最年少合格者は小学五年生でした

自分のシャックは持てなかったので、コールサインはないのですが

  その時に開局できていればJA1コールだったのですよね~

  チョット悔しい(^O^;)

 

中学の時は、当然のことながら

  まだまだ何も分かっていない時でしたが

  それでも後に思い出せるような具体的な行動を起こしだした時でありました

それは、運動が苦手でも、歌が下手でも、かっこよくはなくても

  自分でも自信の持てるモノがあるのがわかったから

  そして自分の想いを感じ、自我が芽生えだしたから

  ・・・

  なのかもしれませんね(^O^)/

 

 

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