「18、20を過ぎて、夢を持ったなら
人の意見は聞かずに、自分で決めること!」
と言うのが
この度アメリカ・アカデミー賞のメーキャップ賞を日本人で初めて受賞した
辻一弘さんの言葉です
今朝TVを見ていて流れたニュースの中で
辻さんの人となりを紹介しているコーナーで話されていたのですが
本当にそうだと思いますし、私自身もそうしてこれまで決断してきました(^O^)/
もちろん決断するための判断基準は
それまでの触れてきた情報の積み上げの中で創られ
その中には親を始め、地縁、血縁やお仕事や学校通しして
お付き合いのあった方からの影響もあるでしょうが
そこで醸成された心の基準と
いくら”最後の決定は自分でしたのだ!”と言っても
問題を目の前にして受けた言葉とは
意味合いが大きく異なるのだと思います
やはり自分の進む道は自身の責任、自分の持つ力量で判断すべきで
そこで判断ミスがあっても、それをどう乗り越えるのか
乗り越える力を養いながらも
すべて自分で抱え込むつもりで進まなければいけないのかな
と思ってきました
わたしの通った小学校、中学校は地域の学区の(市立の)学校で
ここまでは何の判断もありませんでした(^o^;)
そして高校への進学の時から自分での判断が始まりました(^O^)
もちろんまだまだ未成年、何をするにしても(特に金銭的な面では)親がかりです
当時でも高校進学率は70%くらいで
逆に言えば四人に一人は進学しないで就職していました
まだ金の卵の残りがいたころです・・・
そういう訳で、わたしも中学に入って一年の時の担任に
「わたし県(立)工(業高校)に行けるかなぁ」と聞いたものです
それが三年になって普通高校に進路変更した時
親に許可は取ったものの
その決定には親や先生の関与は承認のみで
誰に相談するでもなく一人で決めていきました
なぜ高校進学にあたっての親の許可!
いまのほぼ全員高校進学とは違うというものの
それでももう多くは進学していました
でもわたしが進学した高校は地域TOP高、ほぼ全員が大学に進みます
すなわちその高校に進むということは
大学に行っても良いのか、と言うことと
ほぼ同義だったのです(^o^;)
大学進学は
高校に入る時点で20%、実際に大学に入る時でも30%は超えていない時代でした!
もちろん当時ですから、「苦学生」という言葉も生きていましたし
定時制高校、大学二部もまだまだ多く残っていた時代です
そんな時代の中で、大学受験の歳になり、もう一度進学許可の確認です
決して裕福な家庭ではありませんでしたが
それでも親たちは”学歴だけはつけさせてあげたい”
だから行けるものなら行かせてあげるけれど
その条件は ①私学はダメ ==> 国公立
②下宿はダメ ==> 自宅通学
③浪人はダメ ==> 現役合格 でした
そうした高校三年の四月、県下一斉テストで数学がめちゃめちゃな点(ノ_-。)
それまでは理系に進んでHWとしてのコンピュータに携わるつもりでしたが
あと10か月で上の条件3つをクリアする大学・学部は???
ここで方針転換(^o^;)
俗にブルーカラー(現場作業従事者)は事務処理が弱い
そしてホワイトカラー(事務処理者)は現場作業が分からない!
それなら「わたしがブルーとホワイトの架け橋」になろうと
120度転身で経営/商学系に切り替えました
それでもその時の合格可能性はE判定15%未満(^o^;)
これが入試間際の最終模試でも50%くらいだったのですがね・・・
だからすべて落ちた時の為に郵政初級も受けて、そちらは一応受かっていたのです
結局受験したのは地元の国立経営学部と市立商学部と文理学部の二校三学部でしたが
郵政も含めて、受験した大学/学部の選択は全て自分での選択判断でした
当時の国立は一期校二期校があった時代で
先ずは一期校と同日での受験のあった市立商学部、引き続いて文理学部
そして二期国立の経営学部だったのですが
なんとか市立商学部が補欠で合格していたので、国立は気分的に落ち着いて受験できました
そのせいか国立も無事合格(^O^)/
と言っても120名募集で128名合格させて、わたしは123位(^o^;)
でも卒業するときには、何位で入学できたかは書かれませんものね!
ちなみに、受験した学部のこの時の名目倍率は53倍、実質でも35倍
その年の国内最高倍率でした(^o^;)/
そして10カ月にわたる大きな嵐も経験しながらも既定の四年で卒業!
ここで初めて誰の許可も制約もない状態での大きな方針そして決断
社会に漕ぎ出すための船を選びました
このあたりの就活に関しては今読んでいる本でも感じることがあったので
そちらに絡めて、別記事でアップさせてもらいます
そして会社都合でこの地に転勤してきましたが
その後二度の転社(職は変わらないので)も、今の仕事をやり続けるためと
自分一人の決断でした
・・・・ おかげさまで40年現場でお仕事継続させてもらっています
その上での「勝手にRLE」の時の行動ですが
この部分に関してはいろいろな異論があるであろうことは重々承知ですが
それまでの20年の付き合いの中で相手がどういう思考の持ち主なのかを考えたならば
どうすべきなのかをいろいろ考えての決断でした
わたしの判断としては土台が違う以上
相談したり、譲歩しあったりするものではないのかな、と思います
自分の考える軸が確立してブレないならば
寂しくはあっても、落ち込んでも、心虚ろうことはないのかな、と思っています