先日の「成人式 大人になる」で
大学時代の自動車部について少し触れたので
これまでもいろいろなところで書いてきたわたしの過去を
自分史という括りで、これから時代別に少し書き綴ってみます
先ずは、その大学時代「自分史④」です
家の経済事情では、高校を出たらすぐに働けと言われてもおかしくないのに
”現役で、家から通える、国公立”なら行かせてあげる、と言われ
わたしもそれなりには努力して無事大学に通えることになりました(^O^)/
当時は授業料も月千円、入学金やら大学生協の組合員費等々入れても四年間で十万円以下!
今なら国立でも年間50万~100万はかかるそうです
学部は、その前年に経済学部から分離した経営学部
高校三年の春までは理系に進学して
HWとしてのコンピュータに携わるつもりでいたのですが
三年春の県下一斉テストで、数学がメチャクチャな点数(*_*;
このままでは現役での国立工学部はムリ!
それでなら、コンピュータを使って
ブルーカラー(工場現場)とホワイトカラー(後方事務)の橋渡し
が出来たなら、と
同じコンピュータでもHWからSWへと120度進路転換して
県内の国公立大学にある経営学部/商学部を選択したのです
当時、やっと情報学部や経営情報学部が出来だしたのですが
わたしがその時に捉えていたのは、小樽や神戸といった遠隔地で
”家から通える”(下宿しない)という条件からは外れるので無理でした(^O^;)
※このあたりのことは、以前に書いた「夢を持ったなら、人の意見は聞くな!」や
これから書く「自分史③高校時代」に書きますので
よろしかったらそちらも参照してみてください
そんなにして入った大学ですが
やはり機械(メカ:おもちゃ)に触れていたい!
授業ではそれは敵わない(*_*;
それならどうする??
唯一触れられそうなクラブが自動車部!
新歓での勧誘文句の「クラブで運転免許が取れるよ!」にも惹かれて
入部しました ・・・・ ということで、わたしは自動車学校には通っていません
そして年明けて、それまでも70年に近づきキナ臭かった学生運動が全国的に盛り上がり
とうとう我が分校自治会もスト権が確立し、そして学校封鎖へと!(70年安保闘争)
※うちの大学では二年次以降の学部に分かれる前の教養課程の一年次は
学部自治会とは別に、全学部の一年生が加入する分校自治会が組織されていました
学部自治会は、過去の歴史からなんとなくそれぞれセクトの色が付いていましたが
分校自治会はその特性もあって、どちらかと言うとノンセクトラジカル主体でした
この学校封鎖の間は当然授業がありません
でもわたしは、バイトとか何か他にご用のない時には
ほとんど(自動車部の)車庫に行っていました
※当時の自動車部の車庫は、校舎外の工学部運動場の脇にあったので封鎖の影響はなしでした
ですから通学定期は継続して買っていたし・・・・当時は5日で元
そんなこともクラスの連中は知っていたので
闘争に積極的に参加していた人からも「俺たちの分まで頑張ってくれ!」と
逃走中にもクラブ活動を続けているのを受け容れてもらっていました(^O^)
一度車で構内に入っていてバリケードで封鎖された時には
バリケードを一部壊して出ていく事の承認も得ました(^O^;)
そんなこんなの闘争は
最初の8カ月は学生側の学校封鎖、その後2カ月の学校側のロックアウトがあり
うちの分校自治会が全国でも一番最後にスト権が解除されて
いつもの日常生活に戻っていきます
とは言っても
遅れを取り戻すために一校時110分というとんでもない授業でしたが
それでも経済/経営学部は、なんとか形を整えて3月卒業に間に合わせましたが
工学部の連中は、真面目にやってきて遅れがなくても5月卒業(^O^;)
それでも社会は特例で、その状況を受け容れたのです
そして東大入試がなかったのも、この1969年のことでした
おかげでわたしはかれとあえたのですが・・・
そして過去に何回か記事に出てきてもらっている
二度目の初恋(女性との初恋)の彼女と知り合ったのもこの時でした(^O^)
(わたしは出来ないのですが)下宿の人の処に皆で押しかけての徹夜の麻雀の時などに
みなの恋バナには入らずにいたのが・・・というか入れなかったのですが(^O^;)
いつしか惹きこまれてしまっていました
それから初めての一人旅の時にも、会社に入ってからの友との九州旅行の時にも
彼女の車を借りて旅してきました
その後大学の三年次くらいから会社入って二年目ぐらいまで
お付き合いはさせていただいたのですが
その時はわたしがまだまだ自分に自信を持てなくて積極的にアプローチできずに
結局は彼女の結婚でお別れすることになりました(-_-;)
それでも
その後わたしがこの地に転勤で移ってきて
お客さんの処から新茶を送ったり、年賀状の交換だったり
彼女も旅行に行ったりした時の絵葉書だったり
今でもお手紙だけですが、交流は続いています(^O^)
そしてわたしのもう一つの側面に関わることにもなっていった自動車部のことですが
うちの自動車部は全国的にも数少ない認証工場傘下に居ることになっていたので
部車は自分たちで整備して、陸事に持ち込んで車検も通していました
そうした環境だったので
わたしが役員だった時に
皆に声をかけて三級整備士(ガソリンエンジン)の資格を取り
(三級後二年の実務経験の資格を確保するために部則改訂して)
卒業後に(当時は最高位だった)二級ガソリン自動車整備士の資格まで取りました(^O^)/
そして三年の二月、寒い時でしたが二晩を使って
三千円の事故車からエンジン、ミッションとダッシュボードを外し
ついでに右の親指をドアに挟んで、痛みと不自由さで難儀しながらも
15万km走って廃車しようとした九千円の(初代)サニーに換装しました
それから車検も取って、卒業するまで乗り回していました
トヨタに行った同期の友は
「これが(復旧したサニー)お前の本当の卒研だな!」
と言っていました(^O^)/
もちろん部車も、エンジンやミッション、それに車輪周りに電装系等々
一通りは分解整備していますので
それなりに内部部品であっても一通りは分かるようになっていました
その時はその知識が後に役に立つようになるなんて露とも知らずで
逆に、部の仲間はそれなりの比率で自動車会社に就職しておきましたが
※スカイライン生みの親の桜井信一郎さんは、部のOBです
わたしは(当時)唯一の趣味を仕事にしてしまうと
何かの理由で仕事が辛くなると、趣味まで楽しめなくなるので
自動車関連を仕事にすることは考えませんでした、というか避けました
でも数年後、この地に流れ着いて輸送機器関連協力工場様とお仕事するようになると
本来はシステム構築とは、直接的には関係ないなのですが
それでもお客様の処で取り扱っている部品の意味が分かっていると
「さすがこの業界のことよくわかっているね!」と信頼され
お仕事をスムーズに進めるのに大きな貢献をしてくれました(^O^)/
また、授業では直接的なコンピュータ関連の科目はなかったのですが
それでも履修票なしの潜りで受講していた統計学の・・・翌年単位だけもらいました
先生が管理していた
NASAでも使われていて当時は最先端だった
タイプライター機能付きの小型コンピューターP203を使わせてもらって
最初の会社との連携もうまくいきました
この大学四年間は
まだまだ具体的な社会人としてどうなっていくのかの確立はしていなかったのですが
それでも、その後天職と思えるお仕事へと道は絞りこまれて行って
なおかつ仕事とは別の趣味、楽しみと思っていた車に関することが
わたしの大きな一側面となっていたお仕事に寄り添うようになる力を付けていました
そしてもう一つの大きな一側面であるジェンダーにおいても
わたしのジェンダーに関することを受け容れてくれて
その後わたしの定点観測者、心のアンカーになってくれた友と
巡り合ったのもこの時でした(^O^)/
それでもこの時には、性同一性障害なんて言葉はなく
自分がこの先で、なりたかった女性性で暮らせるようになるなんて
微塵も思わなかったのですが
結果として、この時からそこに向かって真っすぐに進んできたように思います
お時間はそれから半世紀近くもかかったのですが・・・
そんな今日の5年前には
下の子との練習ドライブで県東部に行ってきました
この練習ドライブで1000kmを超えて
取り敢えずはベースは終わったかな、と!
自動車部の時にも、練習ドライブでは先輩諸氏にさんざんお世話になり
やはり1000kmくらいが一つの目安となって
コーチャーが乗っていなくても運転できるマスター資格が与えられます
それからさらに乗ってから、コーチャーとして後輩の練習ドライブに付き合いました
わたしは女子も含めて、先輩後輩全員と一度は徹夜の練習ドライブに行っているのですよね!
そしてなんどかはかれにいだかれながら・・・
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