前回の「自分史」で大学時代④から中学時代②まで遡ってきたので
遡りシリーズとしては、今回の小学時代①で一区切りです
わたしの一番古い記憶は
四歳の時に弟が産まれたのですが
(私もですが)自宅での助産婦というよりもお産婆さんに取り上げられたのです
その時に、記憶の映像はないのですが
”隣の部屋に追い出された”という思いだけが記憶されています(^O^;)
その次の記憶は
小学校の入学式で、(弟がまだ小さかったせいか)
父が付き添いで来てくれていた、ということのみが思い出されます
※ちなみに、わたしは幼稚園は知らないのです
四つ下の弟は幼稚園に行ったのですが
わたしの世代は、こども達が徒党を組んで動けていた世代で
わたし達が近所のお兄ちゃんたちに(男の子も女の子も)連れられて
そして弟たち下の子を連れて歩いた最後の世代で
もう弟たちは近所で子供たちだけで遊べる環境ではなくなったのですよね
それから一年二年の時の担任の女先生の処に(二年のお正月に)
女子も含めたクラスメイト数人で、始めて子供たちだけで電車に乗って
お年始に行きました(^O^)
そして三年の時の担任は男先生で
どちらかというと贔屓されていたのか、通信簿の成績もよかったのです
でもある時、朝の先生の指示で校庭で遊んでいたのに
その指示を忘れたのか?なぜ校庭で遊んでいるのだと怒り出し
その時学級委員だったわたしの責任を追及するのです
子ども心に理不尽な先生のというか大人の対応に怒りを覚えた最初の記憶で
もう暦も一回りしているのに
まだ覚えているほどの出来事、というかわたしの一つの性質を現していますね(^O^;)
この後も、先生や上司に叱られたことは何度もありますが
その理由を自分で納得できれば、後に残ったり引きずることはないのです
でもこの時は、どうしても理不尽に思えて
今でも納得できていないのです・・・
そんな自我の芽生えを感じるような出来事のあった時期ですが
このころの学芸会で「一休さん」だったのか小坊主の出る劇があり
その時に小坊主の衣装で、白衣に腰衣(裙子)を身に付けました
この裙子が”黒のミニスカート”のようで
とってもドキドキしたのを今でも鮮明に覚えていて
これがわたしのジェンダー絡みの思い出の最初になります(^O^)
この時に芽生えた淡い想いがその後半世紀にも続いて
世の中の変化もあって、戸籍上だけではあっても
とうとう自らの性を変えてしまう処まで進んでいく事になってしまうのは
当然のことながら、その時は知る由もありませんでしたが(^O^;)
その時に灯った小さな小さな炎
その炎が徐々に心の中で大きくなってきて
いつしか女の子のお洋服を目で追いかけるようになっていました
でも当時の世の中、そして家の経済事情諸々合って
わたしと弟の服は、ミシンや編み機を使っての母の手作りが多かったのです
そうした中、そこで使われる毛糸は必ずしも新品ではなく
一度使ったものを編みをほどいて、薬缶口からの蒸気を通しての撚りの戻し
それらを組み合わせての再度編まれたセータは色が混じり
どうしても濁ったくすんだ色になってしまうのです(^O^;)
わたしもそれなりにはお家の経済状態は感じていましたが
それでも一度母に言ってしまったことがあります
「もっと明るい色の毛糸にして!せめて白い毛糸を混ぜてくれるとうれしいんだけど!」と
それを聞いた母は
一言「ごめんね」と・・・
その時の顔を見て、”あっ言っちゃいけないことを言っちゃったんだ!”
と後悔もし、悲しくもなりました
それからは
親には言っちゃいけないなぁ~とは思いつつも
それでも女の子のかわいいお洋服を見つめてしまうのは止められませんでした(-_-;)
そして、このことは何度か過去記事で書いているのですが
当時は四年生でそろばんを習うのです
でもわたしって、語学(会話)とか音楽、体育等々身体で覚えることは苦手なのです(^O^;)
そろばんもご多分にもれず・・・
だからと言って練習する興味もわかず
その時に”大きくなったら手のひらに乗る計算機を創るからいいもん!”
と思ったのです
※この手のひら計算機誕生の流れには
on-timeで横眼では見ていますが、わたしは間に合わずというより力なくですが(^O^;)
1970年前後に、日本のビジコン社がIntelに依頼した流れで4004プロセッサが生まれ
それまでの手回し式卓上計算機が電卓に置き換わっていくのです
「カシオミニ」が発売された時は、わたしの社会人一年生の時でした
※このビジコン社は、元は日本計算機といって
タイガー計算機と並んで、手回し式計算機の二大大手で
わたしもラリーではたくさんお世話になりました(^O^)
その翌年には、たまたま父が聞きつけたゲルマ(ニューム)ラジオの話をしてくれて
部品数も多くはなく、それほど高いわけでもなかったので
部品とはんだごてを買ってもらって
コイルをボビン型やスパイダー型といろいろ作り直しながら
小学生の間くらいはずっとそれで遊んでいました
というか真空管やらトランジスターといったいろいろな部品を買うお金がなくて
新しいコトというか、より高度の機材を組むことが出来なかっただけなんですが(^O^;)
でもその想いが、中学になって
ラジ研に入って、HAMの免許を取ったり
日本短波の「電子計算機講座」を聞いたりして
その延長に、先ずはHWとしてのコンピューター
そして後にSWとしてのコンピューターに移ってはいくのですが
その萌芽は、やはりこの四年生の時の想いなのかな、と思っています
わたしを形作る二つの大きな側面である
ジェンダーに関する問題と
お仕事に関する側面の
両方共が、この四年生の頃に芽生えていたのかな、と思うと
やはりこの十歳のころが、”二分の一成人式”として祝ってもいいのかなと思います
※ちなみにうちでは、上の子の時は
初めてだったので近所のレストランの「コースマナー教室」に参加して
そして下の子の時には
志摩スペイン村のホテルでのフランス料理フルコースをいただくことで
その経験を踏まえながら祝いました(^O^)
そして小学校の時の一番の思い出は
クラスのお友達男女4人ずつの8名で卒業記念で
向かいの房総半島の洲崎まで、フェリーに乗って日帰り旅行に行きました
その後、中学に入ってからの付き合いが続くことはなかったですが
五年生、六年生の二年間はクラス替えもなく
この8人はなんとなくつるんで、学校だけでなく互いの家に行ったりして遊んでいました
当時は、気の合う仲間・お友達というだけで
男の子、女の子という意識はあまりなかったのかな、と思います
それでもお洋服の違いはあり
かわいくなりたい、すきなお洋服で過ごすのに女の子になればそれが出来る、と
その想いはそれからず~っと途切れずに続いているのですよねぇ~(^O^;)
このことは、わたしを診断してくださった三人の先生にはお話しているのですが
それでも、この続いてきた想いでも
それぞれ10回弱一年弱のカウンセリングで
今の日本の「性同一性障害」に認定してもらいました(^O^)
ここで「自分史」の過去記事をまとめておきます
※本文内の青太字部部には、元記事のリンクが埋め込まれています
よろしければ、そちらも当該箇所をWクリックして飛んでみてください