自分史⑤ 入社試験~卒業、そして入社 | わたしの夢はどこに・・・

わたしの夢はどこに・・・

私ってなに?本当にGIDなんだろうか?まだまだ彷徨っています。
その中で多くの方のブログを見させていただいて、いろいろなことを教えていただきました。
このブログは自らの心の整理と、一つの事例として他の方の参考になったらお返しになるかな
と思って開きました。

 

四年前に上の子が、いろいろあって入った大学を卒業して社会人になりました

  わたしの「自分史」も大学時代から順に遡って小学校前まで行きました

  次は逆に、大学から社会人へとわたしの時を辿ります

 

大学三年の二月頃、教務の掲示板に次の様な案内がありました

  「学生を対象にしたコンピュータ講座」

  わたしが生まれる少し前に弾道計算機として誕生したENIAC電子計算機

  まだまだ簡単に個人で触れる環境にはなく

  そんな中、座学での講義だけではなく

  それはNASAにも納入されている世界初の卓上電子計算機P101を用意して

  実際に個々人で実機を操作できるとのこと

  それも顎足(昼食/交通費)付きでの三日間(^O^)

それでゼミの同期(わたしを含めて)三人で参加申し込みをしました

  主催が人事選考科で時期が時期なので、”罠だろうなぁ~??”とは思いながら!

  今で言う”短期インターン制度”だったんだろうなと思っています

 

その講座では、先ずはそこで使われるプログラム言語の講義があり

  その後、自分でプログラミングしたプログラムを実機を使って入力します

  ただこのころの電子計算機への入力は、直接入力するというよりも

  多くは事前にパンチングマシンを使って80欄パンチカードや紙テープを鑽孔して

  そのパンチングされたデータを読み込むのですが

  P101では実装されているキーボードから直接入力します

そしてこの講座での最終課題で

  わたしは講師の用意した解答プログラムより短いステップのプログラムを提示しました

  当時の小さな記憶容量しかない電子計算機では

  短さこそが良いプログラムの第一条件でした

 

そんなこともあってか

この記事で詳しく書いていますが

  講座の終了時には、入社の誘いのお話があったのですが

  その時は「少し考えさせてください」と即答は避けたのです

それから少ししたGW明けに(当時有名だった)一泊の合宿選考に参加して

  やはり後々語られことになったお風呂場での検討会

  それにガクチカで頑張ったクラブ活動

 

 

 

それやこれやで、無事入社が決まりました

  結局は、わたしの入社試験は生涯を通じてこの一回だけでした(^O^)

 

 

わたしの採用は、取り敢えずはSW職として採用された第一期生だったのですが

  どういう基準だったのか、(四年の)秋に人事部に呼び出されて

  はじめは営業をやってみないか?とのことでした

わたし自身は、営業の自信なんてからっきしなかったのですが

  会社が言うのであればこれも経験と、それを受諾しました

 

そして最初に入った会社は外資だったのですが

  当時は12月入社、3月入社、4月入社と選べたのです

  それで後は定年まで働き続けるのかと思うと

  当然のことながら、わたしは四月入社を選んでいました(^O^)

    ※後に、入社何年の周年記念が一月現在なのを知ったのですが

      12月入社以外は、ほぼ1年遅れでの表彰になるんですよねぇ~(^O^;)

 

あとはスムーズに卒業できたのか?

  というと、そんなこともなく

  卒業にあたっては少しバタつきました(^O^;)

というのは、単純に単位不足!

  わたしはC群:選択科目は

  履修票も出していない統計学の単位をもらえたりして

  好きな科目はドンドン取っていたので十分にあったのですが

  B群:選択必修科目はギリギリ単位数確保でなんとかセーフ

  でも一番大事なA群:必修科目は8科目の内7科目取らなければいけないのに

  四年生でも、簿記と経済原論A(マルクス経済学)が取れていなかったのです

卒業するには最低一科目、簿記か原論Aのどちらかを取らなければいけないのです(*_*;

  でもこの簿記、基本は一年次での授業

  それから四年間履修票は出してはいますが

  (どちらかというと)実技科目は、実際に作業しないとねぇ~

  ということで簿記は諦めてマル経の原論Aに絞ったのです

でもある時、夕方にお家に帰ると

  母から「学校から電話があって、レポートが通らなかったから再提出」と言われたと!

  それで、すぐにクラブの同学部の一期下の子の処に行って参考書を借り出して

  レポートを再提出しました

  おかげさまで紛争後のどさくさに紛れてなんとか卒業することは出来ました(^O^;)

 

そして卒業式はなくて

  四月に入社してすぐに、一カ月間の合宿研修があります

  当時、研修所は箱根の姥子にあった小涌園芦ノ湖別館を借り切っていました

そこでは朝から晩まで一日中、会社のこと、お仕事のことやら

  名刺交換等の仕事上のマナーまで、いろいろな授業がありました

そしてこの中に、わたしが入社のキッカケになったP101の授業もあったのですが

  この時先生が「今のテスト満点の自信のある人手を挙げて」と言ってきたので

  わたしは迷わず手を挙げていました(^O^;)

  手を挙げたのは私だけでしたが、満点でしたよ~!

それにP101講習の後に

  お客様向けに開いていたP203講習も受けさせていただいていたのですが

  大学にあったP203を使ってラリーチャートのプログラムを作っていたのです

  そのプログラムを授業中に走らせて、ラリーチャートを何冊か造っていました

 

そんなこんなで

  入社試験の時から目立つわたしではあったのですが

  研修でも相変わらずで、本人はそんな気もないのですが

  本社でも、変わったのが入ってきた!と、話題になっていたと

  後で聞きました(^O^;)

  わたしの変人伝説、健在でしたねぇ~~

 

そしてお山(研修所)を降りて最初の赴任地は、鎌倉

  事務所のあったのは駅裏の御成地区でした

そこから、わたしのテリトリーだった藤沢市まで

  ほぼ毎日江ノ電で、営業に出かけます

営業は、それまでの先輩諸氏が作ってきたバフカード(訪問履歴カード)をベースに

  飛び込みを混ぜながら会社や商店を巡って計算機を売るのですが

  最初に飛び込んだ江の島の商店ではなかなか入れない(*_*;

でもなんのかんのと理由を付けて、次のお店に行ってもきっと次もダメ

  それならば、なんとかこのお店に入るしかない

  お店の前で躊躇すること何十分

  なんとか飛び込んでお話しするも、何を話したかは全然覚えてはいませんでした(^O^;)

それからはナントかお店を廻ることが出来るようにはなりましたが

  この時の思いはその後もずっと心に刻み込まれていて

  SW職に移ってからも、営業が大変な思いして取ってきた案件は大事にしたし

  その後、当時は大事にされなかった同行営業も

  すすんで行うようにしていました

 

営業周りも二カ月が過ぎようとした頃

  こいつに営業させていても仕方ない、と思われたか・・・それでも販売記録は1台計上

  元々の日程だったのかは分かりませんが

  またお山(研修所)に上がれとの所長からの指示がありました

 

二度目の研修は、本来のSW職になるためのプログラム研修が主でしたが

  使用できる機材が圧倒的に少ないので徹夜もあったためか

  5週間で今回は2kgの体重増

最初の4週間の研修では8kg増えていて

  さすがに営業で廻っている時には増えはしなかったので(減りもしなかったけれど)

  結局は会社に入って4カ月で10kg増えていました(^O^;)/

 

そんなして配属されたグループの長は

  当時いくつもの信金/信組に納品されていたプログラムを書いた伝説のプログラマーで

  その翌年には、私の上の人たちと集団脱藩して会社を抜けて行ったのでした

  結果この人に指導を受けたのは、ほんの半年チョイだったのでした

  でもこの間に、仕事はどうするのかということを徹底的に教えてもらいました

もちろん、わたしは大学を出てから三社に勤め

  ほぼ半世紀ずっとどこかに所属はしているので

  組織的には必ず上長にあたる人は居たのですが

  わたしが本当に(お仕事を含めて)上司だと思った人はこの人一人だけでした

そんなわけで組織人にもなり切れず

  多くの期間一匹狼的な立ち位置で、組織の中を泳いでいました(^O^;)

 

この大学四年から、社会人二年目くらいまでの期間は

  わたしが互いに思いを通わせながら女の子(初娘)と付き合っていた唯一の期間でした

  年末年始には初詣に行ったり

  初めての一人旅で能登に行った時や

  会社に入ってからの友との九州旅行で車を借りたりしました

そして最初の研修が終わった時には

  荷物運びに誘って箱根までのドライブをしてきました

  わたしの一年後に彼女が社会人になった時には

  会社帰りにうちの会社に寄ってくれたのですが

  その時お仕事なんてほっぽり出して

  一緒に帰っちゃえばよかったのですが

  流されて帰ることはできませんでした(*_*;

そればっかりではないのでしょうが

  その頃は自分に自信が持てずに、釣り合わぬは疎遠の元と

  積極的にはアプローチ出来なかったのです(^O^;)

結果その年の暮れに

  「私、来年結婚します」と言われてしまいました・・・

  その後のお正月に飛び出した、東京~釧路フェリーでの傷心旅はまた別に

 

 

※本文内の青太字部部には、元記事のリンクが埋め込まれています

  よろしければ、そちらも当該箇所をWクリックして飛んでみてください