ご冥福を心からお祈り申しあげます
もちろん、わたしは大学を出てから二回の会社の移籍はあったものの・・・・転職はしていません!
途切れることなくず~っといずれかの会社に籍を置いていますので
何らかの部署に所属して、当然のことながら上司はいました
しかし、こと仕事そのものの指導を受けることも含めた上司はこの人だけなのです!
わたしの最初に勤めた会社は
その製品が美術の教科書に載っていたり、当時入社試験が合宿選考で有名だった外資系の会社で
わたしは新卒で採用されたSW専門職の第一期生、四カ月ほどは営業経験もしましたが
その後に配属された東海ASWGのスーパーバイザーがこの方でした
当時は機械も高くて台数もそろえられず、コード入力、デバッグによく徹夜もやったものです
それでも皆若く、先輩といってもせいぜい数年上
結婚している人もバイザーと名古屋のリーダーの二人だけで
あとはみな独身だったので、毎日誰かしら飲みに行っていて、こんな私でも週一くらいには付き合って
帰りはわたしがバイザーの車を取り上げて、皆さんを各戸に送り届けていました
(元自動車部としては飲酒運転なんてもってのほかでしたので・・・)
社員旅行には家族やフィアンセも一緒の和気あいあいの旅で
わたし達メンバーは東海ASWGのメンバーと言うよりも、東海○○一家の構成員で
会社という組織との接点は、バイザーである○○さん一点でつながっているという感覚でした
当時扱っていたコンピュータは、まだまだ混沌としていた第一期のオフコンで
1セル32桁の機械語で書かれていました
そしてわれらがバイザーはこれを使って芸術的なプログラムを書いて
小規模金融機関であった信金/信組で使う日計総勘を走らせていました
わたしはこれの改良と言うか機能拡張を行うことになったのですが
機能拡張そのものはなんとかこなしたのですが、わたしは機能拡張以上に
このプログラムのバグ探しに一生懸命になって、やっと一つ見つけました(^o^;)
そんなこんなの一年(というか9月からの配属でしたので実際には一年ないのですが)
いろいろと仕事の仕方というか考え方を叩き込まれましたが
翌年度が始まる前に本社のメンバーとわたしが属していた東海ASWGの横浜メンバが集団脱藩して
会社を興してしまったのです(^o^;)
その時わたしもそれとなく誘われたのですが、考えがあってそれはお断りしました
もちろん組織ですからそれなりに人が配属されてきて、グループ長もいらっしゃるのですが
わたしが扱ってきたマシンには素人、あくまでも組織の管理者でした
別にその人が嫌いとか、能力がないというのではなく
わたしの扱ているシステムの助言はもうしてもらえなかった、と言うことです
このことはその後、静岡県内ユーザのお守りで静岡に転勤してきても
さらには浜松に流れて製造業のシステムを手掛けることになっても
だれからも仕事上の助言を受けることはできなくて、常に仕事そのものは
最初の一年以外は100%一人での試行錯誤の繰り返しでした(^o^;)
もちろん最初に一緒に配属されて一緒に中国~九州~四国と旅した友には
いろいろと相談はしましたが、お仕事の指導を受けたというのは、
最初の一年に、このバイザーから受けたものだけでした
それだけバイザーから受けた指導は印象深いのですね!
今回連絡していただいた方が名古屋のリーダーだった方で
一時期は斜め線の上司というか、直属の所長ではわからないSW職としての監督者だったのですが
この方にはかなり早い段階でカムもして、受容していただきました
そういう訳で形の上からは大学を出てから今までず~っと会社に属している人間なのですが
いままでお世話になった3社とも規約にない就業の仕方が半ば公然と認められ
組織に属しながら組織とは緩やかな関係でいる居場所を創り続けてきました
わたしは形の上では組織人でありながら
ある意味組織からの縛りはゆるく(本人感!)
同僚はいても仕事をする上での上司、部下と言うのは感覚的にいない形で
ここまで来てしまいました(^o^;)
最初の会社のある時にわたしの属していた部門長(後に初の生え抜きの社長になった方)から
(私の父が絵を描いていたので)
「おまえはそれでコンピューターというキャンバスに、システムという絵を描いているのか!」
と言われました
その職人気質の原点はわたしの父親の血であり
それを形付けたのが唯一の仕事上の上司であるバイザーだったのだと思います
その意味では期間こそ一年に満たない短い期間でしたが
十二分に影響を受けたのだと思いますし、素晴らしいことだったのだと思います
上司というよりも、職人としてのわたしの親方だったのですね(^O^)
感謝いたします!
死因はなにも聞いていないのでわかりませんが
バイザーが安らかに眠られることを願って
ご冥福をお祈り申し上げます m(_ _ )m