先週、今週と立て続けて40年位ぶりに、最初の会社での同期のお二人にお会いしました
そのお話の中での中心は、その後のお仕事でのお話だったのですが
お二人とも転職を何回かされていました
わたしも2回転職しています
でもお二人とも最初の転職では、OCJでの職務の延長にあったようで
当時オフコン御三家と言われた日電、東芝、三菱に続いて
オフコンの興隆も見越して参入しようとしていた各企業に転職して行ったのです
ただその後は、元々の職務から離れた職務に移っていたようです
一つの職務を生涯続けることだけが幸せだとは言いませんが
それでも、わたしは、”わたしが生涯ひとつの仕事をやり通せた”ことを
とっても幸せなことだと思っています
ただその当時は、毎日毎日お仕事に追い回されて
ヒイコラ言っている時もあったのは事実ですが
どんなにしんどくても”明日は来る”と思ったのもこのころでした
それで一度わたしのお仕事への想いを整理してみようかなと・・・
わたしのお仕事に絡む思いは、小学四年生まで遡ります
当時は算数のお時間に四年生になるとそろばんがあるのですが
身体で覚えることが苦手なわたしは、どうしても馴染めませんでした(^O^;)
それでその時のわたしは
”大きくなったら、手のひらに乗る計算機を作って、それで計算するからいいもん!”
と思ったことをず~っと覚えているのです
そのころ併せて、父から鉱石ラジオの話を聞き、コイルを巻いて、パーツを組立
、 稚拙とは言いながらも電子機器の片りんに触れたのだと思います
そしてそのころが
GIDのわたしとしての明確な思いのある事柄の最初が
学芸会での小坊主の腰衣(裙子)がミニスカートの様で
とってもドキドキして、うれしかったのです(^O^)
そんな前触れがあって
中学一年の時に日本短波放送で「電子計算機講座」が始まりました
そして中学で入ったクラブがラジオ研究部
HAM(アマチュア無線)を運用している先輩もいて
機材を買ってもらう余裕もなかったので、自局の運用をしたことはないのですが(*_*;
あの時に開局できていればJAコールだったのです・・・
このころには電波技術と言う雑誌に毎月回路の総抵抗値を求めるようなクイズがあり
それに正解すると名前が載ったので、毎号応募していました
中学に入ったころは大学進学なんて思ってもいなかったので
一年の担任に「県立工業に行けるかなぁ?」とか
HAM免許を取ってからは、無線士になる前提で地元の水産高校も考えたりしました
そんな中で、このころは漠然と将来はコンピュータ関係に携わりたいな!
それはHWとしてのコンピュータなのですが
そんな思いが芽生えていました
ただその当時の進学率は、高校でやっと70%くらい
大学進学率は、高校受験時で20%、高校卒業時でも30%くらいでした
でも中学での成績はそれなりだったので
取り敢えずは地域のTOP高に進学しました
この高校に行くということは、当時であっても基本的には大学進学を目指すこと
親にこの高校に行ってもよい、と言われたことは
取り敢えずは大学進学の許可を得たことでした(^O^)
ただ大学進学については
本来ならば進学させる余裕なんてない暮らしだったので
現役で、(下宿の必要のない)地元の、国公立ならば、という条件が付いていたので
大学受験時には、最終の滑り止め?として郵政初級の試験も受けていました
ただ高校三年時の春の県下一斉テストで
数学がメチャクチャな点だったので
これから一年頑張ればいいじゃん、ではなく120度方針変換して
コンピュータHWの技術者ではなく
その当時大学の教科としても取り上げられ始めた情報科学というSW分野に
目を向け直しました
でも当時の国公立大学で、情報系の学部学科を持っていたのは
小樽と神戸にもう一か所、みんな遠隔地でしたので(自宅通学の条件外)
それで県内の経営/商学系の学部のある大学にしました
大学生活は一年の一月より、最後の全国規模の大学紛争に突入し
その後10カ月の学生側と大学側の学校封鎖があり
解除された後も積み込みの単位時間をこなしただけの学校生活でした
でもロックアウト時もその封鎖範囲の外にあった自動車部の車庫には
ほぼ毎日顔を出していました・・・・学生定期は5日も通えば元が取れた
さらには、我が自動車部は認証工場の傘下にある形を取っていたので
わたし達が役員の時に、同期のみんなと三級の整備士免許を取っちゃいました
入社試験の時に
「□大自動車部卒です。余暇に経営学を少しかじってきました」
と言うほどのめり込んでいたのですが ・・・・ 今で言う”ガクチカ”ですね
その時は趣味と言えるものが”自動車”だけで、他に何もなかったので
唯一の趣味を仕事にする気はありませんでした
もちろん自動車部ですから(特に)工学系の人は自動車会社に勤める人は多く
自動車部の先輩には、スカイラインの生みの親である桜井眞-郎さんもいらっしゃいます
大学の授業でというよりも
最初に就職したの会社で開催していた「学生対象のコンピュータ講座」を受講して
モグリで受講した統計学の先生が管理していたP203を使って
自動車ラリーで使う「ラリーチャート」を作ったりして
自動車とコンピュータ相互を繋ぐことを始めたりしていました
そしてそのまま最初の会社でのSW職採用の第一期生として採用されました
この記事の冒頭で書いた二人は、この時の同期生です
この当時、コンピュータのSWエンジニアはみんなプログラマーで
最新機材のコンピュータを扱う先端技術者ではありましたが
職業としてはまだまだ黎明期の、これからどうなるかわからない不確定な職業でした
エニアックが生まれたのが1946年、わたしの生まれる三年前
コンピュータ自体が、当時はまだ30年も経っていなくて
入社直後くらいにワンボードのマイ(クロ)コン(ピュータ)が世に出たころでした
数年後にケースに納められた製品としてのPC8000やMZが出てくるのですが
わたしも自分でPC8800を購入して
自分の扱っているコンピュータとパソコンは何が同じで何が違うのか確認しました
その後も、自分のシステムをPC-CSSとして実装するまで、横目で追いかけ続けていました
そして入社して扱ったコンピュータがオフコン初期の一台でした
それからリタイヤするまで48年、すっとオフコン一筋でした
オフコンと言うと、今はCOBOLで動く汎用崩れの小型コンピュータ
のイメージがありますが、それはほんの10年20年のこと
その前は各社いろいろな形式で
わたしで言えば、機械語から始まって、アセンブラ、PL/1、COBOLと変わり
今はPC-CSSがオフコンの位置づけになるのだと思っています
そうして最初の会社での二度の転勤でこの地に移ってきて
その時に、この地の自動車部品製造の協力工場で親メーカから送られてきていた
納品カード&注文指示の80欄パンチカードの処理に悩んでいたのですが
それを解決するシステムを構築したのが、私のsystemのスタートでした
もちろん今振り返ればとっても簡単なシステムなのですが
当時のパンチカードリーダーの読み取り精度は
既定のコーディングは誤読率30%くらいで、商品になり得ませんでした
でもわたしが独自のHW的な発想での補正加えたコーディングすると0.3%と改善
その補正を外せば、また30%のエラー
0.3%のエラーは、さらにチェックディジットのチェックをかけることで
エラーデータが取り込まれることは無い様にはしていましたが!
こうして協力工場様とのお付き合いが始まったのですが
この時お客様が造っているモノは自動車部品、それも内部の構成部品
それでも自動車部で、エンジンやミッションも含めて
ほぼ全ての部品を分解し、組み立てたことのある、そして二級整備士の資格も持っている
わたしは、それらの部品がどこでどう使われるのかが分かるのでした
本来この知識は、システムを作ること自体には関係ないモノなのですが
お客様は、こんなことも知っている私のことを
まだまだシステム的には未熟だったのに、それなりに評価してくれました
これが大学時代に得た知識で一番役に立ったモノでした(^O^;)
このころは、やっと中小企業でコンピュータを導入しだして生産管理に使おうかと言う時期で
まだまだMRPなんて親メーカでも実装されていない時期でした
わたし自身も何も経験がなかったので
始める時には先輩諸氏にも相談に行ったのですが、誰も経験していない
仕方なく、先ずはお客様の言うことをシステム化するにはどうするか?
ただ単にそれを考えながらの第一期12社のシステムを二年で納品しました
==>このうちの5社が43年経って
何回もヴァージョンアップしながら、まだユーザーでした(^O^)
その納品の過程で、このシステムを今から造るとしたら
どう整理統合できるのかを半年ほどかけて検討していました
そしてある機会を捉えてパッケージングされたシステムを創ろうとしたのですが
その時の所長は、今のシステムでもそこそこ売れているのに
改めて高額な開発費をかけて危険を冒さなくてもよいのでは、と言う考えでした
それでわたしは実際に売っている営業を巻き込んで
何とか新しいシステムを創り直しことに漕ぎつけました(^O^)
そこから始めのころは
販売するマシンの切り替えの都度使用言語も代わるので3~4年毎に
後にはCOBOLやBASICといった統一言語になってきたので
もうすこし開発スパンは伸びましたが
最初の会社で7世代、二社目で3世代、最後の会社で1世代の
計11世代のシステム改編を43年に渡って繰り返してきました
第五世代のシステムを創るころ
その年の初めの頃には、本屋さんの生産管理の棚に2冊ほどのMRPの本があったのが
その年の暮れには、平台にMRP関連の本が並べられていたのですが
わたしのシステムでも、私の自身の使用でMRPもどきのシステムを組み込みましたし
構成展開もサマリー法からストラクチャ法へと変換させたり
BOMやSNといったロジック等すべて自分で考えて手作りで実装していきました
多分、生まれたのが5年早くても、5年遅くても
需要がなかったり、マシンの性能がなかったり
または既にシステムが、ロジックが出来上がっていて
いまさら自分で考える必要が無かったり、コスト的に認められなくなっていて
自分で新たにロジックを創ることは出来なかったのだろうと思っています
その意味で
社会人のわたしとしては、ベストなタイミングで生を受けたのだなと思っています
でもGIDのわたしとしては、今が20代とは言わないけれど
30代、せめてまだ頭髪の問題が出ていない40代ならと願っちゃいます
でも、この頑張った社会人での実績をバックに
在職トランスを推し進められた、と思っているいて
最後まで一つ仕事をやり通して
最終的には”天職と思えたお仕事を、想いの性で全うする”ことに
なんとか間に合わせられたのかな、と思っています
松永先生の言う
性同一性の自我同一性への統合を行って
“自分らしい独自の生き方を創造”できたのかな!
多少無理狐狸のこじつけポイところもありますが
小学四年生のころのほぼ同じころに気が付いた
(HWがSWに変わってはしまいましたが)コンピュータ技術者になることと
女の子へのあこがれという
わたしの自我の二つの大きな側面である仕事とジェンダーに関する想いを
会社人としての最後に、曲がりなりにもなんとか統合して成し遂げられたのは
とっても幸せなことだと思います(^O^)
今日も遅くなり、文章もただただ長くなってしまいましたので
今回はここまでとします
ただもう少し仕事への取り組み方で書いておきたいこともあるので
それはまた次の時にでも書かせてもらいます(^O^;)